第206話 羽海ちゃんと師範代を会わせたい
先日、空手道場でさくらと榊の演舞を見たとき、普通に師範代がいたことを思い出して、雫は、わざわざ会う機会を設けなくても空手道場に連れて行けばいいんじゃないかということに気がついた。いや、もっと早く気づけよ、自分。2人とも独身だし、写真を見る限りでは悪くは思っていないようだから、引き合わせればデートくらいにはこぎ着けると思うのだ。
ということでさくらに師範代の予定を聞いてみることにした。朝の教室でさくらを待つ。3人の中では最近、さくらが1番登校が遅いのは走り込みのせいだろう。首を長くして待っていると元気にさくらが教室に入ってきた。
「おはよう、雫、美月! 今日も可愛いな!」
「何故でしょう。あんなに王子様感があった大坂さんが今となってはちょっと言葉遣いがぞんざいな女の子にしか見えないのは」
「それはゆうきちゃんという比較対象ができたから」
「なんで朝一からディスられないとならないんだ?」
「ごめんごめん。ほら、この前、みーちゃんの田舎にゆうきちゃんと一緒に行っただろ? そのとき、ゆうきちゃんが宝塚の影響を色濃く受けていたんだ」
「男役を演じられたら素ではかなわんよ――で、なんだ、その目は」
「いやいや。もうすぐクリスマスじゃない? なにかイベントをと思って」
美月がさくらを上目遣いで見る。
「べ、別にあたしには予定も何もないぞ。空手するだけのクリスマスだ」
「週末だから道場行くよね」
雫は目を細めた。さくらは動揺しつつ答える。
「お前らが想像している甘酸っぱい展開はない!」
「大坂さんの甘酸っぱい展開を期待していないといったら嘘ですけど、もっと別の、大人の出会いが、あるじゃないですか」
「――師範代と羽海ちゃんか。前から計画はしているが、いつも師範代の都合がつかなくて会えていないという」
「本人もきっと縁が無いんだとおっしゃってましたそうですよ」
「縁なんて作るものだ。師範代を羽海ちゃんに紹介するという点においては異存は無いよ。その先は本人同士の問題だから首は突っ込まないけど」
「だってアダルトだからな」
雫はさすがに首を突っ込む気にはなれない。
「で、今回の作戦はなにかあるのか?」
「空手道場の見学に羽海ちゃんを誘う」
「直球だなあ。さすがに気がつくんじゃないのか」
「いや、本人、分かってるから」
「大瀧さんは羽海ちゃんに彼氏ができたら静流さんがからかわれることがなくなるから安心なんですよ。だから必死なんです」
美月の言っていることは100%正しい。
「うん。予定を確認しておく。さすがに道場に行けばなんとかなるだろ。3度目の正直だし」
さくらも同意してくれた。あとは本人の問題だ。その当の本人が教師の顔で教室に入ってきた。雫が知っているへべれけの羽海とは訳が違う。きちんとした社会人の羽海ちゃん先生だ。今日も元気。
「さあ、今日も1日元気にいってみよう! HR始めるよ~~!」
この羽海ちゃんが休日になると仕事イヤだ~~と酒を飲んで愚痴るなんて、他の誰も知らないんだろうな、と雫は思う。そう思うと羽海ちゃんにも幸せになって欲しいと願うのだった。
その夜、さくらから師範代が土曜日には道場に顔を出す予定である旨の連絡を受け、雫は羽海に連絡を入れた。
〔要件は2つ。1つは成人の日がらみの3連休にキャンプに行きます。目的は星空観察です〕
〔星空学習、4年生! これは体験しておかねばならないだろう。いや南房総でも綺麗なところはあるんだけどね〕
〔じゃ、参加ってことで。詳細は追って静流から。いつメンです〕
〔アウトドア料理が楽しみだな〕
〔サイト内禁酒だそうです〕
〔げげげ。仕方ない。ノンアルで誤魔化そう〕
〔要件のもう1つは今週末、時間はありますか〕
〔片付けなければならない仕事がなければ暇だよ。何するん?〕
〔さくらちゃんが最近、演舞にはまっていて、道場まで一緒に見に行きませんか〕
〔いいよ。駅前だったよね。買い物ついでに一緒に見ようか〕
〔じゃあそれで決まりで。お願いします〕
羽海ちゃんは師範代と会わせようとしていることを分かっているのだろうが、文面にはしなかった。文面にするとまた縁が遠のいてしまうと考えているのだろうか。いや、それは考えすぎだなと雫は反省する。
リビングにいた静流を捕まえて、羽海がキャンプに参加することを伝える。
「美月ちゃんのパパさんから高村姉弟が参加できる旨の連絡があったよ。これで僕、雫ちゃん、美月ちゃん家2名、さくらちゃん、高村姉弟、桃華ちゃん家2名。羽海ちゃん、10名だ。僕は自転車で、あとは車2台に分乗で12名最大だからまだ余裕があるね」
「じゃあ、私も行こうかな」
風呂上がりだった澪が言った。
「え。キャンプサイトはノンアルですよ」
「私のことをなんだと思っているんだい。ちゃんと星空を愛でる心の余裕くらいあるよ」
「それは失礼。ではカウント」
静流はなにやら複雑そうな表情を浮かべていた。何かあるのだろうか。しかし今は何も分からない。
静流は桃華ちゃんのお父さんにキャンプについての連絡を始めた。アウトドア料理の検討をしているらしかった。
