第3話 サレ妻、訪れる。
「……ふぁ」
ハナが漏らしたあくびに侍女であるモーリンの眉がぴくりと跳ねる。
馬車は街を抜け、整備されていない道をガタガタ揺れながら走っていた。
「お嬢様、移動中くらい休んでください。結婚式の準備で忙しいのはわかりますがもう一週間以上、ベッドに横になっていませんよね」
「心配してくれてありがとう、モーリン。でも、この手紙の返事だけ書いてしまいたいから」
「ていうか、それ。新郎であるあの男が返すべき手紙ですよね」
「……」
責めるような目で見つめるモーリンにハナはそろそろと目をそらした。
――これもやっておいて。よろしく、正室さん。
そんな手紙がレオから届くたびに体の力は抜けて心もどろりと重くなる。レオへの返事を考えるよりもやっておいてと言われたことをやってしまう方が楽なのだ。
そんなハナの胸中を見透かしてモーリンはさらに目をつりあげた。でも、目をそらしたままぎこちなく愛想笑いするハナを見てため息を一つ。
「お嬢様がそれで良いのでしたらあの男の態度についてはこれ以上、何も申しません。〝聖獣の側室〟の試験を受けることにも反対いたしません。例え、猛獣のお世話係だろうと現在唯一の〝聖獣の側室〟が貴族たちの暴露小説を書いては破滅に追い込む鬼畜だろうと、です」
「ありがとう、モーリン」
「ですが、せめて私たち使用人やご家族をもう少し頼ってください。具体的に言うなら夜はベッドで横になれる程度に、です」
子供に言い聞かせる母親のようなモーリンの表情にハナは目を細めて微笑んだ。
「わかったわ、モーリン。でも、大丈夫よ。〝聖獣の側室〟の試験を受けるのはわたくしのわがままだもの。それにレオのことも……大丈夫」
「……全然わかってないじゃないですか」
「え……?」
「なんでもありません。とにかく! 今夜こそはベッドで寝てくださいね、お嬢様」
そう言ってツーンとそっぽを向いてしまったモーリンに首をかしげたハナだったけど、窓の外の景色がすっかり森へと変わっているのを見てみるみるうちに不安げな表情になった。
「〝聖獣の側室〟の試験を受けたいと手紙を送ったけどお返事をいただけないまま来てしまったのよね」
初代国王と共に荒野にやってきて不思議な力でドルシア国建国を助けたとされる二頭の巨大な――オオカミに似た姿の獣。
それが聖獣ラーミとコカだ。
初代国王が存命だった約二百年前には聖獣のお世話係は数十人といたという。しかし、聖獣の不興を買ったのか。辞めさせられたり、試験で不合格になる者が続出。今では試験を受ける者もほとんどおらず、〝聖獣の側室〟は空席のことも多い。
五十年前までは毎年秋に行われていた〝聖獣の側室〟の試験も今では年齢問わず、身分に関わらず、誰でも、いつでも受けられることになっていた。
だからこそ、試験を受けに行きたいと手紙で知らせたのだけれど一週間待っても二週間待っても返事がないのだ。
「許しもなく屋敷に押し掛けるなんて失礼なことをして……試験を受ける前に不合格になってしまうかしら」
「その時はその時です。〝白い結婚〟という手段も、お父上に洗いざらい話してあの男との婚約を破棄するという手段もあります!」
食い気味に、身を乗り出して言うモーリンにハナは苦笑いする。試験を受けることに反対はしないと言いながらも内心では相変わらず大反対なのだろう。
「ねえ、モーリン。滅多に合格者の出ない〝聖獣の側室〟に選ばれることはとても名誉なことだし、陛下から恩賞を賜ることもできる。トンプソン家との政略結婚を反故にしてもバデル家は安泰。お父様にも領民のみんなにも迷惑をかけないで済むの」
合格しなくても猛獣のお世話係なんて言われている〝聖獣の側室〟の試験を公爵家令嬢自らが受けに行ったと噂になれば社交界はこう考えるはずだ。
――聖獣の側室になってでも婚約破棄しようと考えるほどあの子息との結婚が嫌なのか。
――何か、とんでもない問題があるのではないか。
不合格だったとしてもレオに一矢報いることはできる。
でも、できることなら――。
「
ハナに手を握りしめられ、じっと見つめられればハナのことを実の妹のように可愛がっているモーリンには振り払うことなんてできない。
うぐぐ……! と唸り声をあげたあと――。
「わかりました……わかりましたよ、お嬢様! 合格できるようにお祈りしております!」
モーリンは降参を宣言した。
「ついでにお嬢様を不合格にしたら聖獣とあの男に神の鉄槌が下るよう呪っておきます」
「モーリン、聖獣は……ラーミ様とコカ様は呪っちゃダメ」
真顔で怖いことを言うモーリンにハナは真顔で首を横に振って見せた。
目的地に到着したのだろう。馬車がゆっくりと動きを止めた。
***
「ようこそ。お待ちしてました、ハナさん!」
