第103話 静流は渡さない!
羽海にハグされるとは夢にも思っていなかった静流である。眠気は遙か彼方に吹き飛んだ。甘い匂いと温かく、大きな胸の柔らかさが生の感覚として静流の中に残った。険しい表情で雫に見上げられ、さくらに羽海が突き飛ばされて静流はようやく我に返る。
「ぐぬぬぬぬぬ。静流、我に返れ!」
「う、うん」
「ホント、ごめんねえ」
羽海は悪びれもせず頭を掻いた。
美月が荷物を引き摺っていることに気づき、静流は美月とさくらの荷物を持ち、それから雫に声をかける。
「はい。雫ちゃんの荷物も」
「う、うん」
雫は頷き、静流は彼女から両手の荷物を受け取る。ようやくそれで雫は平常心を取り戻したように見えた。静流は3人の荷物を持って、ロータリーへの階段を降りる。4人が先行して歩く。
「じいちゃんが待っていてくれてるから」
「ホント? よかった。バスだったら大変だなと思ってた」
雫は平静を装っているようにも見えた。
「しかし暑いな、館山」
「でもなんとなくいい感じの暑さです」
さくらと美月が会話している中に、静流も入る。
「エアコンが少ないからじゃないかな。あと、都会と違って風が通る」
「それはそうだね。建物少ないもんね」
そして南口を降り、ロータリーの内側に停めている祖父の車に合図をすると、祖父が降りてくる。
「やあ、雫ちゃん。よく来てくれたな」
「じいちゃん、久しぶり。正月ぶりだ」
「初めまして、名古屋です」
「大坂です。お世話になります」
「雫さんたちの担任の本郷です。こちらの出身なので一緒に帰郷しました」
「すごい美人さんがいると思ったら雫ちゃんの担任の先生なんだ」
いやーといいつつ、祖父が羽海を上から下までじっくり眺めるので静流は恥ずかしくなる。気持ちは分かるが失礼だ。
「あ、いや、その、私、ここで失礼します!」
祖父が乗ってきたのは軽自動車なので乗れるのは4人だ。羽海が相乗りする余地はない。しかしそう羽海が言ったのはそれだけの理由ではないだろう。静流は申し訳ない気がした。
「じゃあ、しずるちゃん、また後でね!」
「え?」
そう言って羽海はちょうど待っていた路線バスに駆け込んだ。
「どういうことだ?」
「羽海ちゃん、やっぱり海水浴に一緒に行きたいってさ」
雫はまた不満げな顔になって静流に答えた。
「そうか。タイミングが合えば断る理由はないな」
羽海の水着をもう一度見たくないと言ったら嘘になる。それがフィットネス水着ではないと想定されるだけに、楽しみと言ってもいい。やはり羽海に心引かれる。
「静流、変な顔してる」
雫に指摘され、心を読まれたかと思い、静流は慌てる。
「そうかな? 疲れてて眠いから考えがまとまらないんだ」
それも本当だ。祖父がリアのドアを開けてくれ、静流は3人の荷物を積み込む。
「じゃ、静流お兄さん、あとでね」
「お昼ご飯、楽しみです」
さくらと美月が車の窓を下げて静流に言った。
「うん。楽しみにしていて」
静流は雫を見た。どんな顔をしていいのか分からなかったが、とにかく言葉にした。
「大丈夫だよ。雫ちゃんが考えているようなことにはならないから安心して」
雫は無言で頷き、軽自動車の助手席に乗り込んだ。
祖父の車を見送り、静流は歩道のフェンスに鍵でくくりつけておいたクロスバイクに戻る。その近くのベンチで仮眠していたのだが、いつの間にか日向になって、日焼け止めを塗っていたのに日焼けしてしまった。ちょっと顔が火照っている。
クロスバイクにまたがり、祖父の車の後を追うように静流は実家に向かった。
なんというか、一言でいえば面白くない。予想通りの展開と言えば展開だが、まさか羽海が静流に抱きつく事態が発生するなどとまでは考えなかった。あの役は自分の役なのに。それを思うとさくらに申し訳ない気がした。
雫と静流の歳の差は大きい。少なくとも今は小学生と大学生だ。一方、羽海と静流の歳の差は5つ。社会人2年目と大学生。ない話ではない。若いボーイフレンドだね、と言われる程度だろう。その差をまざまざと見せつけられた気がした。ハグしていても、なんの違和感もなかった。雫は助手席に座って黙りこくり、唇を噛んだ。
祖父母の家に到着すると、祖母が出迎えてくれ、祖父と一緒に荷物を運び入れてくれた。基本的には母屋の祖父母の家に寝泊まりすることになっている。エアコンがないので扇風機だが、それもさくらと美月にとってはいい経験になるはずだ。疲れがとれなければさすがに静流の家の方に避難するつもりだが。
「うわあ。趣がある家ですね」
美月が瓦屋根の古い日本家屋である母屋を見上げて声を上げる。
「そうだなあ。美月はマンション住まいだからそう思うよな。あたしのじーさんばーさんの家もこんな感じだから、デジャヴあるわ」
さくらが自分の荷物を半分持って母屋に入り、雫も入り、まずは居間に案内する。TVがついているだけで暇なので3人揃って台所に行くと、もうお昼ご飯の準備が進められていた。朝の9時前だが、アジを何枚も開けてある。それもまだ途中だなめろうを作ってくれているのだ。
「やったあ。なめろうだ!」
「なんですのそれ?」
「なめろうはアジをミンチにしてネギと生姜とみそを混ぜ込んだ房総の漁師料理なんだ。とてもご飯が進むんだよ」
「美味しそうだ」
さくらはありがたやと手を合わせる。祖母がやってきて手を洗い、言った。
