第111話 奪われる
西洋美術館の中は冷房がよく効いている。美術品を守らなければならないからかもしれない。湿度は大敵だからだ。澪と静流の汗も引いた。展示スペースに入ったので、声を潜める。常設展を見る人はお盆中だからだろう、少ない。もちろん人はいるのだが、ひっそりとしている印象だ。世界文化遺産となった国立西洋美術館は建物そのものも見所なのだが、残念ながらそれを楽しめる知識が静流にはなかった。
最初はルネサンス期の宗教絵画が多かった。静流が心引かれたのはイコンだ。文字が読める人の方が少なかった中世ヨーロッパではキリスト教を広めるために絵画が用いられた。聖書の一部などを絵にして、修道士などが民衆に説教したのだろう。日本の地獄絵図みたいなものだろうかと思う。しかし、本物には雰囲気がある。実際に大勢の信者が眺め、ストーリーを想像し、神の恩恵に預かろうとしたのだろう。それが何百年も後にこうしてアジアの片隅で見られているというのは、一言で言って面白い。
「楽しんでいるようだね」
澪が囁く。静流は頷く。
「新しい発見です。僕は芸術を広い意味で人の生きてきた歴史の一部だと捉えます」
「それはある意味、正しいと思うよ。これで食ってきた人もいるわけでシンプルな面もあるけどね」
「食っていく人が繋がっていくのもまた歴史です」
「違いない」
澪は頷く。澪は自分が美術に興味がないだろうと思って、ここに連れてきたのだろうと静流は見当を付ける。実際、今まで自分で足を運ぶことはなかった。しかし来てみればこんなにも面白い。
次のコーナーは17世紀から18世紀へ。王侯貴族の社会へと移り変わり、文明も発達していくのが絵画からも読み取れる。当時の絵画は歴史の物証でもあるのだ。
そして19世紀、20世紀の印象派などが展示されている。有名なモネやゴッホの絵もある。
「印象派はいいですねえ」
「どうして?」
「うーん。分かりませんね。独特なタッチの中に想像の余地が多いからかも」
「なるほど」
詳しく解説してくれるかと思ったが、澪の応えははそれだけだった。
そしてピカソの絵も見て、気がつく。
「なるほど。こっちが考えればいいんだ」
「そういう考え方もある。どうでなくてもいい。自由だ」
澪は満足したようだった。
相当長い間、常設展を見ていたのでとっくにお昼の時間を回っていた。どこか探すのも暑いし、面倒なので、美術館の中のレストランに入ってしまった。西洋美術館の中庭を眺めつつ食事が出来るカフェはそれだけで価値があると思われた。落ち着いた西洋美術館の建物を緑と一緒にゆっくり眺められるのだから。
2人はメニューを眺め、1番お得だと思われるプレートランチを頼んだ。季節のスープ /に生ハムとモッツァレラチーズのオープンサンド、そしてフィジリのミートソースパスタが四角い白いプレートに載っている。説明によるとこのプレートは西洋美術館本館をイメージしたとのこと。これにドリンクがついて1900円は都心では良心的だ。
「とはいえランチですから奮発している気がしますね~」
「そうだね。でもこういうときにお金を使わないとね」
「盛り付けもきれいだし、凄く勉強になりますよ」
「ふふふ。連れてきてよかった」
澪の笑顔には粉を掛けてくるときの怪しさがない。純粋に楽しいのだろう。
「連れてこられてよかった」
「帰ったら雫をかまってやってくれたまえよ」
「もちろんですよ」
「今頃、ものすごくイライラしているはずだから。あれはそういう子だよ。覚悟しなさいよ」
そして澪は静流の瞳をのぞき込んだ。
「はい。分かってはいるつもりですが」
「しかし君はどういうイメージで今日のデートに来たのかな? やっぱり年上の
澪は小さく首を傾げたあと、ドリンクに口を付けた。
「まあ、澪さん、外見は綺麗なお姉さんですからね。緊張はしますけどそんな年上の
「でも楽しんで貰えたようで何よりだ」
「それは間違いありません」
