喪失
東日本大震災から四カ月、日本は激変した。
十五メートルを超える大津波、東北地方の万を数える死者、福島第一原子力発電所の爆発、放射能の拡散。史上稀に見る異常事態が
日本列島で巻き起こる
マンションに帰れば、出来合いの総菜と白飯で食事を済ませてテレビ画面を眺めるか、パソコンのキーボードを叩くかのどちらかだった。いずれにしろ無表情で精彩に欠けていた。空っぽの鳥籠が、部屋の定位置に置かれたままだった。
白い桜文鳥の亡骸は、ベランダの植木鉢に葬られた。
テレビの画面の中では、被災地の悲惨な現状が映し出されていた。瓦礫となった町の中で、懸命な生存者の捜索活動が行なわれている。死者行方不明者数は二万人を超え、震災関連死も含めて増え続けていた。
多数の人生が津波に呑みこまれた。その現実の前には、文鳥が亡くなったことなど比べるべくもないだろう。
だが緋乃瞳にとっては違っていた。小さな同居人の不在は、その胸に大きな風穴を空けたのだ。
専門学校を卒業し、上京した瞳は理想と現実の狭間に翻弄された。就職活動で最初に
実にありふれた、つまらない人生だ。彼女のデザインセンスは企業には評価されず、現状維持の毎日だった。二十の半ばを過ぎる頃には希望から
衣料品店の販売員として、これまで身につけた知識は大いに役立った。接客態度も物腰が柔らかく、店長からの評価も高かった。理想との食い違いに目を瞑れば、居心地は悪くなかったと見える。
けれども瞳は孤独だった。単身地元を飛び出してきて、未知の都会で気安い友達を作ることができなかったのも起因しているのだろう。加賀は良くしてくれたが、友人というには年齢が離れていた。
笹塚のマンションと店を往復する毎日は、さぞかし味気がなかっただろう。デザインの勉強を投げ出してしまえば、自宅でパソコンを弄るしか趣味がなかった。
二年ほど前の冬だっただろうか。仕事の帰りに井の頭通りを歩いていた瞳は、ふと足を止めた。暮れかけた空の下に明るい光が漏れたガラス張りの店があり、その中から
彼女がそのペットショップに立ち寄った理由は推測する他ない。単なる気まぐれか、寂しさのためか。何にせよ、動物を刺激しないように開閉音が抑えられた扉をくぐった。さまざまな動物の体臭が入り混じった、むせ返るような臭い。入り口付近には熱帯魚が優雅に泳ぐ大型の水槽が置かれ、血統書のついた子犬や子猫など、たくさんの動物たちが買い手となる客を待っている。
こういった場に慣れていない瞳は雰囲気に呑まれ、おっかなびっくり檻が並ぶ通路を歩いた。落ち着かない様子の来訪者を形や色の異なる瞳が追っていた。
あてどなく店内を彷徨っていた彼女は、とある一角で足を止めた。「桜文鳥販売コーナー」と手書きらしい看板がぶら下がり、まだ
その中に一羽だけ、明らかに毛色の異なる文鳥がいた。
「文鳥に興味がおありですか?」
ちょうどそのとき、青年の店員が話しかけてきた。前掛けには店名と簡略化された犬の絵が描かれていた。
「どうしてこの子だけ白いんですか」
思いかけず話しかけられた瞳は戸惑い、どうにか質問を捻り出した。その問いかけに対し、若い店員はケースの中にいる白い雛鳥に目を向けた。
「ああ、その雛はアルビノなんですよ。ほら、目が赤いでしょ。このまま育っても羽毛は白いままですね」
元々の性格なのか、砕けた口調だった。彼は声をひそめる。
「ちょっと言いにくいんですけど、アルビノは病弱な個体が多くてですね。飼育が大変なんですよ。周りの雛と比べて元気がないでしょ。あんまりお勧めできないかなあ」
距離感が近く、やけに馴れ馴れしい。瞳は意に介さず、その真っ白な雛を見つめていた。雄とも雌ともつかない桜文鳥は、彼女からしてみればあらぬ方向を凝視しているように見えただろう。
「ください」
「え?」
「この子をください」
この場にいる全員にとって予想外の言葉だった。おそらく本人も、自身の言動に戸惑ったのではないだろうか。
ともあれ、軽薄な印象を抱かせた青年は存外に親切だった。雛鳥を連れ帰るための用意は勿論、さまざまな助言と必要な物を教えてくれた。特に温度と湿度には細心の注意を払うように忠告された。
なるべく雛に負担をかけないために、マンションへと急いだ。すぐにエアコンをつけ、部屋を暖める。ペットヒーターや温湿度計が据えつけられた育雛室に雛鳥を移した。
その赤い瞳は物珍しそうに新しい環境を映していた。こちらの存在にも慣れ、自らの運命を受け入れているかにも見えた。
それからは苦慮の日々だった。ほとんど衝動的に購入したアルビノの文鳥の世話は瞳の手に余った。幸いなことに全ての餌を直接与えなければならない時期は過ぎており、彼女が雛の口に餌を運ぶのは朝夕だけで済んだ。
文鳥の飼育に関する本を片手に、あわ玉と熱湯をボールに入れてかき混ぜる。浮かんできた埃をお湯とともに捨てて、再び熱湯を注ぐ。少し冷ました後に青葉とカルシウム源を少々、最後にパウダーフードを二グラム加え、よく混ぜて完成だ。自分の食事よりもよほど手間をかけていたに違いない。
ぎこちない手つきで雛鳥を取り上げ、膝の上のバスタオルに乗せる。餌が入ったスポイトを見せても、白い雛は中々口を開けなかった。やはり通常の個体に比べて病弱なのかもしれない。瞳は泣きそうな表情になった。
どこか
アルビノの桜文鳥は「アイ」と名づけられた。
自らの翼で飛ぶようになり、育雛室から鳥籠に移されても、当然ながら羽毛は白いままだった。温度調整に不備があったのか、ぐったりとして非常に元気がない日があり、瞳が慌てふためいて動物病院に連れていった。そのとき獣医師に告げられて、初めて「アイ」が雌だと知った。
ぐぜりという
「ごめんね、アイちゃん」
鳥籠の桜文鳥に小声で謝る。「アイ」は小首を傾げた。嘴を上下させ、わずかな囀りを奏でる。遠い異国の笛の音色を思わせる声だった。
瞳は目を丸くし、嬉しそうに微笑んだ。
「アイ」と暮らした短い歳月は、殺風景な生活に一瞬の彩りを加えた。定められた時間に水浴びをさせ、円錐形の鳥籠から放つ。狭い室内を飛び回る白い文鳥は、いつも最後には飼い主の手に止まった。瞳は愛おしそうに指先で彼女を撫でた。
その「アイ」はもういない。東日本で起きた大震災の余波が、多くの人命とともに儚い命を奪い去っていったのだ。
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