第4話 サレ妻、寝落ちる。

「ハナさん、ハナさーん。起きてください。〝そろそろ帰らないと家族が心配するぞ〟とラーミが言ってます」


「ひゃえっ!?」


「……」


 肩を揺さぶられたハナはすっとんきょうな声をあげて飛び起きた。見るとルイは困ったように微笑んでいるし、その後ろにはラーミの呆れ顔も見える。


「ワフ、ワフッ!」


 コカだけは上機嫌でもふもふの尻尾をバッサバッサと音がするほどに振っている。ものすごーく満足げなコカをじっと見上げたあと、状況を理解したハナは――。


「~~~っ!」


 声にならない悲鳴をあげながら両手で顔を覆った。


「だから言ったでしょ。コカはなかなかの強敵だって」


「ルイさんの仰っていた意味がよくわかりました。よーーーくわかりました!」


 試験だと言われて始めたコカのブラッシングはほんの二、三きしただけで終わってしまった。猫に比べるとかたいけれど、それでももふもふで温かな被毛。太陽と草の匂いと共に鼻腔をくすぐる獣臭。


「ワフ?」


 首をかしげてハナを見下ろすコカの目は〝吸っていいんだよ? 吸わないのかい?〟と言っているようで――。


「ちょっとだけ……ほ、ほんのちょっとだけ……」


 誘惑に耐えきれずに顔を埋めたら、もうダメだった。

 前世ぶりのもふもふの感触と匂いにうっとり。猫吸い犬吸いならぬ聖獣吸いを満喫しているうちに意識が途切れ、そのまま熟睡してしまったのである。

 コカを見上げた、そのまた後ろには夕焼け空が広がっている。下の方は赤色だけど上の方は紺色の、夜に近い夕焼け空。十四時頃にこの屋敷に到着したからたっぷり三時間は寝てしまった計算になる。


「あの、試験の結果は……」


 試験の真っ最中に熟睡するなんていう失態を犯したのだ。一発不合格の可能性は十分にある。ハナは不安げな表情でコカを見上げた。背筋を伸ばしておすわりしたコカは威厳たっぷりに目を閉じた。

 かと思うと――。


「ワフッ!」


「〝また明日、同じ時間においで〟って言ってます」


 威厳たっぷりな雰囲気を作ったのはなんのためだったのか。尻尾を振り振り、満面の笑顔にしか見えない顔でひと鳴きした。


「……よろしいんですか?」


「コカがそう言ってるんです。いいに決まってます。というわけで明日も待ってますね、ハナさん」


 ついでにルイもニッコニコの笑顔だ。試験の合否判定基準はなんなのだろう。疑問に思いながらもハナはうなずいた。


「えっと、それでは……また明日、よろしくお願いします」


「ワフッ!」


「〝今日こそはちゃんとベッドで寝るんだよ〟とコカが言ってます」


「……はい」


「……」


「それと〝七日後は用事があるだろうから試験は休みだ〟とラーミが。それじゃあ、また明日」


 手を振るルイと黒い尻尾を振るコカ、金色の目で静かに見つめるラーミに令嬢らしく優雅に一礼したハナはモーリンと馬車が待つ敷地の入口へと小走りに向かいながら、ふと首をかしげた。一体、試験は何日続くのだろうかという疑問もある。

 でも、それより何より――。


「……七日後、予定なんて入っていたかしら」


 ***


 自宅に戻る頃にはとっぷり日が暮れていた。夕食の時間にも大遅刻である。

 心配をかけたくないからレオのアレな性格についてはモーリン以外、誰にも――家族にも話していない。だから、〝聖獣の側室〟の試験を受けに行っていることもモーリン以外には秘密にしていた。

 行き先も告げずに出掛けて夕飯に大遅刻したものだから家族にも屋敷のみんなにもずいぶんと心配をかけてしまった。申し訳ないと思いつつ、ついついハナの頬は緩んでしまう。

 そして、改めて思うのだ。


 優しい彼ら彼女らに迷惑も心配もかけないようにしなければ、と。


 ***


「モーリン。今日、届いた手紙を持ってきてくれるかしら」


 自室に戻り、寝着に着替えたハナにそう言われてモーリンは渋い顔になった。


「もう夜も遅いですから明日になさってはいかがですか」


「昼間に寝てしまったせいでまだ眠くないのよ。……大丈夫。眠くなったらすぐに横になるから」


「ベッドで、ですよ。お嬢様」


 にっこりと微笑んでうなずくハナをまだ疑いの目で見ながらもモーリンは手紙を確認するために屋敷の一階へと向かった。


「……っ」


 モーリンの背中を微笑んで見送ったハナはふと、めまいを感じて壁に手をついた。頭はふわふわとして体は重い。もふもふに包まれて三時間熟睡したのに、それでもここ一週間の睡眠不足は解消できなかったらしい。

 でも、明日も〝聖獣の側室〟の試験を受けに行くことを考えると今夜のうちに届いている手紙に目を通しておきたかった。


「お嬢様、お持ちしました。……ちょっとでも眠くなったらすぐに横になってくださいね。ベッドで、ですよ」


 モーリンが念を押したのは差し出した手紙の束がそれなりの量だったから。手紙の束を見たハナの表情が一瞬、困ったような微笑みになったからだ。


「わかってる。……わかってるから」


 ハナの苦笑いにそれでもジトリとした目で何度も振り返りながらモーリンは部屋を出て行った。ようやくドアが閉まったのを見てハナは苦笑いしながら書き物机に向かった。


「……ふぁ」


 あくびを噛み殺しながら送り主の名前を確認して、ペーパーナイフで封を開ける。内容に目を通して、すぐに返事を書かなければいけない手紙と猶予のある手紙とに仕分けていく。

 と――。


「アデレード様?」


 社交界でそれなりに親しくしているグレイヴス侯爵家令嬢からの手紙にハナは首をかしげた。


 ――近いうちにお茶でもいかがかしら。

 ――顔を見てお話したいことがあるのです。

 ――七日後の午後なんてどうかしら?


