第117話 江戸川~東京湾でカヌー体験!
8月15日はとても暑くなる予報だった。もちろん前日に熱中症警戒アラートが出ていた。なので、カヌー体験は夜明け前から始められることになっていた。江戸川の行徳稼働堰よりも下流の河川敷に雫たちは自転車で向かっていた。静流、さくらと美月も一緒だ。まだ暗い中、LEDライトで照らしながら行徳橋を渡り、行徳側の河川敷に降りる。普段はバーベキューで賑わっている場所だが、この未明の時間帯には誰もいない。下流の水面上に明かりが見える。釣り船が出航の準備をしている明かりだ。
LEDヘッドライトの明かりが下流側から近づいてきて、誰かが歩いてくるのが分かった。ごろごろとアウトドア用のカートを押してくるのは桃華ちゃんのお父さんで、桃華ちゃん自身はパドルを持っていた。パドルというのは両端にオールがついている、カヌーを漕ぐときに使うあれだ。
「おはようございます」
静流が真っ先に声をかけると桃華のお父さんが応える。
「うん。おはよう。まだ荷物があるからみんな手伝ってくれるかな」
「おはようございます、お姉さん方」
桃華もちょこんと首を傾げ、薄暗い中、笑った。雫が応える。
「桃華ちゃんもおはよう。お父さんのお遊びにつきあうなんて今日も偉いね」
「父1人、子1人の家族ですから」
ニカーっと笑う桃華だった。
「桃華ちゃんは桃華ちゃんで自分を主張していいんだぞ」
心配げにさくらが言うが、桃華はさくっと応える。
「お姉さん方と遊べるチャンスですから今日はこれでいいのです」
「桃華ちゃん、今日もかわいいね。こんど一緒に遊ぼ?」
美月が側まで来てわしわし頭を乱暴に撫でる。美月がいうのはコスプレに違いないと何故か思った。つむぎたちが受験なので、コスプレできずに欲求不満がたまっている節がある。少し付き合おうかとまで思っていたくらいだ。
「何して遊ぶんですか」
「魔法少女ごっこ」
「もう卒業しましたよ」
美月はぎゃふんと言わされてしまった形になる。
「だ、大丈夫。大人になっても魔法少女ごっこはできるんだよ」
「知ってる。コスプレでしょ」
「どうして知ってるの?」
「なんとなく。お父さんもプリンセスのコスプレグッズコーナーでなんか立ち止まることあるし」
ああ、大手おもちゃチェーン店にあるあれのことかと雫も思い至る。
「あれよりずっとすごいからね!」
「まあ、まあ、コスプレの話は後にして、荷物を取りにいこうよ」
静流に促され、一行は駐車場まで荷物を取りに向かう。桃華ちゃんの家の車は7人乗りのミニバンだが、後部座席が全部畳まれていて、荷物がぎっしりだ。
「本成寺さん、一体、何艇積んできたんですか?」
「3艇だよ。うち、1艇は今、持っていった。カートにもう1艇乗せて持っていくから、静流くんと私でもう1艇、手に持っていこう」
「合点承知。雫ちゃん達は?」
「パドルとライフジャケットと空気入れだね。桃華はカートを押していってくれ」
「りょうかいなのだ」
早速、桃華のお父さんは1艇分と思われる巨大なバッグをカートに載せ、桃華を先に行かせる。1人では危ないので雫たちも荷物を持ってついていく。
「どうしてお父さん、3艇も持ってるの?」
雫は素朴な疑問を桃華にぶつけてみる。
「むかし、キャンプなかま全員でできるように買ったらしいです」
「凝り性なんだね」
さくらは難しい顔をする。
「肉料理に興味を持つと肉料理ばかり、ピザに興味を持つとピザばかり続きます」
「男の人っぽいねえ」
美月は苦笑しつつ、また桃華の頭をわしゃわしゃする。
すぐに静流と桃華のお父さんが巨大なバッグの持つ手を1つずつ手にして、並んで歩きながらやってきて追いついた。静流が聞く。
