第109話 澪、静流に埋め合わせを要求する
「お帰り、雫、静流くん。館山は楽しかったかい」
帰宅した澪は2人の顔を見て笑顔になった。
「うん、楽しかったよ」
雫は母親の荷物を持ってあげ、一緒にリビングへ。静流はキッチンで夕食の準備を再開する。雫は館山での出来事をつぶさに澪に話をし、澪はいろいろな反応を返していた。特に羽海が海水浴場で体調を崩した話に呆れていた。
「大人なんだからしっかりしないといけないのにあの娘は」
もう友人といってもいい間柄の羽海と澪である。一回り違っていて、1人暮らしの羽海を心配しているような風もある。
「あの娘の年頃にはもうお母さん、雫がお腹の中にいたんだけどねえ」
「世間的には早いですよね」
カウンター越しに静流がいうと、恥ずかしそうに澪が応えた。
「颯介さんには大学時代から猛アタックして、大学卒業と同時に入籍したからね。もうお父さん、とってもいい人だったんだから」
「耳たこ」
雫は目を細めて呆れた顔で澪を見る。静流が来てからあまりそういう話をしている様子はなかったが2人で暮らしている頃はそれこそ耳にたこができるくらい雫に話をしていたのだろう。静流の叔父の颯介の記憶はあいまいだ。雫が2歳の時に病気で亡くなったと聞いている。静流が9歳のときのことだ。もちろん会った覚えも話した覚えもあるが、どんな人柄だったかまでは覚えていない。若い叔父だという認識しかなかった。
「颯介さんとは大学で会ったんだけど、もう一目見たときに、ああ、この人が運命の人だって思ったの。もう直感。そしてそれは正しかった」
「除く残りの寿命」
実の娘でなければとても口にできないような台詞を雫は口にする。
「でも、早くにこのマンションのローン組んで、きちんとした仕事にもついていたから遺族年金もあるし、ローンもなくなったし、お父さんに感謝しなさいよ!」
「分かってるって~~」
「もうね~~今の雫が静流くんのことが好きだなんてレベルは遙かに超えているんだから!」
「だから、耳たこ~~」
なるほど。祖母が言っていた。叔父の颯介と自分はよく印象が似ていると。だから澪は叔父と自分を重ねて、機会があれば接近してくるのだ。もちろんそうだろうとは思っていたが、度が過ぎるとも思っていた。おそらく澪自身には亡夫の代替として自分を求めている自覚はないのだろうと静流は思う。
「静流くん、明日のご予定は?」
カウンター越しに澪が静流に目を向ける。
「朝のバイト以外は何もないですよ」
「じゃあ、私とデートしよう。もう明日からは私もお盆休みだからさ」
澪の衝撃的な発言に真っ先に反応したのは雫だった。
「お母さんが静流とデートとか意味わかんない! なんでデートするの?!」
「いやだって、帰ってきたらサービスしてもらうって言ってあったし」
「サービスの度を超えてる!」
「なに言ってるの。あんたは何日間、静流くんを独占してたの? 考えてみなさい」
「独占はしてなかった~~さくらちゃんもみーちゃんもいた~~」
「2人を連れて行ったのはあんたです」
「ひどい~~!! 静流~~なんか言ってやってくれ~~」
「澪さんの論理に破綻はない」
「じゃあお母さんとデートするのか」
「デートって言ってもね、どうしましょうか」
「西洋美術館を久しぶりに見たいな。そして上野公園をぶらついて、おしゃれなご飯を食べて帰ってこよう」
「いいプランですね」
「ウチは、ウチは連れて行って貰えないの?」
「だってデートですもの、雫はお留守番よ」
「静流~~助けて~~」
「雫ちゃんには悪いけど、確かに澪さんを何日も1人切りにしてしまったからね。穴埋めはしないと」
静流は本当にそう思う。澪が自分のことを常に気に掛けてくれているのならば1日だけであっても全力で応えるべきだと思う。もちろん童貞を守りつつ。
「毎年、館山に置き去りにしていたくせに~~今年に限ってそんなことを言うのか~~」
「毎年静流くんを独占してたでしょ」
「――」
雫はぐうの音も出ない様子だった。
「まずは静流くんが作ってくれた美味しいご飯をいただきます~~」
「仰せの通りに」
本日の夕食はサーモンときのこのホイル焼きだ。手軽で美味しい。あとはレタスとプチトマト、そして塩レモンのサラダを用意した。
「美味しいです、静流くん。最高!!」
「お母さん、料理下手だもんね」
「あんたもね」
「手本がお母さんだからね」
「雫ちゃんはかなり上達してますよ。今日のお昼に作ってくれたツナ缶とバジルでつくったどんぶりとかもう僕のアレンジそのものだったんですよ」
