第118話 東京湾でも海の香り


 さくらと組が決まったとき、ローキックが来るかと身構えてしまった静流だったが幸い、それが放たれることはなかった。インフレータブルカヌーの後ろにさくらが乗り、静流が前に乗る。少しばかり前荷重になって船首が沈んだので水の抵抗が大きくなったが、許容範囲だった。


 カヌーなのでシングルパドルで漕ぐ。静流が右を漕ぎ、さくらが左を漕ぐ。かけ声をかけて、テンポよく漕ぎ出すとすーっとカヌーは水面を滑り、橋の下から出て陽光にさらされる。朝の日は夏でも少し弱い。気持ちのいい陽光だ。


「いいねえ」


「風に流されるなあ」


「風向きを注意して進もう。進路はさくらちゃんのパドリングの強弱でよろしく」


「任せろ」


 さくらからは頼もしい返答があった。


 雫と桃華が乗ったインフレータブルカヤックが先に行っている。スピードはあっちの方があるようだ。後ろにフォールディングカヤックの美月・桃華の父組がもう迫っていた。インフレータブルよりもずっと早いらしい。


「静流さん、遅い~」


 美月が抜きざまにさくらと静流をからかう。


「こっちは推力半分だしなあ」


 シングルパドルは割と大変だ。パドルを船体にぶつけないように漕ぎつつ、水流は船体にぶつける。そうすることで直進性が増す。さくらがムキになったように言う。


「体力なら負けないぞ」


「練習だからまだとっておこう」


「おっと、そうだな」  


 少しずつ2人の呼吸が合ってきて、けっこう前に進むようになった。しかし遠くに2艇見えているのはもう船体の違いだろう。


「しかしあたしのターンが来るとは思わなかったなあ」


「さくらちゃんのターン?」


「こっちの話だよ。どうなの? 羽海ちゃん先生とはあれからなんかあったの?」


「澪さんと呑んで、つまみを作らされた」


「ははは。それは聞いた。あんな美人でいい人なんだからさ、歳だって5歳差だろ? 姉さん女房にはなくはない年齢差だし、合法だよ。どうなの?」


「どうって言われても、向こうにその気はないよね。天然なだけで」


「そうかなー。この前の帰りの時なんか、女の顔してたけどな」


 さくらにそう言われて、館山駅で別れたときの彼女の顔を思い出す。


「そう、なのかな。僕には分からなかった」


「鈍いなあ。さすが静流お兄さん」


 パドリングは順調だが、ジェスチャーで旋回するよう桃華ちゃんのお父さんが合図してきたので、引き返すよう旋回する。さくらがパドリングを辞め、インフレータブルカヌーは時計回りに旋回を始める。 


「僕が鈍いのは分かってる。けど、鈍い振りをしていることもある」


「いや、単に鈍いね」


 さくらは強い語調で断言した。


「そういうさくらちゃんは気になる男の子はいないの? あのみんなが空手センパイって呼んでた男の子なんか、有望株じゃないの?」


「ああ――」


 さくらの返答は間が空いた。彼女がどんな顔をしているのかは前に座る静流からは見えない。館山のお祭りで偶然出くわした3人の上級生でさくらの空手の後輩に当たる空手センパイこと榊は割と礼儀正しく、己を節しているように静流には見えた。


