第207話 羽海が家に転がり込む

「羽海ちゃん、荷物、こんなもんでいいの?」


「うん。着替えは必要だったら取りに戻ればいいんだし」


 静流は羽海の借家で彼女の生活物資をまとめて段ボールの中に入れていた。下着類はさすがに雫にまとめて貰ったが、そのほかは静流が整理して入れた。これから段ボール箱を担いで、マンションに戻る。


 羽海が踏切で名誉の負傷をしたその夜のことだ。最初は羽海も片手でなんとかしようとしたが、元々家事が苦手な羽海は、結局、静流に何とかしてくれと泣きついたのだ。結果、澪が、面倒くさいから家に泊めるわ、と言って、雫と一緒に荷物を取りに来たところだ。


「しずるちゃんに面倒見て貰えるなんて、怪我するもんだなあ」


「ラッキースケベが発生しないよう、最大限注意を払ってくださいよ」


「何言ってるのさ。嬉しいくせに」


「ウチがいるのにそんな不埒な会話は禁止! 禁止です!」


 雫が静流の前に立って、羽海からガードする。


「そうね。教育に良くないね。しずるちゃんとは大瀧さんがいないところで仲良くするね」


 羽海のからかいは止まらない。


「怪我しているからって羽海ちゃんを家に呼ぶなんて、お母さん、甘い、甘すぎる!」


 雫はさっきから怒ってばかりだ。


「羽海ちゃんが怪我した責任を雫ちゃんが感じていたから、澪さんは家に呼んだんだよ」


「それは分かっているけど……」


 雫が複雑な心境なのは想像できる。羽海と自分が話をしているだけでも面白くないのだろう。それにしても三角巾で左腕を吊っている羽海は痛々しい。


「基本的に羽海ちゃんの身の回りの世話は雫ちゃんがするんだよ」


「それはもちろん」


「えーっ! しずるちゃんは私の面倒を看てくれないの?」


「ご飯は作りますが、それ以上はしませんよ」


「マッサージしてくれたり、髪を乾かしてくれたり、靴下はかせてくれたりシャツに袖を通してくれたり」


「そういうのはウチがやる」


「しょぼーん」


 正直な落ち込み方をする羽海だったが、雨戸を閉めて、戸締まりをして借家を出る。静流は段ボール箱を抱え、雫がそのほかの荷物を入れた紙バッグを持つ。羽海は貴重品のバッグを右手に持っている。


 マンションまではすぐに着き、澪が玄関で出迎えた。


「まったく、世話が焼ける」


「褒めてくださいよ。人命救助したんですから」


「それとこれは話は別だ。動かせないのは片手だけなんだから、片手でできることは全部自分でやりなよ」


「仰せのままに」


 澪の前だと羽海も1人の若い女の子だ。年下の静流や受け持ち児童の雫と対するような態度はとらない。


 静流は雫の部屋に段ボール箱を置き、リビングに行く。羽海が寝泊まりするのは雫の部屋だ。あとでマットを持っていかねばならない。冬なので、前回泊まった時のようには行かない。羽海が静流の寝具で寝て、静流はアウトドアマットと寝袋で寝るのだ。静流は寝袋で寝ることに全く抵抗がないので別にいいのだが。洗ってあるシーツとはいえ、羽海が寝るのはなんか悪い気がした。雫と羽海はすぐに雫の部屋に入ってきた。


 静流はリビングに行き、ちょいと大学のレポートを仕上げ、いつでも寝られるようにした。静流が風呂に入った後に、羽海から雫にもうSOSが来た。


「大瀧さん、さっそくだけど背中拭いてくれる? もう遅いからさ」


「シャワーくらい浴びられないのか」


「2、3日ダメみたい」


「気の毒に」


 そんな会話がリビングまで聞こえてくる。そうか。ラッキースケベを起こさないためにも、静流は今のうちに寝具を雫の部屋に移す。どうやらお風呂の残り湯を使って身体を拭いているようだ。あの巨大な、先日自分の胸に押しつけられた2つの物体が、ブラから解放されて重力に従って揺れ、雫に背中を拭かれながら、左手で乳輪を隠している姿を想像するだけで、静流の一部が元気になってしまう。


 だめだ。これは。早く寝よう。


 2人が洗面所から出てきたのを確認し、入れ違いに逃げるように入り、歯を磨くと、少し早い時間だが、寝ることにした。久しぶりの寝袋は耳に寝袋の表面のナイロンがこすれるガサガサする音が気になる。しかしそれもしばらくすると懐かしい音に変わり、静流はすぐに眠りについた。




 静流がトイレに目を覚ましたのは午前2時前だった。最近、朝まで眠れないこともある。もう子どもではないんだな、と自覚する。


 リビングの方が明るいことには気がついていたが、静流はトイレを終えて、誰が起きているのか気になって行ってみた。


 明るいと言ってもLEDの照度は最低で、薄暗かったのだが、大型液晶TVからの明かりでシーンによって明るくなったり暗くなったりしていた。


 こたつに入っていたのはパジャマの上に上着を羽織った羽海だった。


「眠れないの?」


「布団、しずるちゃんの匂いがした」


「ごめん。やっぱ男臭い?」


「ううん。イヤじゃなかったよ。イヤじゃ、ね」


 そして羽海は振り返り、静流を見た。陰影が濃い羽海の顔はいつもよりずっと美人に見えた。


「映画、見てるの?」


「うん。この前、大瀧さんたちが遊びに来てくれたときも映画を見たんだよ。『チャップリンの独裁者』」


「そうだったんだ。今日は?」


「『カサブランカ』」


 これまたケチのつけようのない名画だ。この世代きっての名優ハンフリー・ボガードとこれまたトップ女優だったイングリット・バーグマンが、親ナチス政権のフランス植民地の都市、カサブランカで連合国側に脱出しようともがく人々と、その中で再会した元恋人たちの物語だ。一言で言えば、切なく、渋い。いや、これでは二言か、と静流は自嘲する。