「ほほう」
「写真撮ってあるからお母さんにも見せてあげるね」
雫がスマホを澪にかざす。
「彩りいいじゃん」
「味は予想通りですけどね。新鮮なバジルがよかったと思います」
「静流のお墨付きが出た!」
「ちょっと悔しいから今度、美味しいものを食べさせてみよう」
「お母さんが作る美味しいもの…………?」
雫は本気で考えて分からないようだった。静流は思わず笑ってしまう。
「そんなことはない。トーストに、マヨネーズにわさびふりかけに、ベーコンとレタス。あれは美味しかっただろ?」
「ああ、あれは確かに美味い」
「想像するだけで美味しそうですね」
「子どもの頃に作っていたんだけど、未だに作るよ」
澪が懐かしそうな顔をする。
「それにしてもホイル焼き、美味しいねえ」
「塩レモンで味付けして、サラダも同じ味付けですから変化はないですけど統一感は出たかなと」
「スパイスを変えてあるから変化はあるよ。つむぎちゃん家じゃなくて、こっちに来て貰って本当によかったよ」
「澪さんにそう言ってもらえると僕も気が楽です」
「あ、そういえばつむぎちゃんはどうするんだろう。コミケ行くのかな」
「まさか。受験生だよ。館山にも行かないって言っていたし」
「バーベキューの道具、こっちに持ってくるの、叔父さんに頼んであるよね」
「忘れていないといいんだけどなあ」
実家の父にも言ってあるし、もう積むだけにして置いてあるから忘れられなければ大丈夫なはずだ。
「バーベキューか。後片付けは大変だけど静流くんがいるなら……」
「お母さん、静流に頼りすぎ」
「いいじゃん。頼れる人がいるのは幸せなことだよ」
澪がそう言うのは重みがある。なんと言ってもシングルマザーでこれまでやってきたのだ。並大抵の苦労ではなかっただろう。
「この先もこっちでイベントがあるのなら、いいことです。私も参加できるものはしたいなあ。ねえ、静流くん、いいよね」
「もちろんです」
「静流……」
雫が泣きそうな顔をするが、それはどう見ても本気には見えなかった。
「じゃあ、食べ終わったら、雫が洗い物をして、静流くんは私のマッサージをしてくれるかな」
「ええ! もうお母さんが独占し始めるの?」
「当たり前でしょ。帰ってきたんだから」
「仰せのままに」
雫がいる分には、酷い事故にはならないだろう。食事を終えて、澪はタンクトップにショートパンツに着替えてくる。しかもノーブラなのも分かる。マッサージを受けるからという理由にしては過激すぎる。相手は十代の少年なのだ。確信犯が過ぎる。しかし騒ぎ立てれば雫がまた何を言うかわからない。ここはこらえて澪のオーダーを聞く。
まず脚の先端から、そして足首、ふくらはぎ。次に頭、首、手首、一の腕、二の腕、そして肩。最後にうつ伏せになって背中だ。ゆっくりやさしくマッサージするが、最後は握力がなくなる。
「うーん、楽になる」
最初は痛い痛いと連呼していたが、次第に楽になったのか、澪はご満悦になった。
雫はそんな母親を監視するようにその場に正座してじっと見ていた。
「雫にもよくマッサージして貰ったね」
「ウチがやる!」
「静流くんを独占したいので、今日はいいのよ~~」
意図を分かった上で、澪は茶目っ気のある笑顔を娘に向ける。そしてマッサージを終えて、風呂に入り、上がってくると今度は静流にドライヤーを使って自分の髪を乾かすよう、お願いしてきた。
静流は不慣れではあったが、ドライヤーの音で聞き取りづらいながらも、指示を聞き、彼女の髪を乾かす。
「こんな甘え方があったとは……」
「雫はショートカットで髪の量がないから」
「もうだいぶ伸びたから今度、お願いするもん。やってくれるよね、静流!」
「雫ちゃんのご要望であれば」
雫は笑顔になり、澪もまた心配そうではありながらも笑顔になった。
澪は髪を乾かして貰いつつ、西洋美術館の常設展チケットを購入した。上野は自転車で行くことはあるが、西洋美術館には行ったことがない。
「じゃあ、明日は静流くんを予約ね」
髪を乾かし終え、澪は爽やかな笑顔でドライヤーを手に持つ静流を振り返った。本当に楽しみにしているのだろうと静流には思われた。
「ええ。お待ちしておりますよ」
「わーん。帰ってきたら埋め合わせして貰うから」
「はいはい」
泣き真似をする雫を余所に、澪は静流に小さくウィンクした。
どんなデートになるのやら。
今から心配な静流であった。
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