第190話 コーヒーでブレイク

 すみれが来てくれたのはありがたい。静流の保護者としての仕事が少し減る。静流が観客席から立ち上がると雫が聞いてきた。


「どこに行くんだ?」


「コーヒーセットを持ってきたから外でいれて飲んでる。まだ試合の開始時間までけっこうあるからね」


 入り口でもらったお知らせの紙を見ると小学生高学年の部まであと1時間以上ある。


「静流はコーヒーが本当に好きだな」


「こんな余分な荷物を持ち運べるのは自転車移動の強みだからね」


 そしてコーヒーセットを持って、体育館の外の公園に行く。ベンチに座り、カセットガスを使ったアウトドアストーブでお湯を作る。ヤカンはアウトドア用の小さなものだ。カップ麺1つ分のお湯を作れる。


 お湯が沸く間にラジオをセットする。いつもと同じクラシック音楽の時間だ。外でコーヒーを飲むのは2日連続だが、贅沢な時間だと思う。


 缶の中の挽いたコーヒー豆をスプーンですくって、ドリッパーに入れる。ドリッパーはステンレスフィルターだ。コーヒーを入れた後、豆は土に帰るので植え込みの中に入れるようにしている。いい肥料になるらしい。


 お湯が沸いた。ゆっくりとお湯を注ぎ、コーヒー豆を蒸らす。いい匂いがしてくる。30秒間、ガマン。その後、ゆっくりドリップ。


 いいコーヒー豆を使っているので、匂いもいい匂いだ。


 ステンレスのマグカップに口をつけ、安堵する。何度か小学生の引率をしてポタリングしているが、やはり何度やっても緊張する。大人の責任があるのだ。何をするにも人間、責任が伴う。静流はそれを実感する。


「おはようございます。大瀧さん」


 声を掛けられ、静流は顔を上げる。


「やあ。榊くん。調子はどうだい?」


 静流が座るベンチの前に立っていたのは、もう道着に着替えた榊だった。


「ベスト8を目標にしています」


「うん。頑張ってね。ウォーミングアップ?」


「ということにしていますが、大瀧さんが外に出るのが見えたので出てきました」


 なにやら静流に話をしたいらしい。


「ここに来るまでさくらちゃんと一緒だったんでしょ? どう? 何か変化あった?」


 榊は首を横に振った。静流はまたコーヒーを一口すする。


「どうだい? コーヒー飲む?」


「飲んだことないです」


「苦いよ」


「でも、美味しいんでしょ?」


「うん。でも人間、なんでもだけど、慣れるまで美味しいと思わないものだから。特に苦いものは。ピーマンもニンジンも本能的に、苦い=危険、だから苦手な子が多い。コーヒーもそうだと思うよ」


「それでも、誰でも初めてはあるでしょうから」


 初恋が破れるも苦いものだ。静流は再びヤカンに水を入れ、お湯を作る。


「カフェインは合法的なドーピングだよ」


「イヤなことを言う」


 お湯ができたら、再びドリップ。紙コップの中に漆黒の液体が落ちていく。


「いい香りですね」


「だろうね。今日のは割と高い豆だから」


「ごちそうになります」


 静流が紙コップを榊に手渡し、榊は両手で紙コップを持つ。


 少し冷めてから、榊は紙コップに口を付けた。


「苦いな。でも、苦手じゃないみたいです」


「それは良かった」


 静流はヤカンとガスストーブを片付ける。


「こんなことなら告白なんかしなければよかったって思ってる顔をしてる」


「そう見えますか。図星です」


「でもさ、僕なんか、女の子に告白したことがないから、榊くんの勇気を賞賛するよ。僕も初恋の女の子に好きだって言えば良かった。そうすれば後悔することもなかった」


「でも俺、今、後悔してますよ」


「しないでする後悔より、してする後悔の方が、マシだよ。誰かを傷つけなければだけどね」


「俺、あいつを傷つけたでしょうか」


 あまりにも切なそうな顔をして榊が言うので、静流は露骨に首を横に振った。


「そんなことないよ。戸惑いと不安は感じていると思うけれど、傷ついてはいないと僕は思うよ」


「それなら、いいんですが」


「両思いになるなんて奇跡的なことなんだから、と思おうよ」


「大瀧さんはどうなんですか?」


 露骨に返された。


「もっと歳の差がなかったらねえ。素直に動けたんだろうけど、今の僕はどんなに雫ちゃんに好かれても保護者の立場を外せないから」


「難しいですね」


「ままならんのさ。それが当たり前なんだ。だから榊くんもその前提で、今日のところは目の前の空手に集中するんだね」


「押忍!」


 榊は紙コップのコーヒーを飲み干すと、紙コップを握りつぶし、体育館に走って戻っていった。


 男の子だなあ、と思う。彼の人生の1ページを垣間見られた気がする。それはとても貴重な瞬間だと静流は思う。榊にはいろいろ頑張って貰いたいものだ、と心の中で言葉にして、静流も観客席に戻る。


