襲撃


 なでしこジャパンがFIFA女子ワールドカップで劇的な優勝を飾り、暗澹あんたんとしていた日本が喝采に湧く中、テレビは間もなくアナログ放送からデジタル放送へと移行した。明るい兆しが災厄に見舞われた日本を照らしつつある陰で、陰惨な連続殺人事件が東京の渋谷で起こっていた。

 福島第一原子力発電所の動静や東北地方の復興に関するニュースに紛れ、主に女性を標的とした連雑猟奇殺人事件が報じられた。いずれも被害者は耳を千切り取られており、両目を鋭利な凶器で刺し貫かれていたという。

 当初は無差別な通り魔的犯行かと思われたが、インターネットやSNSを通じてとある噂が流れた。曰く、犯人はピアスをした女性に狙いを絞っている。名もなき目撃者によれば、くだんの殺人鬼は両目を包帯で隠していたという。

 瞬く間に噂は蔓延し、新たな都市伝説へと発展した。ピアスの穴から出た白い糸を抜いて失明した女性が、逆恨みからピアスをした女性にこう問いかけるのだ。

「ねえ、あなたピアスしてる?」

 肯定すれば耳を齧り取られ、鋭い凶器で目を潰されてしまう。渋谷の女性たちはその都市伝説を信じ、ピアスをした者が街中から消えた。

 無理もあるまい。警察の懸命な捜査にも関わらず、現在進行形で犠牲者は増え続けている。

 同窓会から帰って以来、緋乃瞳はパソコンのモニターと睨み合う時間が増えた。検索エンジンの履歴は、「耳から白い糸」と「耳かじり女」に関連する語句ばかりだ。

 パソコンのマウスが滑り、鳥の形をしたアイコンが画面の中を飛び回る。クリックされたサイトは、おどろおどろしい演出と赤い文字に彩られたものばかりだ。総じて黒を基調とした背景で、無気味な女の顔が浮かんでいたりした。

『渋谷連続殺人鬼の正体! 耳かじり女』

 そう題された項目に飛ぶ。巷を騒がせている連続殺人犯の正体について、荒唐無稽な考察がなされていた。

「耳かじり女」とは「耳から白い糸」から派生した後日譚で、その内容は現実で起こっている殺人事件をあたかもなぞっている。

 以降は、何の脈絡もない属性が付与されていた。曰く、常にマイナスドライバーを握り締めて獲物の眼球を抉る。曰く、百メートルを六秒で走るために狙われたらまず逃げられない。曰く、光に弱いために日中は下水道に隠れ棲んでいる。曰く、ベッドの下から現れる――。

 どこかで聞いた話ばかりだ。オカルト専門家を自称する管理人のサイトではトップに『人は見たいものを見る』と銘打ち、一人歩きをする「耳かじり女」について長々と考察していた。

『現在流行している耳かじり女の都市伝説は、本来は耳から白い糸という完成度の高い都市伝説に付け加えられた、出来の悪い蛇足である。ヒットしたホラー映画の二作目が駄作で終わることが多いように、名作に対するある種の冒涜に過ぎないのだ』

 管理人は随分と偏屈な価値観の持ち主らしい。あまり意味のない、愚痴めいた文章を読み飛ばして、瞳はサイドバーをスクロールする。

『渋谷で発生している連続猟奇殺人事件と手口が酷似していることも相まって、一気に耳かじり女の名前が世間に知れ渡った訳だが、原型となる都市伝説ではこの怪人が人間の身体能力を遥かに超えているという特徴は見受けられない。

 いずれも、口裂け女、マイナスドライバーの怪、下水道の白いワニ、ベッドの下の男といった有名な都市伝説の要素が付与されている。恐らく匿名のSNSやインターネットの掲示板を通じて面白可笑しく脚色された悪ふざけが不特定多数の人間によって流布されたのだろう』

 しばらくマウスを動かす手が止まった。大きく見開かれた瞳の網膜に、文字の羅列が歪曲して映っている。赤色の文字を反映して、赤い目にも見えた。

 ぎこちない指先で、マウスホイールを回した。

『かくも馬鹿馬鹿しい噂話が真実味を帯びて受け入れられるのは、今年三月に発生した東日本大震災に端を発する世情不安によるものに違いあるまい。かつて関東大震災が起きた1923年、混乱に陥った市民が「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こす」というデマを鵜呑みにし、朝鮮人と彼らに誤認された日本人をも虐殺するという忌まわしい事件が起こった。

 人間というものは日常からかけ離れた状況に置かれると理性をなくし、盲目になってしまう。面白半分に都市伝説を流布した者たちは肝に銘じなければならない。

 ただの噂で、人は死ぬのだ。

 社会不安が蔓延すれば都市伝説の温床おんしょうとなる。現在渋谷で流行している耳かじり女は、言わば都市伝説のキメラと呼ぶべき忌み子であり――」

 食い入るようにモニターを見つめていた瞳は、鳴り響いた玄関のインターホンに肩を震わせた。黙した玄関のドアを恐る恐る振り返る。ベランダの外は暗く、とうに二十一時を過ぎていた。宅配便が訪問するには遅く、来訪者にも心当たりはなかっただろう。

