第211話 初恋の女の子

 大学のテストがひと段落し、長い冬休みが始まる日のことだった。


 静流はいつものように大学の自転車置き場からクロスバイクを引き出し、構内を押していると女の子から声を掛けられた。


「大瀧先輩、大瀧先輩じゃないですか?!」


 振り返ると懐かしい顔がそこにあった。色白の肌に冬だからか赤くなった頬。変わらないポニーテール。寒いのでダッフルコートを羽織っている女子高生だ。スカートが制服なのは、なにかこの大学で、イベントでもあったのだろう。時期的に推薦入試の面接かもしれない。


「鈴木さんじゃないか。もしかしてこの大学を受験するの?」


 静流は胸の高鳴りを抑えられなかった。顔も名前もよく覚えている。鈴木真由美。中学で1コ下の後輩だ。


「はい。今日は見学だけですけど。近くの大学でAO入試があったんですけど、本命はここなので、気持ちを新たにしようと思って見に来たんです」


「そっか――合格できるといいね」


 もう一度、正面から見る。最後に彼女を見たのは卒業式のときだったから、もうすぐ丸4年になる。


「大瀧先輩はこの大学に通っているんですか?」


 笑顔で真由美が聞いてくる。ぐいぐいくるのは前と変わらない。4年前と同じ距離感をすぐに作れるのは彼女の強さだ。


「うん。そうだよ」


「じゃあ、話を聞かせてくださいよ。参考にしたいんです!」


「――もちろん、いいよ」


 静流は頷いて、クロスバイクを閑散とした自転車置き場に戻した。


 学食のカフェテリアはこの時期なのでガラガラだ。


「何飲む?」


「奢ってくれるんですか?」


「もちろん。少しだけどバイトもしてるしね」


「えへへ。じゃあ、カフェラテ」


「よしよし」


 遠慮しないでくれる方が、真由美らしいと思う。


 外の席もあるが、流石に寒いので窓際の景色がいい席に座る。せわしなく行き交う人たちが見える。今の季節、神保町はスキーシーズンインで、多くの買い物客がくる。


 向かいに座る真由美は4年前と比べてもちろん大人っぽくなっていた。


「かわいさが増したね。お子ちゃまだったのに」


「そりゃ当時、中2ですよ。お子ちゃまで当たり前じゃないですか――かわいいって本当ですか?」


「かわいさが増したって言ったんだ。前からかわいかったよ」


 すると目の前の真由美は真っ赤になって俯いた。不用意に言いすぎたようだ。今、静流の周りにいる小学生たちに言うようにかわいいと口走ってしまった。静流は反省する。


「いやあ。大瀧先輩に言われると照れるな」


 真由美は熱いカフェラテのカップの縁に唇をつけた。


 彼女は静流の初恋の人だ。思春期に入って初めて意識した異性と言うべきか。羽海ちゃんもきちんと初恋のくくりだから。あらためて生で見ると雫と真由美は同じ顔の系統だ。姉妹でも通じそうなほど似ている。


 静流はどうやって真由美と仲良くなったのか、実は覚えていない。学年は違うし、接点はなかったはずだった。しかし、昼休み、友達たちといつもたむろしている渡り廊下の前で、同じようにたむろしている2年生女子のグループの中に、彼女がいたことは間違いない。別々にいたはずなのに、いつの間にか話すようになり、冗談を言い合う仲になった。


「バレンタインデーのチョコ、あげましたねえ」


「明治の板チョコな。僕だってホワイトデー返したぞ」


「チロルチョコの詰め合わせでしょ?」


「値段的には相応だ」


「3倍返しにしないケチな大瀧先輩」


「まだ蒸し返すか。って言っても蒸し返された方が懐かしくていいな」


 真由美は微笑んだ。


「あの頃もこんな感じでしたね。懐かしいな」


 いつ好きになったかも覚えていない。ぐいぐいきて、話すようになって、笑顔が可愛いなと気がついたときにはもう好きだったのだと思う。淡い思い出だ。もうあれから4年も経ってしまった。


「大瀧先輩の第2ボタン、まだ持ってますよ」


「大事にして貰えてるみたいで、ありがたいね。鈴木さんは高校は木更津の方の私立まで通ってたんだっけ?」


「よく知ってますね。そうです。本命の大瀧先輩がいってたところは落ちてしまったんで――特進クラスなんか狙わなきゃよかった」


 真由美は小さくハアとため息をついた。


 もしそうだったら、どんな高校生活になっていただろう。一緒に下校して、もしかして、恋人同士になっていたのかもしれない。そんな気持ちを想像できるくらいには、今も彼女のことが好きだと思えた。


