第110話 澪とデートです

 暑い中、なるべく汗をかかないよう、静流はクロスバイクを都心へ走らせていた。お盆に入っていたから、交通量は嘘のように少なく、走りやすい。大学までいくいつもの道なのに、閑散としているのが違和感だ。東京の人口密度はロンドンやパリより遙かに高い。これでもおそらくその2都市くらいの人口密度に違いない。


 久しぶりの仕分けのバイトで少々疲れていたが、それでも澪とのデートが楽しみなので脚が軽い。デートらしく外で待ち合わせをすることにしたのは、電車で一緒に行くとガマンができなくなって嬉しくも危険な目に遭うと想定したからだが、それはそれで効果はあったようだ。どんなスタイルで澪が現れるのかワクワクできるというのはデートそのものだ。


 うん。考えてみると雫とのデート以外で、静流の人生における初めてのデートだ。上野公園に着き、事前に調べた無料駐車場に停め、待ち合わせ場所に急ぐ。時間はまだあるが、もう来ているかもしれない。待たせたくはない。


 待ち合わせ場所はJR上野駅中央改札口。辺りを見回すが、幸いまだ澪は来ていなかった。3分ほど待って、自動改札から澪が出てきて、彼女は小さく手を振った。


「一言で言って素敵です」


 静流は開口一番、澪のスタイルを褒めた。


 空色のシャツにチェックのロングスカート。ヒールのあるブラウンの靴。肩の上に白い透けた上着を巻いている。荷物は小さなハンドバッグだけ。


「ありがとう。ファーストコンタクトとしては合格だよ」


 いつもはポニーテールにすることが多い長い髪を今日は下ろしているのもいい。


「それはありがたいのですが、僕の方はいつも通りで申し訳ないです」


「いいんだよ。別に、清潔感があれば」


 デニムに無地のシャツ。そしてウィンドブレーカーという飾り気がないいつものスタイルだ。


「どうしてここを待ち合わせ場所にしたんですか? 公園口の方が近いのに」


「それかい。それはね」


 そして澪は自動改札の上を指さした。静流は気がついていなかったが、改札の上に壁画がある。人や動物が思い思いのポーズをとっている愉快でカラフルな壁画だった。


「こんなのがあるなんてさすが上野」


「それにね、上野公園の中を歩いていった方が楽しいじゃないか」


「エスコートにお任せしますが」


 そして雫は腕をあけ、澪を促した。


「よくできました」


 澪は静流の腕に自分の腕をからめ、腕を組んだ。しかし澪はなかなか歩き出さず、そのまま自動改札の上の壁画を見続ける。


「時間が経って見直すと違う見方をするものだ」


「そうなんですね。分かる気はしますが。犬、みんな尻尾が上がってる。ご機嫌だ」


「いい視点だね。楽しそうないい絵だと思うよね」


 そして澪は歩き出す。歩くと肘が頻繁に胸が当たる。羽海ほどではないがしっかりサイズがある。実際見てしまったのだからそれは間違いないし、今までも何度か当たってもいるので柔らかさは分かっている。だが、継続して押しつけられるとさすがに効く。当然反応するが、何げない顔を装う。


「――静流くん、あの娘と比べているだろ?」


「どうしてそんなことが分かるんですか」


「わからいでか。さすがに雫とは比べられなかっただけよしとしようか」


「それは比べる対象にすることすら問題だ」


「うむ。偉いぞ、静流くん」


 どうやら正しい回答だったようだ。万が一、雫に手を出そうものなら、その夜にでも静流は澪に童貞を奪われることは間違いない。それはそれで溺れていくのだろうが、雫との未来は暗いものになっていくだろう。少しでも雫が自分好きで居続けてくれる可能性がある上、それは避けたい。


