第208話 羽海を甘やかす
羽海が朝寝坊することはわかりきっていた。あの後、最後まで映画を見たのだろうから、結構遅くなったはずだ。
静流は朝、いつもの5時に起き出すとラジオのスイッチを入れ、カウンターに置いて、聞きながら朝ご飯の準備をする。まずはコーヒーを入れ、それからパンケーキの種を作る。パンケーキなら、起きてきたらその都度焼いてあげればいい。
羽海に出してあげたラテのカップはシンクで水に漬けられていた。片手では洗うことができなかったのだろう。
昨夜書いたレポートを見直して少し推敲し、コーヒーを飲み終わる。
次に起きてきたのは雫だった。
「羽海ちゃん、寝てなかったね」
「うん。夜中に映画を見てた」
「きっと痛くて眠れなかったんだね」
「たぶん」
「後悔してる?」
「それはもちろん」
「でもそのお陰でおばあさんが助かったのかもしれない」
「そう考えることにする」
雫はカウンターの椅子に腰掛けた。
「今朝は何?」
「パンケーキ。ラテもいれてあげる」
「嬉しいな」
この季節の朝5時はまだ真っ暗だ。夜といっていい。外が暗い中、パンケーキを焼き、ラテを作り、雫に供する。
「美味しい。お母さんも羽海ちゃんも早く起きてくればいいのに」
「2人が起きてくるのを待つよ」
静流はカウンターの椅子に腰かけ、読みかけだった本を開く。
「静流は優しいな」
「心に余裕がある大学生だからね。バイトに精を出しているわけじゃないし」
「心の余裕かあ」
雫にはいろいろ考えるところがあるようだ。
「小学生には小学生の悩みがあるからね。でも心の余裕は欲しいね」
「結局は器の問題か……」
「受け取り方の問題でもある」
「今日は羽海ちゃんの好きにさせよう」
「いいんじゃない」
雫も考えているのだ。
次に起き出してきたのは澪だ。7時半。休日の澪にしては早起きだ。
「パンケーキにラテ最高。甘やかされている実感があります」
「甘やかされてる実感があるのはいいんですが、僕はそのうちいなくなるんですからね」
「そうなんだよな――人生のエクストラステージだ。ハア」
それほどまでに自分の存在は便利らしい。
「澪さん、今日のご予定は?」
「雫とクリスマスプレゼントを買いに行こうと思っていたんだけどね」
「羽海ちゃんは放っておけない、ということですか?」
「お母さん、今年もクリスマスプレゼント買ってもらえるの?」
「それはそうだよ。だってまだ小学生だろ。まだまだプレゼントをしたいよ」
澪から母親らしい発言があった。静流はほっこりする。
「パジャマから着替えさせたら2人でお買い物に行ってくればいいじゃないですか。僕がいますよ」
「片腕ならあの娘も悪さできないだろうからね」
「静流が誘惑されなければな」
「信用無いな。けが人に何かするようなことはないよ」
静流はムッとする。
「そういうことじゃない」
「そうじゃない」
母子に同時にダメ出しされる。何が悪かったのだろう。静流には分からない。
カップとパンケーキの皿を洗い、朝食がひと段落する。羽海が起きてきたら焼いてあげるつもりで静流はリビングに待機する。
意外と早く、8時半に羽海は起きてきた。澪にまずは着替えようかと言われて、雫の部屋でいつものフィットネスウエアに着替えてリビングに戻ってくる。上着を軽く羽織っていてもノーブラのパジャマ姿はかなり刺激的だった。つんと上を向いたポッチのカタチがよく分かったからだ。静流は見ないようにと思いつつ、ガン見してしまった。早々に着替えてもらって良かった。
着替え終わった頃にはパンケーキは焼き上がっている。
「羽海ちゃん、またラテでいい?」
「もちろん」
羽海はカウンターに腰掛け、ラジオのニュースに耳を傾ける。
