発端


 平成二十三年三月十一日金曜日、十四時四十六分。その揺れは突然だった。

 スペイン坂にある衣料品店『ミロ』の店内で、片隅に置かれていたトルソーが小刻みに震え出した。アメリカンカジュアル、いわゆる渋カジと呼ばれる中古の輸入品を仕入れる店で、そのとき緋乃ひのひとみは在庫の棚から商品の陳列を行なっていた。

 不幸中の幸いというべきか店内に客はおらず、店長はレジカウンター奥の事務所で在庫管理を行なっていた。十五坪ほどの広さで、坂に合わせて段差が横断する店全体が揺さぶられ、陳列棚からラルフローレンのジャケットやシャツ、リーバイスのジーンズなどが次々と落下した。とっさに瞳はしゃがんで頭を庇う。その上に容赦なく商品が降りそそぎ、悲鳴を上げた。

 壁に飾られた大小さまざまな鏡が外れ、床に落ちて断末魔を上げた。店長がアフリカやインドネシアといった海外から蒐集しゅうしゅうした骨董品で、鳥類の目を象った悪趣味な鏡もあった。落下した衝撃でガラス片が飛散し、何も映さなくなる。

 縦方向に作用していた得体の知れない力が横揺れに転じ、さらなる危険を感じたらしい瞳は磨かれた木の床で身を丸めた。トルソーが倒れ、試着室のカーテンレールが翻弄されて、内部の姿見を晒して二人の姿を映し出す。

 額を床に接している彼女にはわかったはずだ。渋谷が、いや東京全域が恐れおののき、身震いしているのだと。これほどの規模は、関東大震災以来ろうか。

 だが――震源地は関東ではない。

 その鳴動は長く感じられたが、実際は二分ほどだったのだろう。徐々に揺れが収まり、瞳は恐る恐る顔を上げる。店内は惨憺さんたんたるものだった。輸入品の衣類が散乱し、独特な趣向を凝らした装飾の鏡は枠だけを残してほとんど割れており、店のショーウインドーを透かした陽光に無数の破片がきらめく。

「瞳ちゃん、大丈夫?」

 瞳と同様に身動きが取れなかったのだろう、半開きになった事務所のドアから加賀かがゆかりがよろめきながら現われた。ウェーブをかけたミディアムヘア、焦げ茶色のブラウスに白いストレッチパンツと身軽な服装をしている。その耳元で、よく磨かれたアメジストをあしらったピアスが揺れていた。

 瞳は店員用のエプロン姿のまま、座りこんで呆然としていた。もうじき四十路を迎える『ミロ』の店長は、自分の店の惨状に苦虫を噛み潰しながら、鏡の破片を避けて従業員の元へと駆け寄った。

「酷い揺れだったわね。怪我はない?」

 はい、と瞳は消え入りそうな小声で答える。店員の無事を確かめて、加賀はため息をつく。

「こんな有り様じゃ仕事どころじゃないわね。まだ余震が続いているみたいだし」

 自力で立ち上がれない瞳に手を貸し、事務所へ向かう。ずっと足元の床が揺れている感覚が収まらない。カウンターの上のレジスターが小刻みに揺れている。本来の震源地で発生した遥か地中を伝わり、極めて広範囲に伝播でんぱしているのだ。

 事務所に避難した二人は椅子に腰を落ち着けた。事務の仕事を行なう机の上ではペンなどの文房具が散乱し、帳簿を収めたファイルの束がスチール棚から落下している。デスクトップパソコンの画面が仄かに光を放ち、その中で商品名と価格、個数などを含めた在庫が表計算ソフトで表示されている。

 散らばった備品を脇に寄せて、事務机の引き出しから加賀の私物らしい携帯用のラジオを取り出す。電源を入れて、周波数を合わせた。

『……ただ今午後十四時四十六分頃、東京都で震度五強の地震がありました。震源地は……』

 未だに放心している瞳は、ラジオにかき消されるほどの小声で何事かを呟いている。加賀は気づかず、ラジオのスピーカーから流れてくるニュース音声に耳を集中させていた。

 二度目の強震が起きたのはそのときだった。先ほどとは性質の異なる大きな地震だ。二人は悲鳴を重ねて、机の縁にしがみつく。椅子は倒れ、小さなラジオが床に落ちた。お互いを庇い合い、机の下の隙間に何とか潜りこんだ。

 肩を寄せ合って大地の鳴動に耐える。『ミロ』の店舗全体が揺れ、内部の建材が折れる音がした。すぐ目の前で横たわったラジオが震えた声音で続報を告げる。

『……岩手県、宮城県、福島県……沿岸……津波警報・津波注意報が……』

 東北地方を見舞う惨禍さんかを告げる内容だった。後に東日本大震災と呼ばれることになるこの厄災は、間もなく夥しい人間の命を奪うことになる。

 ようやく揺れが小さくなり、加賀がおっかなびっくり机の下から顔を出す。まるで嵐が吹き荒れた様子だった。事務所の照明は消え、床には大量の伝票が散乱していた。幸い天井が崩落したりなどの被害はなかったが、従業員用のロッカーが一部倒れていた。