「好きなの?」


「たまに見返すくらいには。『君の瞳に乾杯』って台詞、あるでしょ」


「有名な」


「元の台詞は“Here’s looking at you, kid.”なんだよね。Here’sが乾杯だから、君を見ながら乾杯、くらいなんだけど、名訳だよね」


「オリジナルの雰囲気を壊さず、意味を足してる」


「そうとも言えるかな。英語の映画を日本語で鑑賞するんだからどうしてもその辺の切り替えは発生するよね。とはいえ、あまりにも有名すぎる」


 羽海はコタツの上のグラスを掲げ、静流に向けた。


「Here’s looking at you, boy、かな」


 そして羽海は笑った。ただでさえ可愛い羽海が、本当に可愛く見えた。年上の初恋の人。どうしてここにいるんだろう。すごく、不思議だ。


「怪我してるのに。お酒は治りが悪くなるよ」


「分かってる。だからこれはただの炭酸水」


「ならいいんだけど」


「心配性だな。しずるちゃんは」


「羽海ちゃんは大切な人だからね」


「澪さんも雫さんも大切な人なんでしょう?」


「もちろんそうですよ」


「知ってた」


 羽海は画面を見続ける。ちょうど例の『君の瞳に乾杯』のカウンターでのシーンになった。確かに、ハンフリー・ボガードが言っているのは“Here’s looking at you, kid.”だ。


「イケず」


「なんで?」


「女の子にそれ聞く?」


「確かに。ダメな男の対応ですね」


 静流はまだ黙っていた方が良かった気がする。


「女の子は――いつだって自分を1番特別に思って貰いたいから」


「正解です。よくできました」


 そして画面から目を離し、羽海はニカーっと笑った。


「羽海ちゃん、大変だったね」


 静流がそう言うと羽海は目を画面に戻した。


「正直ね、とても怖かったよ。足が震えたんだ。でも、ここで逃げ出したら一生後悔すると自分に言い聞かせて、無理矢理足を動かしたんだ。そうしたらすごい力が出た。アドレナリンどくどく出るっていう表現、あれだなって分かった。火事場のクソ力って奴だ」


「80万パワーを超えちゃった」


「わたしゃキン肉マンかい」


 羽海は静流の冗談に笑ってくれた。


「子どもの前で、大人の姿を見せられて良かった」


「うん。リスペクトするよ。同じことが僕にできたかどうか」


「私も2度できるかどうか、甚だ疑問だね。那古屋さんが緊急ボタンを押してくれて、大瀧さんが歩行車を拾ってくれたからなんとかなった。私は歩行車まで持っていこうとしたからね。アホだ」


「緊急時にベストな判断をできる人なんていませんよ」


 それに尽きると思う。


「痛い?」


「ちょっとね」


「何か、飲み物を作りましょうか。ラテで、甘いの」


「どうして甘いの? 炭酸飲んでるのに」


「甘い飲み物の方が眠れるから」


 正確には牛乳に入眠作用がある、だ。


「ありがと」


 静流はその答えを聞いて、キッチンに行って明かりを点ける。そして牛乳を電子レンジで60度まで加熱し、ココナッツフレーバーのインスタントコーヒーと砂糖を混ぜる。それと別に高脂肪の牛乳を電動泡立て器で泡立て、カップの上に注ぐ。


 カップをコタツの上に乗せ、静流は言う。


「はい。ココナッツフレーバーラテ」


「ココナッツフレーバー? うん。微かにそんな匂いかも」


 羽海はそっとミルクの泡に口を付け、唇の上に白いヒゲを生やした。


「美味しい――そして、落ち着く」


「おやすみ。羽海ちゃん。今日は日曜日だから寝坊しても大丈夫だよ」


 そして静流はリビングをあとにしようとしたが、羽海に呼び止められた。


「待って。しずるちゃん」


 静流は振り返った。


「何かして欲しいことある?」


「ううん。大瀧さんが羨ましいだけ。私はもう大人なのに、出会いで児童に負けるって何、とか思っちゃうの。2人が空手道場に行こうって誘ってくれたの、例の消防士さんと引き合わせようとしてるんだなってなんとなく察してた。そんなに興味があるわけじゃないけど、男の人とお知り合いになること自体は悪いことじゃないし。でも、やっぱり、こういうの、縁がないって言うんだろうな――大瀧さんじゃなくて、私がしずるちゃんの運命の人だったら良かったのに……」


 そんなことを言われたらぐっときてしまうし、どう答えればいいのか、経験値が足りない静流には見当が付かない。


「僕が運命の人だったら――?」


 羽海は微笑んだ。


「こんな風に思いっきり甘えさせて貰えるし、家事もして貰えるし、絶対に楽」


 微笑んだのではなく、ドヤ顔だった。


「羽海ちゃんがダメ人間になっちゃうからダメです」


「分かってる」


 今度こそ、少し苦笑交じりだが、羽海は微笑んだ。


「ラテ美味しい」


「飲み終わったら寝てね」


「映画を見終わったらね」


 まだまだ終わるまでありそうだが、朝寝坊してもいいのだ。


「おやすみ」


 静流は自分の部屋に戻った。


 カサブランカは最後、元恋人が抗独レジスタンスの指導者である夫と一緒に飛行機でアメリカに発つところで終わる。一方、主人公と名脇役の警察署長はナチスとの戦いに身を投じる決心をする。


 何が運命で、誰が運命の人なのだろう。


 静流は少し考えたが、すぐにまた眠りについたのだった。

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