 インフレータブルカヌーは直進を始めた。


「榊――空手センパイは師範代にいわれて、そういう振りをしているだけなんだ。そのうち身につくかもしれないけど、今は猫を被ってるだけ。だから無いかな」


「手厳しいね」


「だって小6のガキだよ。メッキならすぐ剥がれる。中学生になってどうなるのか、興味あるけど」


「正直、僕も18のガキだよ。人間、そんなもんだよ」


「でも、静流お兄さんはいろいろ頼りになるじゃん?」


「ニーズがマッチしただけさ。もっとエンタメでエキサイティングが男子を求める女子だってもちろんいると思うし、その子らにとって僕はつまらない男子代表だよ」


「まあそんな男子を求める女子なんて関係ないんだが」


 さくらがそう言ってくれるのは嬉しい。


「うーん。そうなるとどうなんだろう。あたしの求めている異性像って、たぶん、普段から丁寧で、相手を尊重して、いざというとき力になってくれる人だと思うんだ」


「そりゃ望みが高いね」


 するとシングルパドルの持ち手側で静流は小突かれた。ちょっと痛い。


「あ、ごめん。力んだ」


「もう。気をつけてね~」


「気をつける、気をつける」


「その点、悠紀くんは同年代の子には頼りにならなさそうだしな」 


「美月もそれは一目で見抜いてた」


「手厳しいね。さくらちゃんはどんな男の子が好きになるんだろうね」


「いや、あたしは恋多き乙女、だったんだよ」


「どうして過去形?」


「今、好きな人がいるから。だいぶ、長続きしているし。その人とどうなろうとか全く思ってないけど、まあ、1度くらいはデートしたいかな」


「できるといいね」


「チャンスがあればものにするぜ」


 さくらの頼もしい言葉が返ってきて、静流は嬉しくなった。


 フォールディングカヤックが先行し、着岸を促した。いい感じで練習ができた。


「楽しかったね~」


 雫が一足先に上陸して待っていた。桃華も続ける。


「たのしいでしょう~」


 インフレータブルカヌーを水に浸っているブロックの上につけ、ずりずりいっている間に、静流とさくらはせいのせいので、カヌーから飛び降りる。ばしゃんと水しぶきをあげて2人は着地、その後、ロープを引っ張って接岸した。


「静流くん、ダメだよジャンプしたら。きちんとパドルを使って船体を固定してね」


「はい」


「はーい」


 さくらと静流は桃華ちゃんのお父さんに怒られ、頭を掻いて反省した。


 今度は河口まで行くというのでトイレを済ませた後、交代する。雫は静流と一緒の艇に乗りたがったが、せっかくダブルパドルの練習をしたのだからと桃華ちゃんのお父さんに空気を読まない発言をされ、美月とチェンジした。


「桃華ちゃんよろしくね~」


「美月お姉さんもよろしくです」


 かわいいやりとりの後、今度は美月が後ろになる。


 最初に美月・桃華組が出艇し、息を合わせながら前に進む。


「やっぱりこっち遅い」


「おねだんが違いますから」


 空気で膨らませるものとフレームがあるものとでは明確に差がある。それでも形状はカヤック寄りなので静流が乗るものよりも早い。


「じゃあ行こうか」


 さくらに声をかけて静流は先に乗艇し、パドルで川底のブロックを押さえてさくらが乗る。さくらは身軽に川面から足をあげ、後ろの席に座る。カヌーは大きく揺れ、川底に船底が着いたが、ひっくり返るようなことはない。


「いこうぜ!」


 さくらがパドルを川底につけて船を押し出す。ざざっと船底を擦った後、すーっとカヌーが離岸し、美月と桃華が乗るカヤックを追いかける。


「気持ちいいね」


「うん。気持ちいい」


 海風と海の匂いが懐かしい。東京湾の河口なのにちゃんと海の匂いがするのはこのあたりが干潟だからだろう。すぐに雫と桃華ちゃんのお父さんが乗ったフォールディングカヤックが来て、併走する。そして静流の真横に雫がきたタイミングで叫んだ。


「さくらちゃん! 静流に手を出すなよな!」


「な、な、何をわかりきったことを! 手は出さない!」


 雫の念押しで、何かあっても殴られずに済みそうだ。


「まあラッキースケベも起きないだろうし。ライフジャケットがあるし、ショートパンツが座っているだけなら脱げることもないだろうし」


「そういうことじゃ――」


 しかしフォールディングカヤックはすーっとカヌーを追い抜いていき、父は娘が乗ったインフレータブルカヤックを追った。


「先に行くね~」


「ゆっくり行きます。今は満潮時だから河だけど海から流れが来ているから、河口までは頑張って漕がないとね」


「任せろ!」


 そう考えるとスピードに差がある3艇の中で、1番遅いカヌーに体力がある2人が乗っているのは偶然とは言え、賢明だったようだ。


 一生懸命漕ぎ、インフレータブルカヤックに追いつく。体力が乏しいペアだから休み休み漕いでいる。しかし流れが逆なので長く休んでもいられない。フォールディングカヤックが心配して、インフレータブルカヤックについている。


 河口に向かっている釣り船が近づいてきて、桃華ちゃんのお父さんがダブルパドルを高く掲げ、それに倣って6人ともパドルを上げた。水面すぐを進むカヌー・カヤックは釣り船からは見えにくいのだ。釣り船はカヤックに気がつき、進路を少し変えて迂回した。


 川面が大きく波打ち、カヌー・カヤックも大きく揺れた。


「おお、これはくるなあ」


「本当に他の船には気をつけてね。釣り船ならまだいいよ。怖いのはジェットスキーだよ。あれはもう――私見を言わせて貰えば河を自分のものだと勘違いしている連中が多いよ。あれは要注意だ」


