転機


 二〇一一年の初夏を迎える頃、福島第一原子力発電所の事故はひとまずの収束に向かっていた。事故初期に冷却機能が失われた三号機の燃料プールに対し、幾たびかの放水が行なわれた。強い放射線に阻まれて放水車が近づけず、初めの作戦は失敗に終わって日本中が落胆に包まれた。上空からヘリが大量の水を浴びせるというハイパーレスキューの活躍によって、ようやく三号機プールの冷却に成功した。

 束の間の喝采を嘲笑うかのごとく、原子炉建屋の地下で放射能を大量に含んだ汚染水が問題となり、海に投棄せざるを得なかった。近隣で漁業を営んでいた漁業関係者が休業に追いこまれ、福島原発事故が一筋縄ではいかない相手だということを日本国民は改めて思い知らされた。

 およそ二ヶ月後には、汚染水を浄化して冷却に用いる循環システムが完成する。だが大いに乱れた人心じんしんは容易には戻らなかった。東北産の物品は風評被害によって流通を拒まれた。東京の放射能汚染は深刻でとうに人が住める土地ではなく、妊娠していた女性が奇形児を出産した――。

 あまりにも想定外の事態が続いたために、嘘ともまことともつかない噂が流布され、ツイッターやインターネットの掲示板を通じて拡散された。その結果、多くの空想の怪物が東京を跋扈ばっこすることになった。

 新宿駅には奇形児が捨てられたコインロッカーがある。放射能の影響を受けてリカちゃん人形に三本目の足が生えた。女性が身に着けているピアスやネックレスから、基準値を遥かに超えるセシウムが検出された。

 その派生型として、放射性物質を含有したピアスのせいで失明した女性が精神に異常をきたし、ピアスをした女性の耳を齧り取る耳かじり女となって渋谷を徘徊しているという、荒唐無稽な都市伝説もある。

 いずれも既存の都市伝説が世情を受けて変化したものだ。アメリカの民俗学者ジャン・ハロルド・ブルンヴァンによれば、都市伝説とは口から口へと広がっていく口承の歴史とされた。

 つまるところ、始まりと終わりが定かでない伝言ゲームであり、人々の口を伝って変異していく。都市伝説の本質とはそういうものだ。

『節電にご協力をお願いします』

 そう書かれた張り紙が羅列する郵便受けの上に張られていた。もはや見飽きた文言もんごんには目もくれず、緋乃瞳は自分の部屋番号が書かれた郵便受けを探った。

 福島第一原子力発電所の暴走を目の当たりにした世論は、その是非を巡って迷走した。総理の脱原発宣言から始まり、停止された他の原子力発電所の再稼働に関しては結論が出なかった。

 結局のところ、生活で用いる電力の多くを原子力発電が担っており、いかに危険であろうと容易には切り離せない。自然エネルギーという代替方法に切り替えるにしろ、長い年月が必要だろう。転換点を見誤れば、当然ながら代償を支払うことになる。

 その結果が深刻な電力不足だ。消費量が増加する今年の夏には政府国民ともに戦々恐々としていた。まことしやかに囁かれているのが、東京大停電だ。

 三月十四日から関東一帯で計画停電が実施された。東京二十三区を除いた関東地区で輪番停電が行なわれ、電力の節約に努めてきた。それでも火力発電で補うには限界があり、常に電力危機が叫ばれた。

 連日の猛暑で電力消費が増え、東京全体が大停電を起こす。首都機能が麻痺する日が来る――。

 瞳は相変わらず漫然とした日々を送っていた。あらゆる公共施設でエアコンの使用が制限され、アルバイト先の洋品店ではクールビズを謳ったシャツなどを仕入れている。

 社会は確実に変容しており、当然ながら彼女も無縁ではいられない。それでも心ここにあらずだった。命の大小に関わらず、愛鳥の喪失は大きな影を落としたままだ。

 郵便物をトートバッグにしまった彼女は、『節電のため使用中止』と注意書きされた正面中央エレベーターの開閉扉には見向きもせず、非常階段へと向かった。

 階段の踊り場に乾いた靴音が響く。黄昏に濡れた廊下を辿り、四〇四号室の前に立った。鍵を取り出してスチールのドアを開けると、薄暗がりと沈黙だけが出迎える。瞳はその戸口に立ち尽くし、不意に涙ぐんだ。

 突発的に彼女は泣き出すことがあった。大抵が部屋にいるときで、きっと「アイ」と過ごした日々を思い出しているのだろう。

 涙を拭った瞳は表情を押し殺し、部屋の照明を点けた。一拍間を置いて、飾り気のない室内が照らし出される。ローテーブルにバッグを置き、リモコンを手に取ってテレビの電源を入れた。なでしこジャパンの目覚ましい活躍を称えるニュースが映り、その外枠にはアナログ放送の終了と地上デジタル放送への移行日を告げるテロップが流れていた。

 ニュースキャスターの熱が入った解説を聞き流しながら、エアコンの代わりに扇風機の風に煽られて郵便物の確認をする。光熱費の請求書、通販カタログ、スーパーのちらし、新興宗教の教えが説かれた冊子など。額に滲む汗を拭いながら、必要な物を選りわけていく。

 その中に交じった一通の往復はがきが彼女の目に留まった。手に取ってみると、差出人は高校時代の同級生だった。二つ折のはがきを開く。往信の文面にはこう記されていた。

『同窓会のご案内』

 瞳は首を傾げた。同窓会をするにしては歳月が短く、あまりにも時期が悪い。送り状に目を通していくと、形式ばった挨拶の次にこのような文面があった。

『このような大変な時期にと、不謹慎に思われる方々もいらっしゃることと存じますが、国難に見舞われた今だからこそ苦楽を共にした学友のご健在と結束を確かめたいと愚考した次第であります。

 同級生の皆様とお会いできる日を心待ちにしております』

 瞳はしばらくのあいだ、同窓会の送り状を眺めていた。扇風機の生温い風を受けて前髪がなびく。

 誰の顔を思い浮かべているか、わかる気がした。

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