其ノ三


ごうごう、川が怒り狂っている。

贄はどこだ。今年の飯がなぜ逃げている?逃げるな、逃げるな。

そう喚き散らしているようだった。雨はどんどん激しくなり、森をはしる川が蛇のようにのたうちながら、木々や草を、土を飲み込んでいく。


「おい、ケン。どこに行くんだ。お前、何をするんだ」

「あんなムラ、捨ててやる。俺は俺の生き方を探す。お前もこい、ニトウ」

「やだやだ!お父様の元に帰る!なんでお前なんかと一緒にいなきゃいけないんだ!」


ケンは立ち止まると、力いっぱいニトウを殴った。

ぎゃあ、と悲鳴を上げて倒れた所を狙って馬乗りになり、ケンは隠し持っていた小刀を、ニトウの首につきつけた。


「黙れ、逆らうな泣き虫。お前たちは俺の仇だ、ニトウ」

「な、なんの話だよう」

「俺は知ってるぞ。あの男が、お前の父が俺の父を殺した。山人の村を襲い、村の者を皆殺しにし、妻たちをさらって自分のものにし、父の首を生きたまま切り落として土に埋めたんだ」

「なんだよそれ!聞いたことないぞ!」

「俺は聞いた。村のはずれにある首塚から、父の声が毎日恨みの言葉を連ねながら教えてくれた」


無口で従順な犬ころからは想像がつかないほど、今のケンはよく口が回る。

まるで枷から解き放たれ、腹の中から憎悪の川が溢れだすかのようだ。


「何度、お前を殺してやりたかったことか。何度、お前の首をさばいて、あの村長の前に投げ捨ててやりたかったことか。

だが残念だ。奴の方がお前を捨てた。なら俺はやり方を変える。お前の人生をむしゃむしゃ食いつぶしながら生きてやる。山の外の者たちは、俺たちを知らない。どんな生き方だってできる」


