再会


 同窓会当日、緋乃瞳は笹塚駅に向かっていた。

 これから地元の千葉に向かうのだろう。薄手のカーディガンに紺色のブラウス、フリルがあしらわれたスカートが揺れている。日帰りのため、荷物は肩に提げたハンドバッグのみである。

 いつになく浮き足立った様子の瞳は、渋谷の街に鳴り響くサイレンの音には気づかなかったのかもしれない。渋谷署から出発した複数の警察車両が現場へと急行していた。大勢の通行人が行き来するスクランブル交差点を抜け、明治通りを南に沿う。到着地点には稲荷橋という小さな橋があり、その真下をわずかに露出した渋谷川が流れている。

 現在は通行止めとなり、現場はブルーシートで覆われている。何人もの制服警官と鑑識員が行き交い、白と黒のツートンカラーの車両が赤色灯を回転させていた。シートのわずかな隙間からどぶ水と鮮血が入り混じった臭いが漂っている。

 また誰かが殺されたのだ。



 渋谷で発生した惨劇など露知らず、瞳は移り変わる車窓の光景に見入っていた。笹塚駅から二回電車を乗り換え、およそ一時間ほどの道程である。太平洋沖を流れる黒潮の影響を受けた海洋性気候で、冬は暖かく夏は涼しい土地柄だ。何年ぶりかになる故郷の空気に触れ、彼女は目を細めた。

 東日本大震災の発生当時、千葉製油所の設備が爆発し、道路の液状化現象が起こるなど被害は決して少なくなかった。不幸中の幸いと呼ぶべきか、彼女の家族に怪我はなく、家屋が倒壊するなどの被害も免れたらしい。

 駅には両親が迎えに来ており、娘の帰郷をこころよく受け入れた。頻繁ひんぱんに電話で連絡を取っていたとはいえ、実際に顔を見るまでは不安だったのだろう。

 父親が運転する車に乗り、かつての自宅へ向かう。年季の入った二階建ての一軒家だ。同窓会の時刻まで、久方ぶりの家族との時間を過ごすことにした。風鈴が鳴る縁側から眺める庭には雑草が茂っていた。

 以前より老けた母親が言った。

「もうこっちに戻ってきなさいな。東京も放射能で危ないらしいし、いつまた大きな地震があるかわからないでしょう。近くで良い人を見つけてもらった方が安心するわ」

 二十代半ばを過ぎても恋人を作らない娘を案じているのだろう。今なお洋品店の店員に甘んじている瞳は、曖昧あいまいに口を濁した。

 何年ぶりかの団らんを楽しんで、夕方近くに家を出た。父が車で送ろうかと提案して、瞳は遠慮した。同窓会の会場まで親に連れて行ってもらうのは気が引けたのかもしれない。

 タクシーに乗り、海岸沿いの道を走る。飯岡いいおか漁港があるあさひ市はあの日、震度五強の地震に見舞われ、三度もの津波が押し寄せたという。最後は七メートルを超える規模で、十五人もの人命が失われた。

 内陸部の建物には既に被害は見当たらない。ただし道路には所々亀裂が走っており、震災の爪痕を視認できた。瞳を乗せた車は一路、かつての学友が待つ同窓会の会場へと向かう。

 着いたのは海の夜景が望むことができるレストランで、暮れの空の下で風情のあるカンテラが洋風建築の建物を浮かび上がらせていた。貸切らしく、瞳が通っていた高校の名前が記された立て札が、段差の上に設けられた扉の前に置かれていた。

 瞳は気後れした様子だった。地元でも高級な部類に入るレストランで、場違いに感じたのだろう。少し立ち止まっていると、後ろから声をかけられた。

「あれ、もしかして瞳?」

 どこか聞き覚えのある声に振り返ると、駐車場からやってきたらしい同年代の女性が二人佇んでいた。めかしこんでいて、大人びた雰囲気を醸し出している。最初は誰だかわからなかったのだろう、きょとんとしていた瞳は級友の面影を見出して表情が華やいだ。

百合子ゆりこちゃん、礼子れいこちゃん?」

 それぞれの年月を重ねた三人は気さくに挨拶を交わす。親友とともに教室で一緒にいることが多かった二人だった。童心に立ち返り、少女のようにはしゃぐ。

「もう、顔忘れてたでしょ」

「そんなことないよお。だって二人とも変わり過ぎだもん」

「あたしはすぐにわかったよ。瞳は昔と雰囲気が同じだね」

 かしましいとはこういうことを言うのだろう。三人は思い出話に花を咲かせながら、レストランの扉を通る。受付を済ませ、赤い絨毯が敷かれた階段を上った。同窓会の会場となっている二階は広々としており、海側は一面ガラス張りとなっていた。磨かれた木目調の床にシャンデリアの光が反射している。