 小学生低学年の部の試合が始まっていた。


「遅かったな、静流」


 観客席に座っている雫が訝しげな顔で静流を見上げる。


「うん。空手センパイと話していたからね」


 雫に隠すようなことではない。美月がなるほどという顔をする。


「そうですか。空手センパイも不安なんですね」


「そりゃそうだ。さくらちゃんの手前、みっともない成績というわけにもいかないだろうからな。気持ちは分かる」


 それもそうだが、移動の最中も一緒だったのだ。肩身が狭かろう。


「榊くんのこと?」


 すみれが聞いてくる。榊に告白された話をさくらが母親にしているとは考えにくい。


「そうです。私達は空手センパイって呼んでいるのです」


「榊くんの話はよく聞くわ。主に悪口だけど」


「だよなー」


「ですよね~」


 雫と美月が揃って頷く。


「榊くん……全くリカバリーできてないね」


 静流は残念に思う。まあ、仕方が無いだろう。彼はまだ小学6年生なのだ。


「榊くん、ウチの子のことが好きなのよね」


「露骨に分かりますよね」


 すみれの言葉に静流が頷く。


「わかるの~~ ウチのさくらちゃんってば、私に似てとっても美少女だからぁ」


「僕、どう返せばいいんですか?」


「本当にそうですね、とか言ってくれれば嬉しい」


「本当にそうなんですけど、すみれさんとさくらちゃんは親子と言われれば似てるといわれるレベルでは? 澪さんや美月ちゃんのママさんの似具合と比べると」


「でも似てるでしょ」


「そりゃまあ」


 身のない会話になってしまった。


 男子の低学年の部が早々に終わり、中学年の試合が始まる。さくらたちの道場からも出場する子がいるらしく、さくらはアリーナの端の方で応援の声を上げている。榊も応援している。別のところに陣取っているゆうきの道場の人たちも応援している。頑張っている子を応援する子を見るのもまたいいものだ。


 静流は空手のルールはあまりよく分かっていないが、応援の反応でなんとなく分かる。どれが有効でどれが技ありなのか、どうすれば1本なのか。遠目からでは判別着かないので、審判の旗と応援の反応が全てだ。


「面白いなあ」


 静流はつくづく思う。誰かが一生懸命になれるものは、門外漢が見ても面白いのだ。


 中学年の部が終わり、いよいよ高学年の部が始まった。入り口で配られたプリントを見て、まずは榊の出番がさくらとゆうきより先なのが分かった。第1試合だった。


 榊は明らかに緊張していたが、相手は5年生らしく、負けられない戦いだった。榊は相手の攻撃を上手く捌き、技ありで1回戦を突破した。


「空手センパイ、やるじゃん」


「こんなの見たら、応援団でファンになった子たちの目がまた♡になってしまいますね」


「あんな子に好かれているなんて、さすがウチのさくらちゃん」


 雫と美月とすみれ、三者三様である。


 そして別区画でさくらの出番がやってきた。


 開始線に立つさくらの表情は、今までになく落ち着いていた。対戦相手は6年生で、体格が違うがそんなのは関係なさそうだ。


「これは期待できそうだね」


 静流は頷く。雫が応じる。


「さくらちゃん、見えてるって言ってたからなあ」


「言ってましたね」


「何が見えてるって言っていたの?」


 静流が聞くが、2人は答えない。


「たぶん、試合を見ていれば分かる」


 雫の言葉を信じて、試合開始の合図を待つ。


 開始の旗が揚がり、最初は様子見でお互い、牽制で打ち合う。そして対戦相手がリーチの差を活かして初撃を入れるが、それを簡単に捌いてカウンターで前蹴りを顔面に入れる。もちろん寸止めだ。メンホーと呼ばれるプロテクターにコンと当たる程度だ。


 1本の旗が揚がり、その後、有効をすぐにとって、勝負は一瞬で決着した。


「何が起きたんだ? 今までのさくらちゃんと違う」


「今まで省労力で体力温存で苦労してましたもんね」


「体力うんぬんじゃないな」


 雫と美月は過去を振り返り、静流は冷静に試合運びを振り返る。千葉市の大会で見たときと明らかに余裕が違う。風格みたいなものが漂っている。


「これはゆうきさんとの特訓のお陰ですね」


 すみれが小さく頷く。選抜に入るクラスの選手であるゆうきと日々練習をすれば、イヤでもレベルが上がるのだろう。まずは弱点を克服でき、その先も見えたのだ。


 最後にシードのゆうきが試合に登場した。対戦相手は1回戦を勝ち抜いた選手なのでそれなりのはずなのだが、ゆうきは相手の攻撃を捌くどころかスウェイでかわし、カウンターの回し蹴りでポイントを取った。そのあとは特にスウェイだけして、決着がついた。練習でもしているかのようだ。格が違うとしか言いようがない。空手の天才少女だ。観客席からも黄色い歓声が上がっている。小学校だけではなく、空手の王子様でもあるのだ。


 さくらにとっては不足のない相手で、目の前の大きな壁だ。トーナメント表を見ると決勝で会うことになる。それまでさくらが、ゆうきが負けないことを祈るしかない。


 がんばれ、2人とも。


 静流は心の中で言葉にしたが、後で榊も戦っていることを思い出し、申し訳ない程度に榊くんも、と付け加えた。彼が頑張らなければならないことは空手だけではないからだ。後悔しないよう全力を尽くし、さくらの見る目を変えて欲しかった。

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