ニトウはすっかり恐ろしくなり、震えあがった。

あの臆病で、従順で、人の顔を伺ってばかりの犬ころが、牙を剥きだしにして憎しみをぶつけてくるのだから、当然だった。

ケンは枷についていた縄でニトウの首をくくると、ぐいぐいと引っ張った。

首をしめられると首が苦しいので、ニトウは這うようにして、ケンの後を着いていかなくてはならなかった。


「お前は文字が読めて、そろばんが打てる。お前が俺の目と頭になれ。ニトウなんて名前は捨てろ。俺もケンという名前は捨てる。もっといい名前がいいな」

「そんな、あんまりだ。名前まで捨てるだなんて」

「口答えするな。今日からお前は、おれの奴隷だということを忘れるな」

「いたい、いたい、やめてくれ、おねがいだから」

「誰が止めてやるもんか。おまえ、おれがそうこいねがって、やめたことがあるか?」

「ごめんなさい、ごめんなさい。謝るから、わびるから、もう痛いことしないで、おねがい」

「ふん。だったらこれから毎日、おれの奴隷として、詫び続けろ」


めそめそ泣きながら、ニトウはケンについていくしかなかった。殺されるのも、山の中で捨てられることも勘弁だった。

川の流れが激しくなるよりも先に、二人は休まず走り続けた。

やがて険しい山を下り、人里が見えてくると、二人はすっかりくたくたに疲れていた。

山の麓まで出るころ、朝日が昇り始めていた。けれども油断は出来ない。足の裏が血まみれになっても、構わず歩いた。

ニトウは何度か「つかれた」「寝たい」と力なく喚いたが、そのたびに引っ叩かれた。

「がまんしろ、俺だって眠い」と引っ張って、時折足を止めながらも、二人は東を目指し歩いた。

そうして、まる一日が経った頃。山が遠くに見えるようになったところで、二人は、ぼろの家を一つ見つけた。

二人はやっと、息をつき、そこで石のように丸くなって眠った。


ニトウはその日、夢を見た。父と母、弟妹たちが仲良く夕餉を囲っている。そこに自分の席だけがない。

飯にありつこうと近寄ると、父親に平手で張り倒された。


「もう、お前に座らせる座布団などないわい。この家にお前はいらん、出ていけ!」


そうして白いぼろを着せられ、川の中に放り込まれるのだ。

川の中はぬるぬると蛇の腹の中のようにぬめり、生臭くて、吐き気がする。暗くて底がない。やがてどろどろと自分が溶かされ、消えていく。

恐ろしい夢の中で、ただニトウは泣いていた。「ゆるして」「ごめんなさい」とうわごとのように繰り返し、繰り返し、誰にでもなく謝り続けていた。



「おい、ニトウ。朝飯を探してこい。逃げたら承知しないからな」

「なんで俺が!」

「俺が主人だぞ。命令がきけないのか」


次の日の朝、目を覚ますなり、ケンはニトウに命令した。

嫌がって反抗すると、またぶたれる。渋々、ニトウは食べ物を探しにいった。幸い、夏の川には魚、野にはリスだの食べられる木の実の類は沢山ある。

山育ちで良かったと思う所は、食べられるものと毒のものの区別がつけられることか。

「ふん、飯を探すだけでどれだけ時間がかかるやら」とケンに嫌味をいわれたが、何も返せなかった。一字一句、以前までのニトウがケンによく垂れ流していた嫌味だからだ。


日が高くなると、人里を目指しまた歩き始めた。ケンは上機嫌で、頓珍漢な歌なぞも歌っていた。


「お山の千疋狼たちは 草場にまぎれて かくれんぼ

 馬とって食おか 人とって食おか 舌なめずっこして見ているぞ

 いきはよいよい かえりはないさ 肉食って骨ばみ 腹のなか」

 

どうやって村に帰ろう。ニトウは何度も、故郷の山を振り返りながら歩いた。

夏だというのに、道すがらには季節外れの藤が咲いている。

ニトウがその藤の美しさに見とれて、つい足を止めると、ケンが問いかけた。


「そんなに藤が気になるか」

「春の花なのに、狂い咲いているから、つい。美しい藤だ」

「ふうん。……そうだな。そんなにその藤が気に入ったなら、今日からお前は夏藤と名乗れ。フジと呼んでやろう」

「夏藤?やだ、花の名前なんて、女みたいじゃないか」

「知ったことか、いっそ女として振舞ったらどうだ。

男二人より、男と女で連れ歩くなら、ムラから追っ手がきたところで、奴等も気づくまい。俺が兄を名乗るから、お前は妹のふりをしろ。

俺に従うと約束するなら、縄をほどいてやってもいいぞ」

「なんて勝手な……」


そうは言うものの、縄が首から外れるならば、これ以上の最善はない。

縄さえほどけば、ケンの元から逃げ出して、ムラに帰ることが出来る。

そう考えていた矢先、いやな視線を背中に感じ、ニトウは辺りを見回してみた。

するとどうだろう、ケンとニトウを囲うようにして、遠くに何頭もの狼の姿が見えるではないか。

すっかり震えあがったニトウは、ケンにしがみつき「お、お、狼だ!食われる!」と喚く。

ケンはにたにた笑うと、狼たちに手を振った。


「案ずるな、フジ。あれは俺が呼んだ狼だ」

「お、お前が呼んだ?」

「首の父様は、俺に沢山の妖術やまじないを教えてくれた。あの狼たちは、俺が術で呼び寄せたんだ。

お前が俺の元から逃げたら、あいつらに捕まって、骨まで残さず食っていいと教えておいたのさ」

「ひ、ひいぃ……」


なんて恐ろしい子供だろう!とても同い年とは思えない残忍さに、ただただニトウは震えた。

逃げようという心はへし折られてしまい、ニトウは「夏藤」と名乗って、ケンの妹のふりをすることにした。

ケンは、すっかり離れた故郷の山を見やった。

そして、あの険しい嶽のような辛い日々を、一生忘れず、故郷に戻るまいと心に誓った。


「よし、今日から俺はミタケだ。ミタケ兄さまと呼べ。いいな」

「……はい、ミタケの兄さま」


なんという屈辱か!

女であることをを強いられ、あまつさえこの犬ころを兄と慕わなくてはならないなんて!

しかし、逆らうことはできない。今は耐えて、機を見るしか道はなかった。


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