「それは惜しいことをしたな」


「親にも迷惑掛けるし、学費もかかるしで散々でしたよ」


「でも、まあまあ受験は上手くいっているんだろう?」


「それなりに。もし私がここに合格したらまた後輩ですね」


「中学の後輩でも後輩には変わらないだろう」


「そうですね。センパイ」


 そして真由美は嬉しそうに首を傾げた。


 その後は大学生活についての質問が矢継ぎ早に飛び交った。どの学部も同じとは限らないので、あくまでも文学部の話として、聞いて貰った。


「大瀧先輩はもちろん実家からは通ってないでしょう?」


「不可能ではないけど、1限には絶対間に合わないからね」


「そうなると1人暮らしか。自信ないな。大瀧先輩は?」


「僕は親戚の家に下宿」


「じゃあ、ご飯とか作らなくていいんだ?」


「むしろ好んで僕が作ってる。あとその家の子に勉強を教えたりもしてる」


「さすが大瀧先輩。しっかりしてるな」


「僕らと同じ中学校出身の人も近くにいて社会人なんだけど、1人暮らしをしてるよ。それなりに大変そうだけど、今なんて片腕を怪我して不自由だから、いろいろ世話焼いてあげてるし」


「いいなあ。大瀧先輩に世話焼かれるの……」


 どうして僕の周りには僕に世話を焼いて貰いたがる人ばかりなのだろうと思う。そんなに自分は下僕体質なのだろうか。


「もし、私も1人暮らしになったら相談に乗ってくださいね」


「もちろん」


「じゃあ、連絡先」


 真由美はスマホを取り出した。


「うん。何かあったら連絡してね。勉強のことなら現役受験生に教えられるようなことはもう覚えていないけど。頭から抜けたな~~」


「そんなもんですか」


「それはそうです」


 そして静流は自分のカップを飲み干した。真由美もカップを空にし、返却口にトレイを置き、歩き始める。


「駅まで送っていこうか」


「是非」


 真由美は破顔した。


 クロスバイクを自転車置き場から取り出し、押しながら御茶ノ水駅まで歩いて行く。


「不思議だなあ。大瀧先輩と東京でこんな風に歩く日がくるなんて思わなかった」


「僕もだ」


 歩けたらなあと思っていた時もあった。高校に入学して、彼女に告白しなかったことを悔やみもした。だが、告白しに行かなかったし、できなかった。


 もし告白していたら人生は変わっていたのだろうか。


 もし、たらは考えても仕方の無いことだという。余計なストレスだ。


 歩いてすぐに御茶ノ水駅に着く。


「これから館山か」


「錦糸町で快速乗り換えですね」


「遠いもんなあ」


「暗記していたらすぐですよ」


「そうだね。受験、頑張ってね」


 静流はそう最後に言い、真由美は手を挙げて応える。


「先輩に会えたから頑張れる気がします!」


 そして真由美は自動改札の向こう側に行き、振り返り、飛び跳ねて手を振って、奥に消えていった。


 静流はクロスバイクのハンドルを握りながら、その場で俯き、動けなかった。


 過去のことだと思っていたが、いざ、実際に真由美に会ってしまえば、こんなにも恋心が蘇ってくる。これは雫への裏切りだと思う。雫には縁が無かったと言ったが、縁はあった。そして繋がってもしまった。ブロックする理由は何1つない。


 スマホが鳴った。真由美からの連絡だった。


〔電車乗りました。今日はありがとうございました。〕


 静流は震える手でスマホの画面を触った。


〔がんばるんだよ〕


 すぐに返事があった。


〔頑張ります。また、連絡します〕


 胸がざわついた。


 お茶の水から江戸川を超えるまで、どうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。いろいろ考えすぎてしまい、脳の処理が追いつかなかったのだろう。


 マンションの前庭にクロスバイクを置いて、玄関に回って鍵を開ける。


 まだ誰も帰ってきていない。雫の給食が終わるまでまだ何日かある。


 スマホを手にして、じっと暗い画面を見る。館山に着いたら連絡をくれるだろうか。それともまた連絡というから、上京したときだろうか。期待している自分がいる。


 たった1つしか年齢が違わない真由美は、静流の中にある条件的には、最も恋人候補に近い存在だ。


 その考えを脳裏から追い出す。自分は雫が大きくなるまで待つと決めたのだ。雫が自分を好きでいてくれる限り、誠実でいると約束したのだ。


 そう心の中で言葉にすると静流の中に勇気が湧いてくる。それはあと何年もの間、雫を守り続ける勇気だ。


「ただいまー!」


 玄関が開いて元気な雫の声がした。そしてドタバタと足音を立てながらリビングに走ってきて、立ち尽くしていた静流にタックルしてきた。体重が増えた雫のタックルは下手をするとテイクダウンされてしまう衝撃力がある。静流はぐっと重心を下げてそのタックルに耐え、雫を抱き留める。


「油断だぞ、静流」


「危ない。転ぶところだった」


「えへへ。帰ってくると静流がいるの、幸せだな」


 僕も雫が帰ってくると幸せだ、と言ってみたくなる。しかしそれを口にすると自分に暗示を掛けているのではという気になってしまう。それはイヤだ。暗示ではなく、心からそう思いたい。


「今日、何食べたい?」


「なんでも! 静流が作ってくれるなら!」


「じゃあ手抜きパックまるごとハンバーグ」


「手抜き過ぎる!」


「味付けして寝かせておけば行ける気がするんだよね」


「なんど試してももこねて固める以上の旨さ向上法はない!」


 そうかもしれない。


 他愛のない会話。いつもの会話。


 これがいいんだ、と静流は自分に言い聞かせたのだった。

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