第112話 雫の涙

 時は澪と静流のデート当日の朝に遡る。


「じゃあ、いってくるから、きちんと勉強してね。明るいうちに帰ってくるから」


 母はいつも以上にオシャレして、若作りして玄関に立ち、見送る雫に嬉しそうに言った。自慢の母だが、今日だけはない。


「お母さん、ひどい~~」


「静流くんは共有財産なんだよ。シェアしないとね」


 自分は静流の彼女ではない。その自覚は雫にはある。大きくなるまで好きでいてくれたら恋人になってくれるといってくれた。誠実でいてくれるともいってくれた。しかし確かに下宿先の家主である母を無碍にすることができないことも分かる。それでもだ。やるせない気持ちは決して消せない。


「――早く帰ってきてね」


「はーい」


 上機嫌で母は扉を閉め、雫はその場にしゃがみこんだ。ダメだ。落ち込んで何もデキそうにない。こんなにも静流のことを自分のものだ、自分の一部だと思い込んでいたことに気がつき、雫はより深く落ち込む。


 ライバルは羽海だと考えていた。実際、館山でも波状攻撃を仕掛けてきた。しかし実際に効果的な攻撃を仕掛ける者は身内に潜んでいた。澪が静流をかわいがっていることはわかっていたが、デートだとはしゃぐほどだとは夢にも思っていなかった。今日からは母親もライバルだ。


 雫はしゃがみ込む体勢から四つん這いになり、右手で床をバンバン叩いた。自分が小学5年生であることを、静流と8歳の差があることをこんなにも重く感じる。もし自分が高校生だったのなら、静流と母をデートさせることなど許さなかっただろう。自分が静流の恋人なのだと胸を張って母に告げただろう。しかし現実は違うのだった。


「寝よう」


 勉強などできるはずがない。雫は自分の部屋のロフトベッドに登り、ごろんと寝転がる。もちろん眠れるはずがない。イライラする。同じことを何度も考える。


「やはり強引にでもチューしておくべきだったか!」


 そうすればマーキングではないが、少しは落ち着いていられたことだろう。


 雫はこの後、静流がファーストキスを奪われることを知らないのに何故かその考えに至っていた。やはり澪と雫は母子なのである。


 ゴロゴロしていても何も変わらないので、少しでも気を紛らわそうと国立西洋美術館のことをタブレットで調べ始める。するとオンライン鑑賞できることがわかって、しばらく見続けてしまった。ローマ帝国の遺跡の中に村がある絵など、静流が好きそうだなと思う。『睡蓮』はもちろん見たことがあったが、どういうものかを初めて知った。ピカソの絵は強烈だが、なぜそうなったのか分からず、調べた。もとは非常に精緻な絵を描く人だったのだが、抽象画に転向したのは本質が同じだからではないかと雫は思う。結局マーケットのニーズを掘り起こせるかどうかだし、同時に、感じさせるものが共通しているのなら、抽象画の方にメリットがある場合もあるのだろう。

 父母が芸大出だということはもちろん雫は知っている。こういうのに興味を持つのも血なのかなと思わないでもない。広い範囲で興味を持てること自体、そういうことなのかもしれない。


 そしてまたふと我に返り、イライラする。瞼を閉じても眠れるはずもない。


 時計を見るともう11時半を過ぎていた。


 静流が作ってくれてあったお昼ご飯を1人で食べ、またロフトベッドに戻る。今頃、澪と静流は何を食べているのだろうか。きっと美味しいものを食べているに違いない。悔しい。置いて行かれたことではなく、大人の財力を静流相手に母が使うのが雫は悔しい。どうすればこの気持ちが落ち着くのか分からない。


 枕をぎゅっと抱きしめつつ、幾度も考える。このいらだちを解消するにはもう静流を独占するしかない。デートだ。デートに連れて行ってもらうしかない。そして思いっきり甘えるのだ。早く帰ってこい、静流。時よ、早く過ぎろ。


 そう考えていると何故か眠りにつき、玄関が開く音で目を覚ました。


 ベッドから慎重に降り、部屋を出て玄関の方を見ると買い物帰りの澪の姿があった。両手に持っているのは食材の類いだ。


「ただいま。帰ってきたよ」


 澪は実に晴れ晴れとした顔をしている。


「しずる、静流は!!!」


「さすがにこの暑さじゃ電車の方が早いでしょうよ。よく自転車で上野まで行くよね」


 澪はキッチンに行き、買ったものの整理を始める。


「デート、デートはどうだったんだ?」


「上野公園を歩いて、西郷さん見て、西洋美術館見て、中のカフェでランチして帰ってきただけよ」


 澪はきょとんとした顔で答える。自分の表情がよほど鬼気迫っていたに違いない。


「じゃあ、静流はもう帰ってくるんだな?」


「どこか寄り道しているかもよ」


「しない。静流は、寄り道なんかしない!」


 全く無根拠だが雫はそう言い、リビングの掃き出し窓の前に立って静流が自転車に乗って前庭に現れないか待つことにする。


「静流くんが本当に好きなのね」


「今日は静流と一緒に寝るからな!」


 雫は振り返り、澪に断言した。


「静流くんが雫に手を出さなければたまにはいいと思うわよ。でも静流くんにはとってもとっても苦難の一夜ね」


「静流にならちょっとくらい触られたっていい!」


「男の子はね、自分に歯止めが効かなくなることもあるんだよ。あ、それは女の子も同じかな。タイミングは違うけど。お母さん、心配」


 澪が心配する理由も分かる。静流の恋人になるには自分は幼すぎる。先が見えない。先が見えないのに進むのは、愚かだ。


 雫は答えず、再び掃き出し窓の外に目を向け、静流が現れるのが今かと待ち構えた。しかしやはり暑いからか、なかなか静流の姿は現れなかった。30分ほど経ってからだろうか。ようやく静流のクロスバイクが前庭の扉の前に現れ、雫は掃き出し窓を開けて裸足で飛び出した。


