第2話 サレ妻、決意する。

「前世も今世も私はあなたにとって都合の良いお飾り妻、ということね。〝私とのささやかな幸せ〟なんて結婚する前から少しも考えていない」


 レオ・トンプソンが側室に迎えると言って差し出した二枚の絵姿。そこに描かれている二人をハナは社交界で見かけたことがあった。


 王宮医師フランシス侯爵と側室の娘――レナ・フランシス嬢。

 豪商グリフィス家の跡取りと目される一人娘――カレン・グリフィス嬢。


 遠目に見かけたことしかなかったけど挨拶でもしていたらその時点で前世の記憶を思い出していたのだろうか。


 レナ・フランシスが怜央と不倫していた実妹、望月 玲奈であることを。

 カレン・グリフィスが怜央と不倫していた大家の奥さんの姪、花崎 加恋であることを。


 どろりと重くなる胸を押さえてうつむいていたハナは――。


「前世もって……なんだ、花奈も前世の記憶があるのか!」


 レオの言葉にハッと青ざめた顔をあげた。


「花奈も転生してるなんて……しかも、また俺の奥さん。もう、これは運命でしょ。今度は階段から転げ落ちるなんて間抜けな死に方して早死にしないでよー」


 レオ・トンプソンは――前世の夫である怜央はと言えばケラケラと笑いながらそんなことを言った。

 前世でもこうだった。言葉選びに配慮が足りないだけで悪気はないのだと信じていた。けど、出会いからすべてが嘘だったとわかって気が付いた。

 軽んじられていたのだ、花奈は。


「花奈が死んでから大変だったんだぞ。加恋と玲奈ちゃんは自分が俺と再婚するんだって言って揉め出すし。花奈の両親はウチの孫は絶対に医師にする! ってしゃしゃり出て来るし」


「……」


「アイツらも医大だって国家試験だって余裕で合格できるくらい頭いいのに医師にはならないって言い出すしさ。おかげで花奈の両親、カンカン。三つ子の魂百までって言うけど花奈が幼児教育に失敗したせいで反抗的な子に育っちゃったんじゃないかなー」


 足をくんでソファにふんぞり返った怜央は深々とため息をついた。


「でも、まぁ、過去の話は水に流して未来の話をしないとね」


 かと思うと身を乗り出してにっこりと笑った。


「実はさ、加恋と玲奈ちゃんも前世の記憶があるんだよ。でも、前世でそんな感じで揉めてたからさ。加恋にも玲奈ちゃんにもお互いの存在、気付かれるわけにはいかないってわけ」


「……〝上手いことよろしく〟というのは玲奈と加恋さんに二股がバレないように協力しろということですか」


「二股なんて人聞きの悪いー。それに花奈のこともちゃんと愛してるよー」


 つまり三股ということですか、という嫌味はため息と共に宙に解けて消えた。言うだけ無駄だ。


 前世を覚えていないのなら仕方がない。

 覚えていたとしても謝罪してくれるなら、せめて気まずそうな顔をしてくれるなら前世と今世は別と水に流そう。


 そう思っていたけれど三つ子の魂百まで。前世の魂今世まで、らしい。

 これはつまり、なんて言うか――。


 ***


「前世で願って叶わなかった穏やかで温かい家庭を築きたい……なんて今世も夢のまた夢じゃない」


 馬車に揺られながらハナは深々とため息をついた。

 トンプソン邸を出て実家であるバデル邸へと戻る道中だ。この場にいるのは侍女のモーリンだけ。両親が別の馬車で先に帰ってくれていてよかったと思う。両親の前では思う存分、ため息なんてつけない。


「お嬢様、あの男の態度はなんなんですか? 結婚前から側室の話をするなんてどういう神経をしているんですか? しかも二人? お嬢様と我がバデル公爵家にケンカを売っているとしか思えません。お父上に話してこの婚約は破棄してもらいましょう、そうしましょう」


 三つ年上の、実の姉のように慕う侍女が静かにブチギレているのを見てハナは目を丸くする。でも、そのうちに肩の力が抜けて苦笑いがもれた。自分よりも緊張している人を見ると緊張がほぐれると言うけれど怒りもそうなのかもしれない。


「怒ってくれてありがとう、モーリン。でも、お父様には言わないで」


 この結婚はもとより政略結婚。バデル公爵家令嬢がトンプソン男爵家に嫁がなければ領民が飢えて死ぬことになる。ただでさえ娘の結婚に負い目を感じている父にこれ以上、心配をかけたくはなかった。