 立食形式で、横長のビュッフェ台には魚介類を中心としたイタリアンの料理が所狭しと並べられ、芳しい香りが鼻腔を刺激する。四方に配された丸いテーブルでは高校時代の同級生がワイングラスを手にしていた。

 店内にいるのは二十人ほどだろうか。やはり時勢もあって不参加が多かったのだろう。これだけの参加者が集まったのは幸運なのかもしれない。

 もちろん全員が親密というわけではなく、お決まりの挨拶を交わした後は気心の知れた者同士でわかれた。瞳は旧友二人と談笑しながら、そのあてどない視線は誰かの姿を探していた。

「ねえ――」

 彼女が口を開きかけたとき、マイクを握った幹事の男性が上座に立った。黒のチョッキとサテンのシャツにネクタイを巻き、焦げ茶色のスラックスという出で立ちをしている。髪はオールバックで、その立ち振る舞いは自信に溢れていた。

 人は変わるものだ。記憶の中では優等生とは言えず、授業中でも悪友たちとはしゃいでいたのを覚えている。

「本日はご多忙の中お集まりいただき、まことにありがとうございます」

 丁寧な挨拶から始まった。その神妙な表情に学生時代の彼を知る者は顔を見合わせる。思い出にそぐわず、困惑しているのだろう。

「この半年もの間、日本は大変な困難に見舞われました。東日本大震災、福島原発事故。被災者の方々は住む場所を追われ、避難所で今も辛い思いをしておられる。彼らの苦しみに寄り添い、自粛すべきときに同窓会などとんでもないと考えられた方も多くいらっしゃることでしょう」

 マイクを握り締め、会場を見渡す。参加者は一クラスにも満たず、恩師である教師の姿もない。震災後の社会において不謹慎だと見なされたのだろうか。

 幹事の男は語気を強めた。

「ですが、こんなときだからこそ我々は手と手を取り合わなければならない。亡くなった方々を悼み、喪に服しながら、それでも前を向いて歩かなければならないのです。辛いときでもお互いに手を差し伸べられる。千年に一度の大災害だろうと、そんなものに負けるほど、我々日本人は弱くない」

 思わぬ熱弁に店内が静まり返る。その沈黙は、未曾有の大災害によって崩れ去った日常の脆さに思いを馳せているかに思えた。胸を打つものがあったのか、涙ぐむ者さえいる。

 幹事の青年は照れ臭そうに笑った。

「堅苦しいことはここまでにして、今夜ぐらいはぱあっと楽しみましょう。我々の変わらない絆を祝して、乾杯!」

 高々とワイングラスを掲げる。「乾杯」の声が唱和し、一斉にグラスが打ち鳴らされる。幹事の男性に悪友たちが飛びつき、マイクが奪われた。下手な歌が会場に響き、参加者たちは笑った。

 本格的な同窓会の始まりだった。

 緋乃瞳もまた、かつての学友たちとの語らいを楽しんでいた。愛鳥が亡くなって以来、心からの笑顔を見せたのはいつぶりだろうか。

 ただその目は誰かを捜している。どこかそわそわとした素振りに気づいた旧友が尋ねた。

「どうしたの、瞳」

「あの……薫ちゃんは、欠席?」

 その問いかけに二人は顔を見合わせる。奇妙な反応に小首を傾げていると、百合子がおずおずと口を開いた。

「……知らないの?」

「え?」

「あの子ね、失明しちゃったの」

 その言葉の意味を呑みこむまで時間がかかった。テーブルにグラスを置くと、注がれた液体が大いに揺れた。

「失明って……目が見えなくなったってこと。どうして……」

 動揺した瞳が、親友の身に起こった不幸について尋ねる。彼女たちは慎重に言葉を選んでいた。

「同じ大学に行った友達から聞いたんだけど」

「失明の原因がよくわからないんだって」

「大学も退学しちゃって、そのまま入院したらしいの」

「その……精神的にきちゃったみたいで」

 二人は懐疑かいぎ的な視線を向けた。

「本当に、知らなかったの?」

 瞳は愕然とする。確かに大学と専門学校にわかれてから、倉敷薫とは疎遠になっていった。上京してから、周りに彼女の不幸を伝えてくれる者もいなかった。

 大きな衝撃を受けた瞳を慮って、礼子が言った。

「瞳、大丈夫?」

「うん……薫ちゃんは、今どこに」

 かろうじて唇を開くと、しゃがれた声が割りこんだ。

「誰も知らねえよ」

 三人の会話に口を挟んだのは、一人の男性だった。安物のシャツを着崩して、ワイングラスを煽る。既に酒臭く、顔が真っ赤だった。

「あなたは……」

 瞳は男のことを覚えていないようだった。無理もない。高校の教室ではあまり目立たず、ごく普通の男子生徒だったはずだ。アルコールのせいか、年月が彼を変えたのかは定かではない。