「桃華ちゃんは朝ご飯食べてきた?」
桃華は頷き、応える。
「バナナと牛乳」
「プラグマティズムな朝食」
静流が少し呆れたように返した。雫は聞き慣れぬ横文字に対し、解説を求める。
「プラズマ何たらってなんだ?」
「役に立つことならそれがいいって考え方のこと。余分な部分がないことも利があるし」
「静流の料理とは相容れないな」
「料理には彩りも必要だからね。大部分の人は楽しく食べた方が美味しく感じる」
「手痛いな、静流くん」
桃華のお父さんが苦笑する。
「おにぎり作ってきましたから、組み立てが終わったらどうですか」
「楽しみにするよ」
桃華のお父さんは娘と同じように二カーっと笑った。親子だ。
3艇分のカヌーが行徳橋の下に置かれ、組み立てが始まる。桃華ちゃんのお父さんが組み立てるのはフォールディングカヤックと呼ばれるもので、アルミのフレームを組み立てて、スキンと呼ばれる外皮の中に挿入し、固定して船の形にするものだ。さすがにこれは知識なしには手伝えないので、親子で組み立てを始める。
雫たちは残る2艇、インフレータブルカヤックと呼ばれる、ゴムボートの進化形のようなものを膨らませる作業に入る。車の電源を使って電源エアポンプで空気を入れるのも手なのだが、せっかくなので自分の手で膨らませて欲しいと桃華ちゃんのお父さんに言われ、ダブルポンプと呼ばれる押しても引いても空気が入る手で入れるタイプのポンプを手渡された。静流はふむ、と頷いてから言った。
「まずはがんばりますか」
大きなバッグの中からインフレータブルカヤックをそれぞれ出し、河川敷のブロックの上に広げる。空気を入れる場所は数カ所あり、1つ1つ入れていく。結構な運動量で半分くらい空気を入れ終えた辺りで、静流はバトンタッチを要求した。
「合点さ!」
雫は待ってましたとばかりにダブルポンプを上下させるが、これが重いし、力を入れないと空気が入ってくれない。すぐにさくらにバトンタッチする。
「雫、鍛え方が足りないな」
「何を言っているんだよ。ウチはそもそも鍛えてないよ」
「ふふ。見てろ」
さすがのさくらは残りの空気を入れ終えて、美月にバトンタッチした。
「えー 頭脳労働の私にも出番がくるんですか?」
「働かざる者、乗るべからず」
さくらに正論を言われ、美月も頑張ってみたものの、1カ所を入れ終えたところでダウンした。そして休憩を終えた静流が残りを入れた。
膨らんだカヤックは2種類。1つは船首がとがっていて、カヤックっぽい。2人乗りだ。もう1つの方は座るところが2カ所なのは同じだが、左右の舷に板が渡してあって、そこに座るようになっていた。船首も丸い。どうやらカヤックではなくカヌーらしい。どう違うのかは分からないが、カヤックはダブルパドルと呼ばれる両端にオールがあるもので、カヌーは少し高いところに座ってシングルパドルと呼ばれる片方にしかオールがないものを使って進むものだと、下調べの時に知った。
「静流くん、手伝ってくれるかい?」
フォールディングカヤックの組み立てが佳境に入ったようだ。桃華ちゃんのお父さんはカヤックの形になったアルミフレームを持ち、桃華が外皮を広げていた。
「どうすればいいですか?」
「桃華と交代して前を広げて。桃華は後部の方を差し込めるよう広げて」
「うん」
静流は言われるがままに外皮を広げ、桃華ちゃんのお父さんがフレームを差し込み、フレームの可動部分を動かしてテンションをかけ、外皮のジッパーを閉める。もうしっかりした形のカヤックだ。これも2人乗りだった。
ちょうど、東京方面から朝陽が上がってきていた。
静流が作ったおにぎりを食べ、全員ライフジャケットを着用して、パドルの使い方を教わり、組み合わせを決める。
