産声

 遥か上空から見下ろした渋谷は、かつては眠らない街だった。道玄坂の先にある歓楽街のネオンに照らされ、林立する高層ビルの明かりは消えずにいた。国道246号線を、蛍火めいた車列が尾を引いている。

 俯瞰してみれば、この街はすり鉢状の地形をしている。現在は暗渠あんきょ化された、渋谷川と宇田川という二つの川筋によって長い時間をかけて形成されたのだ。

 渋谷駅を底とし、高級住宅街と欲望を満たす歓楽街、IT企業のビルが建ち並ぶ区画が混在して谷底を見下ろしている。東西を結ぶ宮益坂と道玄坂、金王坂、八幡坂と人の流れが滴り落ちていき、さらに放射線状に広がった公園通りや文化村通りという支流を辿る。最終的に行き着くのは、大型の屋外ビジョンが見下ろす渋谷スクランブル交差点だ。

 多いときには一日五十万人もの人間が行き来するスクランブル交差点を、巨大な黒い画面が映している。都心が深刻な電力不足の影響から逃れられるはずもなく、屋外広告と華々しいネオンに彩られた渋谷の街は、輝きを失っている。

 そして夜に沈んだ渋谷の底で、同種の産声を聞いた。

 人気のない東急東横線の高架下に、駆ける人影があった。入り組んだ谷間の底にある細い路地で、暗渠となった渋谷川に挟まれている。東急百貨店東横店の搬入口を通り過ぎると、小川のせせらぎにも似た静寂が満たしていた。

 高度を落とすと、甲高いヒールの音が煤けたコンクリートの壁に反響している。その人影は若い女で、露出の多い服装をしていた。化粧が濃く、香水の匂いを振りまいていた。おそらく水商売の仕事をしているのだろう。

 若い女は目尻から涙を流しながら、片耳を押さえている。その指の隙間から鮮血がとめどなくこぼれ落ちていた。もう片方の耳たぶには、ターコイズブルーのピアスが揺れている。

 路面に血を点々と垂らしながら、女は狭い空の下を走る。怪我をしていない方の耳に携帯電話を当て、誰かに電話をしていた。その必死な形相は、怯え、逃げ惑う哀れな獲物のそれだった。

「もしもし、私……」

 携帯電話が繋がって助けを求めようとした矢先、異臭が鼻腔びこうをついた。強い香水の芳香をかき消すほどのえた臭い。水が腐り、汚泥が発する耐え難い悪臭であった。

 足音が止まり、静寂が訪れる。液晶画面が光る携帯電話の向こうからくぐもった声が聞こえる。立ち止まった女は双眸そうぼうを剥き出しにし、前方を凝視していた。その視線の先に細身の人影がある。いや、人と呼んでいいものか。まばらに抜け落ちた髪、生きながらにして腐った色をした青白い皮膚。靴さえも履いておらず、ぼろぼろに擦り切れて茶色い汚水が染みついた衣は、患者衣だろうか。

 明らかに常軌じょうきを逸した風体のそれは、ほつれかけた包帯で目を覆っていた。片手に鋭利な形をした何かを握り、その場で揺らめいている。その歪んだ口元は、真っ赤な血液で汚れていた。

「何なのよ、あんた」

 動揺のあまり携帯電話を落とし、耳を押さえた女が叫ぶ。

「あんなの、ただの悪ふざけじゃない。噂のくせに、あんたなんているわけないのよ」

 支離滅裂だった。異常な状況に置かれて正気を失っているのだろうか。語気に熱が帯びてきて、女は押さえていた耳を露わにする。

 無残にも耳の大半が千切られていた。ぬらぬらと艶を帯びた鮮血がこびりつき、普段は隠されている耳孔じこうの奥まではっきりと見える。推測が正しければ、両耳ともピアスをしていたのだろう。

「あんた、誰なのよ。チャットルームの奴なんでしょ。何で私を」

「ねえ」

 まくしたてる女を、泡立った声が遮った。

「あなた、ピアスしてる?」

 冷たい銀色をした先端が光った。

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