 桃華ちゃんのお父さんが注意を促す。


「遊泳客を巻き込んだ死亡事故もありましたしね」


 猪苗代湖の悲しい事故の記憶は静流にもある。


 カヤックは流れに逆らって河口に向かう。水管橋を真下から見上げ、静流は水に濡らさないよう気をつけてスマホで写真を撮る。防水パックに入れてあるが、落としたら一巻の終わりだ。


「この光景はレアだよなあ。どこから水が来てるのかなあ」


 さくらもご満悦だ。こんなに近いところなのに完全に観光気分だ。


「今度、調べてみようね」


 そう答えるとさくらが笑顔で振り返る。そして東西線の線路橋も越える。真下で電車が通過し、6人が歓声を上げる。


「お父さん、すごいね、これ」


「桃華は鉄道も好きだからなあ」


「新発見だらけだ!」


 雫も嬉しそうに声を上げ、近くにいる静流を振り返り、静流は頷く。


 そして新しくできた橋の下をくぐり抜け、左手に清掃工場が見える。


「温水プールがあるところだ」


「また行こうね」


 静流が即答すると難しい顔をしてさくらが振り返った。


「静流お兄さんは羽海ちゃん先生がいなくても行く?」


「なんでそこで羽海ちゃん」


「小学生が3人揃っても色気は羽海ちゃん先生1人に足りないじゃん」


「色気関係ないから」


「そか。そだよな」


 さくらはまた難しい顔をして前を向いた。


 3キロほど下り、国道357号線の道路橋を通り、ついに河口を出た。


「このまま船橋の3番瀬辺りまで遠征したい気もするが、やめておこう。帰りも流れを逆に漕ぐのは大変だ」


 桃華ちゃんのお父さんのいうとおりだと思う。


 東京湾にはコンテナ船や釣り船、レジャーボートの行き交う姿が見えた。それはそれで楽しいのだが、初心者だけで遠出することが危ないことも確かだろう。 


「楽しかったね」


 さくらが静流に言う。


「うん。でももうひと頑張りだ」


 3艇はUターンし、江戸川放水路を上り始める。まだ満潮前なので流れは上に向かっていたので、帰りは楽々だった。6時半、満潮ちょうどに接岸したが、だいぶ水位が上がっていることに気づき、静流はこれも発見だなあと意識を新たにした。


「どうだい? 面白かったかい?」


 フォールディングカヤックをばらしながら桃華ちゃんのお父さんが言った。満潮の時間が終わると流れもできるし、また太陽もいい位置まで上がっていた。これからの作業のことを思うと潮時だった。


「最高でした!」


 静流は包み隠さず本音を言う。やはり桃華ちゃんのお父さんと自分の感性は近いようだ。女の子4人は水分補給をしている。トイレのことを考えるとなかなか船上で水分補給をする気にはなれない。  


 静流はインフレータブルカヌーとカヤックの空気栓を解放し、空気を抜く。桃華がやってきてカヌーの上に乗って、空気を追い出し始め、3人娘もそれに倣った。


「静流、すごいね、カヌー!」


「今度は一緒に漕ぎたいね!」


「うん。すっごい楽しみだ!」


 雫とデートでインフレータブルカヤックもいいかもしれない。1艇なら電車で移動できそうだ。貸して貰えるだろうか。


「ところで、問題はこれからだよ」


 桃華ちゃんのお父さんが少し憂鬱そうに言ったが、静流は楽観視している。


「分かってます。カヤックの洗浄でしょ? これだけいっぱいいればすぐに終わりますよ」


「助かるよ。1人じゃ心が折れるんでね」


 江戸川の水は正直、汚い。栄養豊富すぎて軽く洗っただけではカビが生えてしまうのだという。そのため徹底した洗浄が必要なのだった。


 3艇を撤収した後、本成寺車はコイン洗車場に向かう。静流たちはあとから自転車で追いかける。これからコイン洗車場を使ってカヌー・カヤック3艇広げ、食器用洗剤とデッキブラシ、スポンジで大洗浄大会である。しかしそれも6人でやればきっと楽しいはずだ。そのあとは学校の花壇の水やりもある。忙しい1日になりそうだった。


 静流はクロスバイクにまたがり、3人娘を引き連れ、コイン洗車場に安全運転で向かったのだった。

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