 不満げな表情のモーリンだったけどハナの有無を言わせぬ微笑みにため息を一つ。渋々といった様子でうなずいた。


「それにしても、お嬢様が転生者というのには驚きました。それ以上にろくでもない人生ぜんせだったことに驚きましたが」


「……モーリン。本当のことを言われると人って傷付くものなのよ?」


 詳しく前世のことを話したわけではないけれどレオとの会話で察したらしい。真顔で胸を抉って来る侍女にハナは乾いた声で笑った。

 ちなみにモーリンがハナとレオの会話の内容を知っているのは心配のあまり隣の部屋の壁にへばりついて盗み聞きしていたからである。 


「自己肯定感が低かったのよ、前世のは。だから、ろくでもない人生を許容してしまった。でも、今世のわたくしは違う。お父様やお母様、お兄様やお姉様……それにモーリンにも。たくさん愛されて大切にされたおかげで富士山程度には自己肯定感が育ってる」


「フジサン?」


「前世の私が生まれ育った国で一番高い山の名前よ」


 胸を張るハナにモーリンは澄ました顔ですかさず言い返した。


「お嬢様は我がバデル公爵家の可愛い可愛い天使。ご家族にとっても私にとってもかけがえのない存在なんです。山程度の肯定感じゃ足りません」


 モーリンにきっぱりと言われて目を丸くしたあと、ハナはくすりと笑い声を漏らした。

 前世の花奈にはなかったけど今世のハナには自分を肯定できるだけの自信がある。肯定してくれる人たちがいる。前世のようにろくでもない人生を許容するつもりはない。


「……というわけで! あんな男の頼みを聞いて、大人しくて都合の良いお飾り妻になんてなるつもりはありません!」


「でも、お父上に話すつもりもないんですよね。では、〝白い結婚〟ですか?」


 モーリンの言葉にハナは考え込むように目を伏せた。


 夫婦の営みがない書類上だけの結婚。

 それが〝白い結婚〟。 


 〝白い結婚〟にすると決めて妻としての役目を放棄してしまえばレオとも、カレンやレナとも関わり合う機会はぐっと減る。でも減るだけで全くないわけではない。

 それに――。


「それでは前世と変わらない」


 つぶやいてハナは顔をあげた。背筋を伸ばして真っ直ぐにモーリンの目を見つめる。


「モーリン。わたくし、〝聖獣の側室〟を目指そうと思うの」


 凛とした微笑みを浮かべるハナをきょとんと見つめていたモーリンは一拍。


「〝聖獣の側室〟!?」


 目をむいて叫んだ。


「お嬢様、正気ですか?」


「正気よ、モーリン」


「〝聖獣の側室〟って猛獣のお世話係ですよ!? しかも現在唯一の〝聖獣の側室〟は貴族たちの暴露小説を書いては破滅に追い込む鬼畜という噂ですし……ってお嬢様! お嬢様、聞いてらっしゃいますか!?」


「きちんと聞いているから大丈夫よ」


 なんて答えながらハナはうわの空で窓の外を流れていく王都の街並みを眺めた。

 そう言えば前世で死ぬ直前、駅で数年振りに若先生に――元職場である榎本動物病院の院長の息子さんに会った。


「大丈夫ですか、花奈さん。ひどい顔色ですよ?」


「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」


「大丈夫って……連絡も取れなくてずっと心配してたんです」


「ごめんなさい。今度、必ず連絡します。今は急いでいるので……」


 心配してくれる若先生を振り切るように花奈はその場を離れてしまった。本当に急いでいたのだ。小学校のお迎えの時間に遅れそうだったのだ。

 でも、ふとノエルの顔が頭をよぎった。


 ――そうだ、ノエルのことを聞かなきゃ。


 そう思ってきびすを返そうとした瞬間、めまいに襲われ、階段から落ちて死んでしまったのだ。

 どうしてあの時、ちょっと足を止めて若先生に聞かなかったのだろう。望月 花奈だった頃の記憶が蘇ったことで死ぬ間際に浮かんだ後悔も蘇ってきた。


「ノエルは元気に……幸せに暮らしてたのかしら」


 自分が弱かったばかりに手放してしまった大切な、唯一の家族。

 ハナはぽつりとつぶやいたあと、ゆるゆると首を横に振って目を閉じた。


 だって、もう――その答えを聞くことも、大切な家族に会いに行くこともできないのだから。


 ***


「ワフッ!」


 一心不乱に机に向かっていた青年はハッと顔をあげると振り返った。金色のクセ毛がさらりと揺れる。青年が青い瞳で見つめたのは小屋ほどの大きさがある二頭のオオカミだ。

 一頭は真っ黒なオオカミでバッサバッサと音がするほどに尻尾を振っている。吠えて青年を呼んだのもこちらの黒いオオカミだ。

 そして――。


「……」


 もう一頭の真っ白なオオカミは金色の瞳で静かに青年を見つめていた。


「そう、やっと……やっと彼女・・に会えるんだ!」


 金色の瞳を青色の瞳で見つめ返しているうちに青年の表情がキラキラと輝き始めた。


「今世は絶対に、彼女のことを……!」


 決意をこめるように静かに、強く両の拳を握りしめる青年を見つめて黒いオオカミはバッサバッサと何度も、白いオオカミはひらりと一度、尻尾を振ったのだった。

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