 手紙の内容を確認するとそんなようなことが書いてあった。アデレードらしい美しくも凛とした、迷いのない筆跡を見つめてハナはさらに首をかしげた。


 お茶会に誘われたことはこれまでに何度もあるけれど、いつも一か月も二か月も前に招待状が届く。七日後なんて急な招待は一度もなかった。

 グレイヴス侯爵家の領地では縫製業が盛んで、特にアデレードがデザインしたドレスは社交界でも大人気だ。今回、ハナが着る予定のウェディングドレスもアデレードにデザインをお願いしているからその話かとも考えたけれど――。


「あとは完成をお楽しみに、と言っていたし」


 一週間前に仮縫いと試着が終わって本縫いに入っている。そもそもアデレードはドレスのことで何かあるなら〝お茶でもいかがかしら〟なんて遠回しな言い方はしない。

 そう言えば――。


「ラーミ様が用事があるだろうから試験はお休み、と言ったのも七日後……」


 ラーミには未来視の能力でこの未来が見えていたのだろう。それなら悩んでいるよりも招待を受けた方がいいだろう。ハナは戸惑いながらもペンを取り、アデレードへの返事を書き始めた。


 ***


「今日も完全敗北でしたね」


「はい、完全敗北でした!」


「ワフッ」


「〝アタシとの約束を破ってベッドで寝なかったからだよ。懲りない子ね!〟とコカが言ってます」


「はい、申し開きのしようもございません」


 顔を両手で覆って耳まで真っ赤にしているハナを見下ろしてルイはくすくすと笑い声をあげた。あとをついてくるコカもバッサバッサと音がするほどに尻尾を振っている。叱りつけるような言葉のわりに上機嫌だ。


 この六日間の流れは初日とほぼ同じ。

 コカの試験だと言ってルイにブラシを渡され。今日こそはと意気込んで庭に向かうのだけど、コカに鼻先で背中を押されてもふもふの黒い毛に倒れ込み。寝てなるものか、ブラッシングを……と抵抗するハナを嘲笑うように尻尾で頭をなでられ、頬をくすぐられ。

 結局――。


「一きもしないまま三時間も熟睡してしまうなんて!」


「試験中なのにね」


「試験中なのに!」


 というわけである。

 初日同様、ルイに起こされ、空が赤くなっているのに驚いて、玄関へ――敷地の入り口で待つモーリンと馬車のもとへと足早に向かいながらハナは内心、半泣きになっていた。

 先に立って歩くルイはニコニコ顔。試験内容であるブラッシングをまったくしていないのにコカも満足げな顔をしている。

 これはもしかして――。


「わたくしを不合格にするための罠……?」


「ワフ?」


「深読みしなくて大丈夫ですよ、ハナさん」


 大真面目な顔でつぶやくハナにコカは小首をかしげ、ルイは苦笑いした。


「ハナさんの睡眠時間が十分に足りていればコカも大人しくブラッシングさせてくれます。まずは生活習慣を見直すことが試験合格への第一歩。以上、先輩からのアドバイスです」


「ありがとうございます、先輩。肝に銘じます。それでは……」


 ハナは帰る前の一礼をしようと玄関先で足を止めて振り返った。


「ワフッ!」


 ルイの言葉に同意するようにコカがひと吠え。尻尾をばさりと振った――拍子に起こった風で玄関脇の机に封も切らずに積んであった手紙がばさりと雪崩を起こした。手紙は机から落ちるだけでなく床を滑っていく。

 あちゃ~……とつぶやきながらルイは遠くへと滑っていった手紙を追いかけてハナに背中を向けた。

 そして、ハナは――。


「せめてどこかにしまった方が良いのではないですか」


「ワフ」


「そうですね、場所を考えま……って、あぁ~! 待って、ハナさん!! 見ないで、拾わないで!!!」


「……え?」


 自身の足元に滑ってきた手紙を拾い上げようとつかんだ態勢でハナは固まった。コカに何か言われたのだろう。慌てて振り返ったルイが足をもつれさせながら駆けてくる。

 見るな、拾うなと言うのだから手を放すべきなのだろう。でも、一度、拾い上げたものを床に落とすというのも気が引ける。見ないように気を付けてルイの手元に――。


「……モーリン?」


 と、思っていたのにうっかり視線を落としてしまった。そこに見知った名前が書いてあれば思わず声に出してしまうし、二度見もしてしまう。

 前世の――日本の手紙は封筒の表に宛先を、裏に差出人を書くけど、この国では表に宛先も差出人も両方書く。モーリンの名前は左上に書いてあるから差出人。住所も住み込みで働いているバデル公爵邸――ハナの家になっているから侍女のモーリンでまちがいない。

 そして、右下に書かれた宛先は――。


「〝リリィ・スノウ様〟? リリィ・スノウって確か、モーリンが大好きな恋愛小説家……」


 呆然とつぶやいて顔をあげたハナが目にしたのは顔を両手で覆って耳まで真っ赤にしたルイと、バッサバッサと音がするほどに尻尾を振りながらルイの背中を鼻先で突いているコカ。

 それから――。


「……」


 ハナとルイ、コカの顔をぐるりと見回して、ふー……とため息をつくラーミの姿だった。

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