 瞳が使用しているロッカーの中身がぶちまけられ、床を滑ったトートバッグから折り畳みの携帯電話が覗いていた。ストラップには白い羽根がつけられている。

「帰らなきゃ」

 天井を仰いだままのラジオが、慌ただしい調子で続々と状況を伝えている。二の句を継げない加賀の後ろで机の下から這い出てきた瞳が、携帯電話とトートバッグを掴むとエプロン姿のまま事務所の外へ出た。

「瞳ちゃん、危ないわよ」

 彼女の突拍子のない行動に驚いた加賀が声を上げる。「ごめんなさい、また戻ります」と言い残し、店から飛び出した。軽やかなドアベルの音を置き去りにする。

 スペイン坂の狭い坂道は、すでに大勢の人間でごった返していた。誰も彼もが携帯電話の液晶画面に釘付けになり、耳に押し当てている。家族や親しい者の安否を確かめようとしているのだろう。

 瞳は人混みをかきわけ、見慣れたビルや店舗を駆け抜ける。その先の井の頭通りはさらに混雑していた。高空から見下ろせば、数多くの人間の頭が寄り集まって微生物がひしめくさまにも似ている。車は大渋滞を引き起こし、身動きさえままならない。遠くに目を投げれば、渋谷駅ではとうに列車は動いておらず、首都高速道路に自動車は一台も走っていない。公共交通機関が機能不全に陥っているのだ。

 混乱の極みにある渋谷の街を、彼女は一心不乱に走る。かつて友と語らった代々木公園の傍らをよぎり、甲州街道に沿って自宅がある笹塚を目指した。

 交通機関が麻痺している以上は、帰宅困難者の列に交じって徒歩で移動する他ない。結局、自宅のマンションに辿り着く頃には日が傾いていた。

 四階建てのマンションで、築二十年を数えるために比較的家賃は安い。閑静な住宅街の中に佇んでおり、ベランダに明かりを灯っていても人が動いている気配はない。未曾有の事態に誰もが息を呑み、委縮しているのだ。

 瞳はエプロン姿のまま、マンションの玄関に飛びこんだ。郵便受けの郵便物は散乱しており、もう誰に宛てた物か判別できない。封筒やチラシを踏み越え、足を止める。非常事態のために正面のエレベーターは機能停止していた。

 非常階段へ向かう。殺風景なコンクリートの階段を駆け上がる足音がことさらに響く。息を切らしながら四階に到達すると、無人の通路はがらんとしていた。手すり越しに夕日を受け、整列するドアの陰影を濃くしている。彼女の部屋は四〇四号室だった。

 気が急いて、トートバッグの中を乱雑に漁った。ようやく部屋の鍵を取り出し、ドアを開ける。開かれた玄関は暗く、とても静かだった。出迎えてくれる声がないことに、忌わしい予感に襲われたのだろう。

「アイちゃん……」

 声を震わせて名を呼んだ。靴を脱ぎ捨て、手探りで照明のスイッチを点ける。明るくなった部屋はやはり荒れていた。閉じたはずのベランダのカーテンが動き、夕暮れの住宅街が俯瞰ふかんできた。すぐそばに据えられたベッドは布団がずり落ち、ブラウン管のテレビは台の下に転がっている。枕元に近い本棚からはファッション雑誌や洋裁関連の本に交じって、文鳥の飼育に関する本がカーペットの上で無造作に積み重なっていた。使い古されたミシンが、部屋の片隅で蹲っている。

 丸いローテーブルの上に設置されたデスクトップパソコンは寸でのところで落下を免れ、接続されたマウスとキーボードが縁から垂れ下がっていた。食器棚から皿やコップがこぼれ落ちた台所は破片が飛び散り、目も当てられない。

 それらの惨状は、彼女の目には入らなかった。壁際のソファーの隣にある飾り棚から円錐形の鳥籠が床に落ち、衝撃でひしゃげている。横たわった籠の内部で止まり木やブランコなどの遊具が外れ、水浴び器の水がカーペットを濡らしていた。隙間からこぼれた穀類の餌が、足のつま先まで届いている。

「アイちゃん」

 悲痛な声を上げて、瞳は鳥籠に駆け寄る。その中には横たわった文鳥がいた。桜文鳥という種類で、本来なら黒い頭部と尾羽、白い頬に灰色の羽毛とくっきりとした姿をしている。ただこの個体は全身が白く、赤い目をしていた。

 落下した際の衝撃に華奢な体が耐えられなかったのか、アルビノの桜文鳥はぐったりとしていた。網の扉を開け、震える手つきで愛鳥を取り出す。

 その手のひらに乗せられた亡骸は、まだ温もりが残っていただろうか。

 ただ見開かれた赤い瞳が、飼い主をじっと見つめていた。

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