「静流!」


 そして静流に抱きつき、静流はクロスバイクを倒してしまった。


「――雫ちゃん」


「静流、遅い! 遅いぞ!」


 雫は涙ながらに静流を見上げた。静流の顔は真夏の陽光に照らされて、日焼け止めを塗っていても真っ赤に日焼けしていた。


「ごめん。そんな風に思い詰めてるなんて思わなかった」


「他の誰かとデートなんて、それがお母さんでもヤダ! 絶対にヤダった~~!」


 本音を漏らすと雫は自分の瞳から大粒の涙が流れ続けるのが分かった。


「でも、ウチに止める権利なんかないから――ないから!」


「ごめん」


 掃き出し窓から澪が顔を出し、フゥとため息をついた。


「ごめん。そんなにイヤだったなんて思いもしなかった」


「お母さんは悪くない。悪くないよ。ウチがイヤだっただけだから~~」


 静流は雫の頭を何度も何度もポンポンと叩いた。


「分かった。誰も悪くない。だから、お家に入ろう」


 そして静流に腰を抱かれ、雫は家の中に入った。澪が持ってきた雑巾で足の裏を拭き、タオルでぐしゃぐしゃになった顔を拭いた。


「静流~~ごめん。本当にごめん。堪えきれなかった」


 タオルでまだ流れる涙を拭きながら雫は謝る。静流は雫の側にいて、肩に手を乗せてくれていた。


「うん。うん」


 静流はただそれだけを返した。少し落ち着いた気がした。


「意地悪してごめんね」


 澪が静流の顔をのぞき込み、雫はタオルで鼻をかみ、目が合った。


「ううん。静流が共有財産なのも、わかるから」


 静流は小さく嘆息したようだった。


「こんなんじゃやっぱり彼女なんて作れないな」


 雫は何度も小さく頷いた。


「そうして」


 静流と澪は顔を見合わせて笑った。澪は言った。


「しばらくもう、静流くんとのデートはお預けだね」


「そうして」


 雫は同じように繰り返した。


 その夜はいつものように静流が夕食を作り、3人で仲良く食べた。お風呂に入り、歯を磨き、少し音楽を聞いて、眠る時間になった。そして雫は静流の部屋にマットを持っていく。澪の許可が出ていたことを知らない静流はぎょっとした顔をして言った。


「ど、どういうこと?」


「今日の分を取り返すために静流と一緒に寝る」


「い、いや、それは……」


「お母さんの許可は出ている」


「出ているったって……」


 実はパジャマの時は最近はジュニアブラをしないことにしていた。その方が楽で、暑さをしのげるからだ。静流はそのことを歯磨きの時などで知っているからだろう、目線は胸元に行った。


「つむぎちゃんに言われた。最近、大きくなったって」


 静流は目を固く瞑って、何度も頷いた。


「腕組みしてたときとかで、分かってた?」


 また静流は頷いた。


「見たい?」


 雫はパジャマのボタンを外そうと胸元のボタンに手を掛ける。静流は大きく首を横に振り、目を閉じる。


「見たいけど見ない。見たらもう、止まれなくなるから。今の雫ちゃんの身体は、今しかないんだからそりゃ見たいさ。でも、ダメだ」


「頑固だな。冗談だから安心してよ」


「そうして。絶対」


「でもラッキースケベが起きないとは限らない」


 静流は目を細く開け、なんとも言えない無の表情を浮かべた。


「そのときは許してね」


 雫は静流の頭をお返しとばかりにポンポンと叩いた。


 2人は同じ布団で寝るわけではない。隣で寝るだけだ。雫はタオルケットを被り、静流はLEDの照度を落とし、お互いに、おやすみ、と声を掛け合った。そして雫は目を閉じたのだが、すぐに静流の声が聞こえてきた。それはとても穏やかな声だった。


「雫ちゃんのあまりの動揺ぶりに、今日のことはもう遠い過去みたいだよ。忘れてしまうかもしれない」


 雫は目を開け、隣の静流を見る。暗いので顔は見えない。そもそも静流の顔は天井を向いていた。


「そっか……それは悪いことをしたかもな」


 素直に雫はそう思う。楽しかったであろう思い出まで打ち消すような醜態だったということだからだ。しかし静流の返答は意外なほどに、やはり穏やかなものだった。


「でも、いい。幸せは、今、感じているから」


「――ありがと」


 静流が幸せと言ってくれることが雫は何よりも嬉しい。嬉しすぎて雫も、静流が母親とデートしたことなどどこかに吹き飛んでしまった気がするほどだ。雫自身も幸せを確かに感じた。だから、今度は遠い未来のことを思いながら、雫は言う。


「静流――待っててね」


「うん。待ってる」


 そして2人は、ほとんど同時に眠りについたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る