「まあ当たり前なんだけどフォールディングカヤックは私が乗ります。なにせ底を擦るとフレームが当たっている部分だと穴が空く可能性があるんでね。インフレータブルの方は中が空気だし、丈夫だからその心配はあんまりない。普段だと桃華と乗っているんだけど、桃華には希望があるんだよね」
「お姉さんたちと順番に乗りたいです!」
「かわいい~~」
3人で声を合わせてしまう。
「そんなわけで1番安全なインフレータブルカヤックに桃華ともう1人に乗って欲しいんだ。まあ、2艇もあるから何が起きても大丈夫」
「お父さんのだいじょうぶはあてにならん」
桃華の言葉はあまり信じたくないところだ。じゃんけんをして雫が1番最初に桃華と一緒に乗ることになった。
「じゃあ、私は桃華ちゃんのお父さんと一緒に乗りましょう」
美月がぺこりと頭を下げ、よろしくね、と桃華ちゃんのお父さんは返した・
「じゃあ、さくらちゃんは僕と一緒だね」
静流が言うと、さくらはたどたどしく答えた。
「お、おう。よろしくですよ」
雫の目からは明らかに緊張しているように見えた。美月もそれを見越して静流と一緒にさせたのだろう。ふむ。あまり面白くはないが、桃華ちゃんの希望とあっては無碍にすることは出来ない。
まず、インフレータブルカヤックを浅瀬に浮かべ、桃華と雫が搭乗する。パドルを水底につけて支えにして、カヤックがひっくり返らないよう注意だ。2人乗ると喫水線が下がって、インフレータブルカヤックの船底が水底に着いてしまうが、桃華ちゃんのお父さんは強引に川の方に押し出す。
「おおう!」
「雫お姉さん、パドリング始めましょう」
前に座る桃華がパドルの真ん中を持って器用に左右に傾けて先端のオールで水を掴む。そのリズムに合わせて後ろに座る雫もパドルを回し始める。水を掴んだり空振りしたりで上手くいかないが、なんとか前の方に進んでいる。片方空振りするとその分、推進力が減ってしまうので逆の方に進路が傾いてしまう。気をつけてオールが空振りしないよう、深すぎて回せなくならないよう気をつけながらパドリングを続けると江戸川の真ん中までやってくる。
「うわー すごい」
「こんなふうけい、見たことないでしょう?」
桃華の得意げな声がしてパドリングが停まり、振り返る。
「水面すれすれから見る堤防ってすごいねえ」
川面がずっと伸び、河川敷と堤防が見え、その遙か向こうにビル群が見える。スカイツリーの先端も見える。
そのどれもが雫が経験したことのない予想外の動きで視界を流れていく。
パシャン、と何かが水面の上に跳ねた。ボラだろうか。
「解放感~~!」
「きもちいいでしょう?」
「うん。風の流れも気持ちがいい。パドルから伝わってくる水滴も気持ちいい」
「わたしもお姉さんとこげて楽しい」
「ウチも桃華ちゃんと一緒で楽しいよ」
後ろを振り返ると静流とさくらが乗ったインフレータブルカヌーがこぎ出しているのが見えた。そしてもうフォールディングカヤックが離岸していた。
これは楽しいツーリングになるだろう。家からすぐ近くなのに、いつも来ている江戸川なのに、大部分の人が知らない江戸川の光景だ。
「じゃあ、しばらくこの辺でパドリングの練習だ」
桃華ちゃんのお父さんが遠くから声をかけてきた。
どこに行くにもパドリングができなければカヤックは進まない。
「じゃあ、しばらく1人で漕いでいい?」
「どうぞ、おもいっきり練習してください」
桃華はパドルを進行方向に持ち、雫のパドリングの邪魔にならないようにした。
よし、頑張るぞ、と雫は再びパドルの先端で水をかいたのだった。
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