 立ち上がった彼女はパソコンの画面から離れる。画面が歪み、全ての文章が文字化けしていることには気づかなかった。玄関から声をかける。

「どちらさまですか」

 冷たい色をしたスチールのドアからは答えは返ってこなかった。悪戯いたずらだろうか。チェーンロックをかけていたが、隙間を覗く勇気はなかったらしく、靴を履いてドアスコープを覗く。

 嫌な予感がした。

 ドアスコープは魚眼レンズになっており、照明が点いた通路の様子が丸みを帯びて映し出されるはずだ。眉を顰めているところを見ると、インターホンを鳴らした何者かの姿は視認できなかったのだろう。

 首を捻り、ドアスコープから片目を離そうとした瞬間、レンズを突き破って何かが飛び出した。彼女の眼球に到達する寸前で、自分の襟首を圧迫する力を感じたことだろう。

 後方に引っ張られた瞳は、玄関の三和土たたきに尻餅をつく。そのまま腰を抜かして、ドアスコープを凝視した。赤錆びた工具の鋭い先端が飛び出たままだった。

 ほんの一瞬でも遅れれば、彼女の片目は確実に刺し貫かれていただろう。固唾を呑む瞳の前で、マイナスドライバーの先が激しく掻き回された。獲物を求めて暴れ狂う凶器に、瞳は迸りそうになる悲鳴を必死に押し殺す。

 その執念じみた動きを、両手で口を押さえて瞬きもせずに見つめていた。体の震えが止まらず、目尻には涙が浮かぶ。彼女にとって悪夢のような時間は、不意に終わりを告げた。

 マイナスドライバーが不意に静止し、ほとんど音もなくドアスコープから引き抜かれる。その際にどぶ水の臭いが鼻をかすめた。

 静寂が訪れたかと思った瞬間、けたたましい笑い声が響いた。泡が混じった、人のものとは思えない哄笑こうしょう。通路を跳ね回る粘着質な音とともに、そのおぞましい声は急速に遠ざかっていく。

 瞳は微動だにできず、頬を濡らす涙が乾いても放心していた。そのために、傍らに落ちる黒い羽根には気づかなかった。



 マンションの防犯カメラに「それ」は映っていた。

 凶行の餌食になりかけた瞳は、幾ばくかの冷静さを取り戻して警察に通報した。駆けつけた警官とマンションの管理人が、現場に残された破壊痕と汚水の染みからただの悪戯ではないと判断し、外廊下に設置された防犯カメラを確認することになった。

 やや画質の悪い映像には、明らかに異質な何かが佇んでいた。痩身に酷く擦り切れた患者衣を纏った女。片手には尖った工具らしき物を握っている。瞳の部屋の前で猫背で揺らめき、俯いたままインターホンを鳴らす。その直後に画像が乱れ、次の場面では女が工具の先端をドアスコープに突き立てていた。

 防犯カメラのモニターが並ぶ管理人室でマンションの管理人と警官二人、そして背後に控えた瞳は絶句していた。執拗にドアスコープのレンズを抉る行動は、明白な殺意に満ちている。

 ドアスコープから工具を引き抜くと、突如女は首を傾けて防犯カメラに顔を向ける。管理人室にいる人間たちがぎょっとした。包帯で目隠しした女は耳まで裂けんばかりに口角を吊り上げ、激しく体を痙攣させて笑う。音声は入っていないのに、あの笑い声が聞こえる気がした。

 狂った笑みを浮かべたまま、目隠しされた女は通路を跳躍し、四階にも関わらず手すりを越えて階下へと姿を消した。

 犯行の一部始終を見終えて、誰もが言葉をなくしていた。かろうじて警官の一人が呟く。

「……何だ、あの化け物」

 この場にいる人間の心境を代弁していた。

 事態は急展開を迎える。警察はこの不審者の特徴から、渋谷で発生している連続殺人犯の可能性が極めて高いと判断した。そして次の標的は、緋乃瞳であると。

 殺人鬼に命を狙われている瞳は、笹塚区の所轄署ではなく、警視庁が管轄している渋谷警察署に護送された。渋谷駅の近くにある警察署で、青山通りと明治通りが交わる交差点に位置する。地上十四階、地下四階の大規模な庁舎で、署員は約五百人を数えるという。

 彼女は狭い部屋に通された。殺風景で、窓が高い位置にあるだけだ。簡素な机を挟み、椅子が対に並べられている。鉄製の扉の傍らには直立不動で警察官が立っていた。その物々しさは保護というより、別の意図を感じさせた。