おさんどんしなくても済むキャンプはなかなかに楽しそうだ。銚子までいって温泉にも行く話も持ち上がっているらしい。楽しみが増してきた。
あれよあれよという間に週末の土曜日が来て、午後1番の時間帯にさくらと待ち合わせた。今回は師範代が予定通り道場に来ているか確認してから行くことになっていた。無事、12時には師範代が来ている旨の連絡が来て、計画実行となった。午後1時に京成駅前で羽海と待ち合わせ、美月も少しだけ遅れてやってきた。
「やあやあ。いつもどおり2人仲良しさんだね」
雫と美月を見て羽海は目を細める。
「しずるちゃんは来ないんだ?」
「ぜんっぜん考えてなかった。そうだね。羽海ちゃんだけじゃなくて静流にも見て欲しかったな」
雫は視野の狭さを反省した。美月がフォローしてくれる。
「でもまた今度がありますわ」
「そうだね。じゃあ、行こうか」
3人は駅前から踏切の方に歩いて行く。空手道場は線路の向こう側の雑居ビルの中にある。エスカレーターとエレベーターを使って駅の中を通る手もあるが、どう考えても踏切の方が近い。
踏切は空いていて、車に自転車、多くの歩行者が歩いて行く。船橋の方は高架になったが、こちらの方はまだまだだ。おそらく雫が大人になってもまだ線路のままだろう。
「いやあ。大坂さんの空手を見るの初めてだ」
「え、そうでしたっけ。これは不覚でしたわ」
そういえば羽海ちゃんを空手大会に誘ったことがない。
「ゆうきちゃんとの決勝戦、見て欲しかったな」
そのタイミングでカンカンカンと警報器が鳴り始めた。3人は線路を渡りきったタイミングで後ろでガッシャンと何かが倒れた音がした。
振り返ってみてみると自転車と歩行器を押して歩いていたおばあちゃんが接触して倒れていた。
「緊急ボタン押す!」
羽海が叫び、雫は一瞬、遅れる。美月が走り、緊急ボタンのカバーを割って叩くように押す。自転車の人は自力で立ち上がり、自転車を避難させるがその間に遮断機が下りる。
羽海はおばあちゃんを抱えて立ち上がらせ、雫は歩行器を持っていち早く線路の外に出る。羽海は人1人抱きかかえて跳躍し、どうにか反対側の遮断機の向こう側に逃げ、そのまま倒れた。
「うわああああああああああ!」
雫はもう言葉が言葉にならない。人生最大のヒヤリハットだ。歩行器を持っているので立てているが、もう足に力が入らない。美月も足をがくがくと震わせている。
「助かったーーーー!」
幸い、緊急ボタンを押すのが早く、電車は駅から出るところだったので動くことはなかった。だが、1つ間違えば大事故になっていた。
雫は歩行器の持ち手に体重を掛け、大きく息を吐いた。
駅員さんが駆けつけ、雫や美月、そして羽海とおばあちゃんに駆け寄ってきた。踏切の向こう側の羽海は、苦しそうな顔をしている。跳躍して踏切から出た際に、アスファルトに倒れ込んだのだが、どこかをぶつけたらしい。だが、羽海は美月と雫が心配そうに見ていることに気づくと、左肘を押さえながら笑顔を作った。
「2人ともよくやった! 私の自慢の児童だ!」
褒められた。でも、羽海はとても痛そうだった。2人は遮断機があがったので羽海に即座に駆け寄る。足の震えは止まっていた。
救急車がやってきたが、乗っていったのはおばあちゃんの方だ。自転車と接触して転んだ際に頭を打っていたようだ。おまわりさんも来て事情聴取を始めようとしたが、羽海が左肘をかばっていることに気づき、後日とした。3人とも連絡先を聞かれ、事情聴取となると言われた。それはそうだろう。
「羽海ちゃん、大丈夫?」
「いや。肘をやっちゃったみたいだね。2人は大坂さんのところに行きなさい。私は病院――いや、土曜の午後だからやってないな。やっている整骨院に行くよ」
雫と美月は首を横に振った。
「イヤだ。誘ったウチの責任だ。羽海ちゃんと一緒にいる」
「私もそうします!」
「やれやれ、強情だね。うん。わかった。つきあってくれる?」
そしてすぐ近くの整骨院に行き、看て貰うと肘の軟骨損傷を疑われた。正確な診断にはレントゲンが必要だということだった。手当をされて、三角巾で左腕を釣ってしばらく安静にするようにと言われた。
「いやあ、やっちゃったね!」
羽海は笑顔になって整骨院から出た。
「羽海ちゃん、ごめん」
ただ師範代と引き合わせようとしただけなのに、こんなことになってしまった。
「でも、緊急ボタンを押せて偉かったよ那古屋さん。大瀧さんは歩行器を無事持ち出せてよかった。本当は危険なことをして欲しくなかったけど、まあ私が抱えようと思ってもいたから、本当に助かった。ありがとう」
羽海は小さく首を傾げ微笑んだ。自分と美月の泣きそうな顔を見てなのだろう。
「君たちは間違いなくいいことをしたんだよ。さて、これではとても空手道場に顔は出せないね。済まないけどお買い物に付き合ってくれるかな。しばらく片手だから、不自由しないようなものを買い込みたいんだ」
美月と雫は頷いた。
どうやら本当に師範代と羽海に縁はないようだ。ウチらが無理矢理くっつけようとしたからバチが当たったんだ。
そう思うと雫は泣けてきたのだった。
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