 大きな交差点を渡り、上野公園に入って階段を上り、有名な西郷隆盛像を見上げる。上野と言えばこれだ。


「静流くんは西郷さんは見に来た?」


「春のうちに来ましたよ。さすがに有名どころですから」


「じゃああんまり似ていないって話も知ってるよね」


「生前の姿を知っている東郷平八郎元帥が『太りすぎ』と言っていた話ですね」


「さすがよく知ってる」


「別人がモデル説とかあるんですよね」


「鹿児島の方の像は孫によく似ているっていう話もあるし、確かにそっちはスマートみたいだよ」


「よくご存じですね」


「上野で大学生活を送るとそう言う話も普通に飲み会のネタになったりする」


「じゃあ芸大ですか」


「うん。颯介さんはOBでね。私の入っていたサークルに出入りしていたんだよ。マスコミ研究会なんだけどね」


「それで今に繋がっているんですね」


「しがない地域ミニコミ誌でも、クリエイティブな仕事がやっぱりいい」


 そういう澪の顔は輝いている。若い頃を思い出しているからなのか、それとも今の仕事にやりがいを感じているからなのか。両方だといいなと静流は思う。


 そしてまた歩き出し、清水観音堂の脇を通り抜ける。


「おや、寄らないのかい?」


「春に来ましたってば」


「雫から聞く話と違う」


「雫ちゃんは相当、神社仏閣巡りに嫌気が差してますね」


「かもしれない」


 澪は笑う。本当に可笑しそうだ。


「あの子がその程度の主張しかしないってことは相当に静流くんが好きだってことなんだよ。よく分かっておいてね」


 静流は小さく頷いた。そして左手に大きな古墳らしき膨らみを見つける。


「これが上野の山の古墳かあ」


「よく知ってるね」


「それはもちろん。他にもいっぱい古墳があったんだそうですけどもう残っていないらしいですね」


 春に来たときはそもそも知らなかった。東京なんて当時は湿地帯だけだと思い込んでいたからだ。しかし実際には高台もある。東京タワーのそばにも古墳群がある。上野の山なら当時ももう乾いた陸地だっただろう。


「土をとられてなくなったんだろうねえ」


「そりゃ江戸ですからねえ。当時、世界一の大都市だったんですから」


「有名な話だね。ロンドンやパリより人口が多かったっていう」


「中央集権に成功していたはずのフランスのパリより人口が多かったっていうのは、東京湾に面して、経済的にも中心だったからなんでしょうね」


「なるほど。いい考察だね」


 澪は感心したように言ってくれた。


 そして少し歩いて国立西洋美術館に到着する。前にはロダンのブロンズ像がある。中でも目立つのが『地獄門』だ。


「ダンテの神曲」


 澪がぽつりという。


「悪いことをすると地獄に落ちるという点においては日本もそう変わりませんが、こんあ地獄の門はないでしょうね」


「もう戻れないって気がするね」


「封印すごそう」


「ゲーム脳かい。君は」


 澪は苦笑いする。


「しかしそれも芸術のうちだ。その作品を見て自分の中にある何が触発されるか、何が化学変化を起こすのか、それが芸術だと思うよ」


 なるほど。そういうものか。芸大出身の澪が言うのだから説得力がある。


「正直言えば、古代遺跡で発掘されればどんな呪術的な意味があったのか問われるところですよね。実際、中南米の遺跡はこんな雰囲気があります。デザインとか文脈とか違いますけど、なんというのか……」


「本質だね」


「そうですね。アステカなんか、生け贄の風習が有名です。神曲の主人公は森に迷って地獄に案内されるわけですが、森に分け入る時点で命を賭していると考えられる――つまり、闇の世界へ分け入ったと考えれば、死する別世界へ自ら赴いたと言える。アステカの生け贄は神に捧げられることを名誉なこととされていました。死の前は薬物でもうろうとしていたようですから、死と神の世界の狭間に、捧げられる前に既にいたわけですよ。なにか相通じるものがありますよね」


「難しいことを言うね」


「好きなんですよ、こういうの」


「うん。広く勉強したほうが美術も楽しめるわけだ」


「さあ、これが化学反応なのでは?」


「確かに」


 そして暑い外から涼しい美術館の中に入る。冷風で汗が乾いていくのが分かるくらいだ。


「いやあ、涼しい」


「それなら腕を組まなければいいのに」


「減点だよ、静流くん。男性は女性をエスコートしなければならないのに」


 澪はやや目を細め、静流を見る。


「失礼しました」


「それにきれいなお姉さんと腕を組んでいる方が嬉しいだろ」


「確かに綺麗なお姉さんです。間違いない」


「おばさんといわなくてよし。加点」


 静流は思わず笑ってしまう。澪もつられたのか、笑った。

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