「君も18歳だからわかると思うけど、歳をとっても自分は自分のままだよね」
澪が言わんとすることは分かる。
「歳をとるだけでは大人にはなりませんからね」
澪は頷く。
「私の場合、出産、子育てってプロセスがあったけど、結局、少し手が離れてしまうと自分は自分だなと思うわけ。あの娘と話をしたからっていうのもあるけど」
あの娘というのは間違いなく羽海のことだろう。
「ほんと、心の中では20代なんだけどねえ」
「大丈夫、澪さん、外見も20代ですから」
「ありがとう。じゃあ、このあと、鶯谷いく?」
澪が鶯谷というからには山手線の駅前なのにラブホテル街があるエリアのことを指しているに違いなかった。かなり直接的なお誘いだ。家ではないのだ。雫にバレることはないだろう。シャンプーの匂いがついたところで帰りは自転車だ。大汗で分からないに違いない。しかし、そういう問題ではない。
「何度も言いますけど、心に隠し事を抱えて雫ちゃんの前に立てませんよ」
「いいや。直接、そう言われるのは初めてだな。しかし残念だ。男日照りが続く私の前に妙齢の男性がいるというのに、この美女になびかないとは」
澪はこれみよがしに大きなため息をつく。
「すみません」
人生の大きな岐路だなと思う。ここでやはり受けておけばよかったと何度も思い返すに違いなかった。だが、悔やんだとしても今はこの返事しかない。雫が大切だ。大切な存在だと静流は改めて気づかされた。
「謝ることはないさ。でも、何度でも言うから。いつでもいいんだよ、私は」
澪ほどの美女に笑顔で言われると理性が失せていくのが分かる。形のいい唇を、大きな胸を、白い細い腕を、スカートから覗く形のいい脚を、自分が頷くだけで愛撫できるかもしれないと思うと、重苦しいほどだ。しかし静流はなけなしの理性を動員して、誘惑を断ち切る。俯き、言う。
「――ガマンします」
「無理は言わないよ、まあ、まだ始まったばかりだから」
静流が見上げると澪はまたあの怪しい笑みを浮かべていた。
西洋美術館を出て、上野駅まで送る。まだ3時過ぎだ。暑い中、乗降客が大勢通り過ぎていく改札口で澪と別れる。
「同じ家に帰るのに、デートみたいだね」
「本当ですね」
そして澪は静流に小さく手を振ってSuicaを手にし、自動改札に向かう。
ああ、デートも終わりだな、と思って澪を見送ったが、彼女は自動改札の直前で振り返り、静流の前までつかつかと戻ってきた。
「忘れ物したわ」
「え、美術館にですか?」
「ううん。ここに、だよ」
澪は指を静流の唇に軽く当てた。
そして静流が固まってしまった僅かな間に軽く口づけをした。
女の人の甘い匂い。
唇から伝わる体温。
なめらかな唇の感触。
唇を重ねるときに触れた胸と胸。
しびれる、甘い電気のような何かが静流の脳天まで刹那の間で届く。
それらの全てが生存本能を刺激する。それも強烈に、稲妻のように。
「静流くんのファーストキス、いただき!」
そして少し頬を赤く染めてウィンクすると、澪は振り返り、小走りで自動改札の中に消えていった。
「――やられた」
静流は本当に身体はフリーズしつつ、頭では唇の感触を忘れまいと脳内の記憶野に焼き付ける。誰とも付き合ったことがないと澪に言ってあったので自分のファーストキスだと彼女は判断したのだろう。実際、そうなのだが。
彼女の唇が重ねられたのはほんの一瞬だった。
しかしあまりにも鮮烈なその感触に、静流の心はぐわんぐわんと音を立てて大きく揺れ動いた。心臓が早鐘のように打つとはこのことかと合点する。これも生まれて初めての経験だ。
大学を卒業するまであと3年と8ヶ月。それは途方もなく長い時間だ。しかしそれでも雫が大人になるにはまだまだ足りない。その間、澪の攻撃をかわし続けられるのか、甚だ疑問に感じる静流だった。
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