「澪さんたちは今日、どうするんですか?」
お出かけの準備をしている澪に羽海は聞いた。
「クリスマスプレゼントを買いにお出かけ」
「いーなー。私はムリだ。安静にしてる」
「そうそう。大人しくしてなさい。お土産買ってきてあげるから」
「わーい」
明らかに空元気で羽海は返事をした。ラテをすすりながらパンケーキを食べる。パンケーキは先割れスプーンで食べて貰っている。先割れスプーンは思ったよりも万能で、片手でも食事に困らないのだ。カップと持ち替えるのが面倒そうなくらいだ。
「美味しい。いいなあ澪さんは。毎日こんなご飯食べられて」
「羨ましいだろ」
澪はニイと笑った。
2人はお出かけの準備を終えると、自転車で出かけていった。自転車だとたぶん、行き先はショッピングモールだと思われた。
静流は洗い物を済ませて、羽海に聞く。
「僕が洗濯してもいい?」
「今更しずるちゃんにブラとパンツを見られたところで恥ずかしがらないよ。いや、恥ずかしいのは恥ずかしいけど、昨日は普段使いのB級だったから」
「そこはほら、常に戦闘態勢ってわけじゃないんですから仕方ないですよね」
「その通りだ」
静流は洗面所に行き、洗濯機の洗濯槽の中を確認する。おそらく昨夜の面倒をみた雫がだろう、羽海の下着類は保護ネットの中に入っていた。色物でもないようなのでこのまま回せそうだ。静流は規定量の洗剤と柔軟剤を入れ、スイッチを入れ、スタート。これでしばらくは洗濯機が仕事をしてくれる。
リビングに戻ると羽海はコタツに潜り込み、もうコタツムリと化していた。
「諦めるの早!」
「だってすることないし」
「片手だってムリせずできること、いっぱいあるでしょ」
「たとえば?」
「Eテレで教養を磨く」
ちょうど日曜美術館の時間になるところだ。
「そんなんしてる10代は日本でしずるちゃんだけだ」
「そんなわけない。それに羽海ちゃんは20代でしょ。20代なら見ている人は結構いるはずだ」
「またディスる」
「20代でディスるとか意味不明だよ」
静流が液晶大型TVをつけると日曜美術館が始まる。今回は中世の仏教美術。苦しい時代を生きた人々が極楽浄土に生まれ変わることに願いを託し、その様子を理解するために作られた絵巻物や曼荼羅図を紹介していた。
「なるほど。美術館を解説付きで見るような感じだ」
「日曜美術館は見るの初めて?」
「うん。興味ないし」
「興味が無くても面白いものはその人次第でいっぱいあるよ」
「そうだね」
曼荼羅図や説教絵巻はキリスト教の宗教絵画と同じ役割を持っている。文字が読めない人たちを絵で見て、宗教観を伝えるのだ。現世で悪行をすれば救われない地獄絵図も主教の枠で現世の安寧をもたらすものでもあった。
「現代は自分で頑張れば報われるからいいね」
「そう考えられない人もいるし、いろいろな理由でそうできない人もいるけど」
「何が救いなのかねえ。文明が発達したからってイコール苦しい世界から抜け出せるってわけじゃないんだね」
「とはいえ、水が出てきて明かりが点いて、中世の人たちが想像ができないくらい便利だけどね」
「幸せ不幸せは個人のもので相対的でもあるから仕方ないね」
「本当だ」
南無阿弥陀仏を唱えて、信じて、極楽浄土へ行ける、そのイメージの中で文字通りあの世に旅立った人と、現代で足掻いてなにも考えず、死とともに無になる人の差はなんなのだろう。どちらが正しいとも幸せとも言えない。そんな答えを出せるほど、静流の人生経験は豊かではない。
番組は終わった。
「面白かった」
「それは良かった」
その後は将棋の番組で、羽海もさすがにもう興味の無い分野の番組を見るのは疲れてしまったようだった。