 瞳も同様の印象を抱いたのか、椅子に座ったまま膝の上で両拳を固めている。まるで今から取り調べを受ける被疑者かのようだ。

 この署内では連続殺人事件の捜査本部が置かれているはずだ。犯人に狙われているであろう瞳は重要な参考人に違いない。なのに、この違和感は何だろう。

 扉が叩かれた。入ってきた二人の刑事に、警察官が背筋を伸ばして敬礼をする。化繊のコートを着た男は顎で頷き、手を振って彼に退室をうながした。威勢の良い返事とともに若い警察官は部屋を出ていく。

 いかにも強面こわもての大柄な男は壁際に立ったまま腕組みをする。椅子に座ったのは、対照的に細身の男性だった。暗い色をした背広を着用しており、面長おもながでのっぺりとした容貌をしている。どうにも表情が読めない。

 なぜか彼はノートパソコンを机に置いた。

「お待たせしてすみませんね、緋乃瞳さん。私は、警視庁捜査一課の細雄ほそおと言います」

 二人の刑事は金の記章をあしらった黒い手帳を見せた。大柄な男は無愛想に鮫島さめじまと名乗り、確かに彼らの顔写真が載せられていた。

 瞳は困惑した様子だった。警視庁と言えば東京の警察機関を束ねる組織で、捜査第一課は強盗や殺人といった凶悪事件を取り扱う部署のはずだ。まさか本庁の刑事が出向いてくるとは思っていなかったのだろう。

 痩身痩躯の男が率直に尋ねた。

「緋乃さん、あなたが狙われる理由に心当たりはありますか」

 穏やかな口調とは裏腹に、その切れ味の鋭い眼差しは瞳の一挙一動を観察している。彼女は睫毛を伏せた。

「それは……あの子が私を恨んでいるから」

「あの子、ですか。襲ってきた人物とは面識がおありで?」

 瞳はある程度正直に話した。同窓会で知らされた、かつての親友の失明。耳かじり女の都市伝説。笹塚駅やマンションで起こったこと。後ろに控えた男が鼻を鳴らした。明らかに馬鹿馬鹿しいと思っている態度だった。

 相方の反応に構わず、細雄は尋ねた。

「それでは、あなたの高校時代の同級生――倉敷薫が渋谷の連続殺人事件の犯人だと」

「声を聞いたんです。あれはあの子の声でした」

 必死に訴えるも、彼は冷徹に切って捨てた。

「それだけでは、確かな根拠とは言えませんね」

 瞳は俯く。刑事の反応は当然だった。千葉で失明した親友が耳かじり女と呼ばれる怪人となり、渋谷で殺人を犯しているなどと、にわかには信じがたい話だ。

 面長の男は切り口を変えた。

「恨んでいる、と仰いましたね。どうして彼女があなたに恨みを抱いていると?」

「それは……私があの子が大変な目に遭っているのに何も知らずにいたから」

「本当にそれだけですか?」

 鋭い一言が狭い部屋に放たれる。瞳は思わず息を呑んだ。背後の男の眼光が彼女を射竦める。空気が張り詰めるのを肌で感じた。

 やはり、これは被害者の事情聴取などではない。被疑者に対する取り調べだ。

 細雄は机に置いたノートパソコンを開いた。

「私たちは、一連の事件をある種の模倣犯だと考えました」

「模倣犯……?」

 キーボードを叩く音が響く。

「そう。件の都市伝説を模倣し、実行に移した者がいた。インターネットで尾ひれがつくたびに犯行はエスカレートし、より残虐になっていった」

 瞳の顔から血の気が引いていく。彼は淡々と続けた。

「あまりにも犯行の手口が酷似しているために、捜査の一環で噂の大元を辿りました。すると耳かじり女の都市伝説が変容する直前に、複数の匿名掲示板でほぼ同時期に同じ内容の投稿が拡散されていることがわかりました」

 とあるサイトを開くと、細雄はノートパソコンの画面をこちらに向けた。そこにはピラミッドの頂点に目を配した画像が映し出されている。プロビデンスの目と呼ばれ、秘密結社フリーメイソンの象徴とされている。都市伝説ではアメリカのドル札だけではなく、日本の千円札にもこの印が隠されているのだという。

 そのサイトのトップには大きくこう書かれていた。

《オカルト同好会『プロビデンスの目』へようこそ!》

 長身痩躯の男は机の上で手を組んだ。その目は笑っていない。

「世間ではピアスをした女性ばかりが狙われるとされていますが、事実とは異なります。被害者は男性もいれば、ピアスをしていない女性もいる。そう、あなたのようにね」

 瞳は反射的に耳たぶを隠した。その部分に、全ての真実が収束しているかに思えた。

「一見無差別に見える被害者の共通点を洗ってみると、大変興味深い事実が判明しました。彼らのパソコンの履歴を辿ってみると、いずれも会員制のチャットルームに頻繁にログインしていたのです」

 神の全能の目を意味するという、プロビデンスの目が瞳を見透かしていた。

「あなたもよくご存じですね?」

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