 酒のためか、よく回る舌で彼は語った。

「知ってるか。倉敷くらしきの目が見えなくなったのは、ピアスで開けた耳の穴から出た白い糸を引っこ抜いちまったからだって」

「やめてよ、そんな下らない都市伝説」

 百合子は顔を険しくして遮ろうとする。男は構わず続けた。

「そんで頭がおかしくなっちまってさ。精神病院に入ったんだけど、ある日脱走してそのまま行方知れずだ」

 瞳の体がにわかに傾く。礼子が慌てて彼女を支えた。

「もうやめて」

「何でだよ。友達のことを親切に教えてやってんだろ。いつまでも見つからないから、この前の津波でさらわれたとか言われてるんだけどよ、面白いのはここからなんだ」

 赤ら顔でにんまりと笑う。

「東京の、渋谷だったっけ。最近ネットで有名になった、カオルさんって頭のおかしな女の噂があるんだよ。道行く女に『あなた、ピアスしてる?』って尋ねて回ってるんだ。馬鹿正直にピアスをしてることを言うと耳を齧り取られちまうんで、耳かじり女って呼ばれてるんだよ。きっと倉敷の奴が……」

「もうどっか行ってよ!」

 百合子が凄まじい剣幕で怒鳴る。今まで和やかだった会場が静寂に満たされた。周囲の雰囲気に居心地が悪くなったのか、「何だよ、白けんな」と吐き捨てて男が離れていく。二人が口々に瞳を慰めた。

「あんなの全部でたらめだから」

 呆然とした瞳の耳には、何も入らない様子だった。



 帰りの電車の中で瞳はずっと俯いていた。駅まで見送りに来た両親に対して、彼女は疑問をぶつけた。

「お父さんたちは知ってたの」

「何のことだ」

「ほら、高校のときに私が仲良くしてた……」

「ああ、あの子か」

 両親の表情が曇る。どうやら事情を知っていたらしい。

「どうして教えてくれなかったの。薫が失明して……病院に入ってたって」

 娘の追及に渋い顔をした母親が答えた。

「あんたはとっくにあの子とは疎遠になってたし、東京にいるなら伝えない方が良いと思ったのよ。薄情だけど……知ったって、どうしようもないことでしょう」

 彼女の言葉に瞳は黙りこんだ。皺が増えた母親の顔は、津波に呑まれる町を眺めることしかできない、途方に暮れた人間のものによく似ていた。

 そのやり取りを交わした後は言葉少なく、物憂げな様子の娘を彼らは心配そうに見送った。

 夜闇やあんに塗り潰された車窓に、瞳の横顔が映る。彼女は今何を考えているだろう。親友に連絡さえしなくなった自分の薄情さを悔いているのか、それとも――別のことだろうか。

 瞳が乗った電車が笹塚駅のホームに到着した。もう大して人気はなく、まばらに乗客が降りていく。わずかな手荷物を持ち、少し遅れて乗降口を出る。夜陰やいんを帯びたホームには無人のベンチが並び、天井の照明に羽音が当たる音がした。

 俯き加減の瞳が改札口に向かおうとしたときだ。鼻腔に覚えのある悪臭がした。酷く饐えた、どぶ水の臭い。

 瞳も臭いに気づいたのだろう。ハンカチで鼻を押さえながら、周りを見渡す。不意に視界が瞬いた。天井の照明が不規則に明滅し始めたのだ。羽虫の影がちらついていた。

「ねえ」

 後ろから声がした。少量の水を口に含んだ、泡立った声音だった。

 その呼びかけに瞳が振り返る。ホームの片隅に細い人影が佇んでいた。明かりが点いては消えるのを繰り返し、その人物の全貌を把握するのは難しかっただろう。ただ異臭の源であることには気づいたはずだ。

 それが言った。

「あなた、ピアスしてる?」

 脈絡のない問いかけに瞳は答えられなかった。ただ、彼女は少し前に同じ言葉を耳にしたはずだ。信じがたいという表情をして、薄暗がりに佇む人物を凝視した。

「薫、ちゃん?」

 血の気を失った唇がその名を紡ぐ。暗闇の中で頬を歪めていた人影がにわかに表情を変える。ほつれかけた包帯の隙間から白濁した瞳が覗いていた。

 階段から足音がした。ホームの照明がおかしいことを誰かが駅員に伝えたのかもしれない。その異形は人間離れした動きで跳躍し、線路を走り去っていった。

 瞳は立ち尽くしていた。腐ったどぶ水の臭いが、夜風に薄れていく。

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