「お昼ご飯はどうするの?」
「羽海ちゃん、食べたばっかりでしょ」
「軽かったじゃん」
「羽海ちゃんが好きなものを作りますよ」
「じゃあ美味しいもの作って」
「またぶん投げられた」
静流はレシピを脳内サーチし、冷蔵庫の中にあるもので作れるもので、評判が良かったものを作ろうと決めた。
「しずるちゃん、まだ作らなくていいから肩揉んで。難しいの見てたから、凝っちゃった」
「はいはい」
羽海の後ろに膝立ちし、羽海の肩を揉む。凝ったと言う割にはとても柔らかい肩だ。どこもかしこも柔らかいんだろうなと思うと、また一部が元気になる。悶々とせざるを得ない。別のところを揉みたくなる。
「おっぱいも揉む?」
心を読まれたかと思って静流は激しく動揺する。
「も、揉みたいけど揉まないよ!」
「正直でよろしい」
羽海は上機嫌になった。どうやら正答だったようだ。
しばらく肩を揉んだ後、洗濯物を干す。
片手でも洗濯物は干せるので、静流は洗濯かごに洗い終わったものを入れて羽海に手渡す。苦労するだろうが、羽海に干して貰う。
その間に、けっこう時間が経ったので静流はお昼ご飯を作ることにする。
聞き逃し配信でクラシックを聴きながら、静流はキッチンに立つ。
トマト缶を煮詰め、ハーブと一緒に煮て、オリーブオイルとニンニク、胡椒、岩塩。
別のフライパンで豚の粗挽き肉を炒め、固めに茹でたパスタを投入し、肉汁を吸わせた上で、煮詰めて作ったトマトソースと和えて、お皿に盛った後は乾燥バジルでアクセントをつける。スープはインスタント。
「いい匂いがする~~」
洗濯物を干し終えた羽海がキッチンにやってきた。
「ポドモーロです」
「トマトとバジルのいい匂い」
「美味しいといいんだけど」
2皿盛って、羽海と一緒にお昼ご飯にする。先割れスプーンで羽海はパスタをとり、口に入れる。
「美味しい! お店の味だ!」
「気合いでこのくらいのソースは家でも作れるよ」
「料理、興味ないからなあ。でも、焼き芋は楽しかったな」
「イベントは別腹です」
「いや、これ、本当に美味しい」
「作り方を教えるから羽海ちゃんも家で作ればいいんだよ」
「ううん。しずるちゃんに作って貰って食べた方がいい」
羽海は上目遣いで向かいに座る静流を見る。これはズルいと思う。
「そうだね。澪さんがOKしてくれたら」
「ダメだな、そりゃ。こんなには甘やかせて貰えない」
「ふふ。でも来年のキャンプで美味しいものいっぱい作るよ。桃華ちゃんのお父さんの方が張り切って作るとは思うけど」
「本成寺さんも料理するよね。料理ができる男の人、結構いる」
「細野くんも作りますしね」
「料理ができる男はいい男だ」
「世間の風潮もそうなればいいんですけどね。料理、楽しいんだけどな。結局、同じ消費するなら日々必要なもので、どうしてもしなくちゃならないことに回せば、コスパもタイパも高いんだから」
「耳が痛いねえ」
羽海は苦笑する。
玄関の扉が開く音がした。
「ただいま~~ あートマトソースの匂いだ!」
雫が元気よくリビングに飛び込んできた。
「もうお昼ご飯食べてる!?」
「澪さんと雫ちゃんの分のソースを残してあるから、すぐパスタを茹でて作るよ」
「やった!」
澪もリビングに来て、立ったまま羽海を見下ろして言った。
「ずいぶん甘やかされたようで」
「否定しません」
「今度、私も甘やかして貰おうっと!」
それは怖い。
「いいプレゼント、買えた?」
静流は荷物を手にした雫に聞いた。
「クリスマスまでのお楽しみだよ!」
それはそうか、と静流は微笑んだのだった。
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