ハナがドアノッカーに手を伸ばすよりも先に玄関ドアが開いた。まるで来ることがわかっていたかのようなタイミングで開いたドアに目を丸くする。
出迎えたのは金髪碧眼の顔立ちだけは王子様然とした青年だ。顔立ちだけは、というのは庭師のようにラフな服装をしているからだ。
やけにキラキラした目で見つめる青年にハナは困り顔で微笑んだ。青年のキラキラした笑顔はみるみるうちに曇っていく。
でも――。
「ワフッ! ワフ、ワフッ!」
「そ、そうだよね! 覚悟していたことだもの!」
何を言われたのか。何を覚悟していたのか。青年はガバッと顔をあげて拳を握りしめた。
そんな青年の後ろでは――。
「ワフッ!」
視界をすっかり遮るほどの大きな黒いオオカミがバッサバッサと音がするほどに尻尾を振ってハナを歓迎していた。青年も黒いオオカミも同じように人懐っこい雰囲気をまとっている。
ほっと頬を緩めそうになって、ハナは慌てて表情を引き締めると優雅に一礼して見せた。
「わたくしはバデル公爵の娘、ハナ・バデルです。突然お邪魔してしまいもうしわけありません。何度かお手紙を差し上げたのですが……」
「気にしないでください。手紙は読んでないけどハナさんが来ることはわかってましたから」
読んでいない? と首をかしげるハナに青年はにっこりと微笑んで玄関を入ってすぐのところに置かれた机を指さした。
未開封の手紙が雪崩を起こしている。
「聖獣が〝不思議な力〟でドルシア国建国を助けたことはご存知ですか」
「……えぇ、まぁ」
「その一つが過去視と未来視。その力でハナさんがやってくることはわかっていたというわけです。手紙を読んでいなくても!」
「な、なるほど……?」
「というわけで……さ、こちらへ。早速、試験を始めましょう」
手紙を読んでいなくてもハナが来るとわかっていた理由はわかったけれど、それはさておき未開封の手紙を雪崩が起きるほどに積んでおくのはどうなのだろうか。歩き出す青年と黒いオオカミのあとを追いかけながらハナは苦笑いした。
「申し遅れました。俺はルイ。世間的には〝聖獣の側室〟と呼ばれてます」
そして、貴族たちの暴露小説を書いては破滅に追い込む鬼畜とも呼ばれている青年――ルイの人の良さそうな横顔をハナはまじまじと見つめた。人は見かけによらないのか。はたまた人の噂はあてにならないのか。
「そして、こちらがコカ。聖獣夫妻の妻の方」
「ワフッ!」
猛獣のお世話係とも呼ばれている〝聖獣の側室〟だけど当の聖獣――コカに猛獣感は少しもない。ふっさふっさと揺れる黒毛の尻尾をハナは頬が緩みそうになるのを堪えながら見つめた。
やっぱり人の噂はあてにならないのかもしれない。
「聖獣夫妻の夫の方、ラーミは中庭で待ってます」
ハナに対して話すよりもよほど砕けた口調で聖獣二頭の紹介をしながらルイが廊下の角を曲がる。後に続いて角を曲がった――瞬間、視界が開けた。
穏やかな陽が差し込む庭には背の低い柔らかな青草が生え、小さな可愛らしい花が点々と咲いている。中央には大樹が一本、伸び伸びと枝を広げて木陰を作っている。大樹の足元には真っ白なオオカミがゆったりと伏せていた。
コカよりもさらにひとまわり大きいオオカミの姿を見た瞬間、ハナは息を呑んだ。前世の家族、ノエルと瓜二つだったからだ。
「……」
立ち尽くすハナをじっと見つめたあと、真っ白なオオカミ――ラーミはフン! と鼻を鳴らしてルイに視線を移した。ラーミの視線に気が付いたルイは苦笑いでハナに向き直る。
「〝お前がその家族を大切に思っているのはわかるが私と彼は別物だ。重ねるな〟とラーミが言ってます」
驚いた表情のハナを見返してラーミは再び、フン! と鼻を鳴らすと前足にあごを乗せて目をつむってしまった。早速、不合格に一歩近付いてしまったかもしれない。青ざめるハナの目の前に犬用のブラシが差し出される。
「ワフッ!」
「〝まずはブラッシング〟とコカが言ってます」
反射的にブラシを受け取って顔をあげるとルイがにっこりと笑っていた。
「試験、頑張ってください。コカはなかなかの強敵ですよ。それにラーミの試験はハナさんの苦手分野だと思いますし」
「苦手分、ひゃ……!?」
「ワフッ!」
聞き返すよりも先にハナは黒くて艶やかでもふもふな被毛に倒れこんでいた。ラーミの隣にゆったりと伏せたコカが鼻先でハナの背中を押したのだ。倒れこんだ先はコカのお腹。
「それじゃあ、僕は書斎にいますね。何かあったら声をかけてください」
「ワフッ! ワフ、ワフッ!」
目を白黒させているハナをよそにルイはひらひらと手を振って室内に戻ってしまうし、コカは上機嫌で尻尾を振っている。
そして、ラーミはと言えば戸惑うハナを薄目を開けて一瞥。
「……」
ふー……とため息をつくと再び目を閉じたのだった。
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