「お友達は房総初めてだろ? ちょっと頑張っちゃった。開くのはわたしがやるから、ミンチにするのは頼んだよ」
「やるやる!」
雫のテンションがあがり、祖母は笑顔になる。
「あたしらもやるぞ。結構な量がありそうだから、疲れたら交代するぞ」
「じゃあ、それまでは私達は勉強をしましょう」
「お、おおう」
美月の提案にさくらは澱む。しかし館山でも勉強するのは約束だ。いつ誰とやるかだけの差だ。ならば隙間時間にやるのがいい。
さくらと美月は荷物から勉強道具を取り出して居間の座卓で勉強を始める。雫は祖母の隣でまな板に開いて背骨をとったアジを乗せて両手に包丁で頑張ってアジの身をミンチにする。とにかく頑張る。疲れる。
「うわあ。到着早々、勉強を始めるとはお前の友達、どうなってんのさ?」
祖父の声が居間の方から聞こえた。
「いつも雫と勉強しているんだ」
「私達、仲良しなんですよ」
そう言ってくれる美月の言葉が嬉しい。
「疲れた~~」
嘘でも交代して欲しい旨を伝え、2人がやってくる。ちょっと手本を見せて、さくらと交代。さくらがやっている間に雫も勉強道具を広げる。
「おお。偉い。約束守ってるんだね」
「静流、遅い! どこ行っていたんだ!?」
「自分の家の方だよ」
「ああ、そうか」
雫はついあの後、羽海が残って何かしていたのではと疑ってかかってしまう。ダメだなあと思う。
「静流さんの出番、なかったですね」
「長いからそのうちあるよ。おお、なめろうだ。帰ってきた気がするなあ・ばあちゃん。ただいま」
静流は台所に行って祖母に挨拶した。包丁を使い、勉強することで少し落ち着いている自分がいる。雫は自分の心を冷静に確認しようと思う。恋は難しい感情だと思う。
居間にもエアコンがかかっていないが、それほど暑さは感じない。自分たちが薄着だということもあるが、縁側の前に立てかけられているすだれが効いているのだろう。祖父がホースですだれに水を掛けていた。気化熱でものすごく涼しくなるのだ。
「自然の風、いいなあ」
美月と交代してさくらがまた勉強に戻ってきた。
「そのうち扇風機が必要になって、エアコンが恋しくなる」
「その時はその時だ」
さくらは笑う。おそらくさくらの祖父母宅もエアコン完備という訳ではないのだろう。
2交代してどうにかアジの身がミンチになり、その後、雫が生姜を刻み、さくらがネギを刻んで、準備は完了した。材料を冷蔵庫に入れ、お昼を待つことにした。祖母が言うにはあとは海苔の味噌汁だという。豪華だ。
祖父はどこかに出かけ、祖母は後片付けし、静流は3人の勉強を見ていたが、そのうち、座卓であぐらを掻いたまま寝落ちした。よだれまで流している。夜通し自転車で走ってきてさすがに疲れたのだろう。そっとしておくことにした。
こんな静流を見ることができるのも自分の立場があってのことだ。羽海には見ることができない。自分の静流だ。こんなにもこだわっているのは初恋だからというより、3ヶ月の間、一緒に暮らして、大切な家族になっているからだと雫は思う。
「静流さん、寝てしまいましたね」
「ま、別に教えて貰いたいところは後回しにすればいいんだし。何キロあるんだっけ」
「114キロ。よく走るよね~」
雫が答えると美月とさくらは改めて呆れた。
「普通はさ、電車か長距離バスだよね。好きなんだなあ自転車」
「夜を走るのも楽しそうですしね。危なさそうですが」
「静流が無事でよかったよ。それにウチらも自転車担いでくるなんて不可能だったよね」
着替えなどで大荷物だ。考えてみれば静流はこっちに生活道具一式があるから軽装で済んだわけで、そもそも輪行は無理だった。
「まあ、今度、3人で来ることがあったら、荷物はまとめて宅急便とかかな」
さくらがアイデアを口にする。それは現実的な案だ。
再び3人は勉強に戻る。11時を回ったところで、静流が目を覚ましてラジオをつけた。いつも聞いているという俳句と短歌の投稿番組が始まり、聞きながらストレッチをしていた。
祖母がそろそろご飯が炊けると台所から声をかけた。12時前に祖父も戻ってきて、3人で勉強道具を片付ける。今日は静流もこっちでお昼ご飯を食べるとのことで、広い座卓の上に6人分のお箸とお椀を用意する。そしてご飯が炊き上がるとご飯茶碗に白米を盛り、冷蔵庫から取り出して材料を混ぜ合わせたなめろうをたっぷり乗せる。そして祖母が鍋を手にお椀に海苔の味噌汁を注いで回る。うりのお新香のお皿が載り、これでお昼ご飯の準備が終わった。
「いいなあ、大勢のご飯は」
雫はぽつりと言う。去年までは1人のご飯が多かった雫だ。当然、そう思ってしまう。
「ホントだなあ」
祖父がいう。祖母も嬉しそうだ。
「みんなで作ったなめろう、美味しくいただきましょう」
そしていただきますをして、無言で食べ始める。
「贅沢な味わいだ!」
さくらが感嘆の声を上げる。実際、たっぷりアジをつかっているので贅沢だ。
「美味しいです~~しょうがもネギもいい仕事してます。味噌味がご飯が進みます」
「いっぱい食べてね」
ああ、いいな、と思いつつ、雫は静流に目を向ける。
今夜、羽海は同窓会だと言っていたから、今日は特に何もないだろう。攻撃を仕掛けてくるとしたら明日の朝だ。
静流は絶対に渡さない!
そう心の中で固く誓って、熱い白米をなめろうと一緒にかき込む雫だった。
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