第92話 いきなりロングライドは無理です

 クロスバイクを買った初日のライドで、強い向かい風に抗って帰ってきたので、翌朝、雫の脚は完全に筋肉痛になっていた。脚だけでなく腰も痛いのは、体重をかけてペダルを踏まないと前に進まなかったから、予想外に腰の筋肉も使っていたに違いない。寝ている間も筋肉が熱を帯びて、ずっとけだるかった。


「うう、マジで痛い」


 これではとても11歳の身体とは言えない。もはやおばあちゃんだ。半身を起こすと全身が痛いことが分かる。ロフトベッドから降りるだけでも一苦労だ。ハシゴを踏み外して落ちないように細心の注意を払いながら降りる。


 すり足するようにして前に進み、トイレを済ませ、リビングにいくと静流がカウンターでコーヒーを飲んでいた。彼は案の定、という顔をしていた。


「相当、辛そうだね」


「……辛い」


「明日はやめておいた方がよさそうだね。自転車を運ぶのにも支障がありそうだ」


「残念だけど、うん」


「美月ちゃんはもっと大変だと思うよ」


「うん」


 美月に連絡を入れるとやはり同様に筋肉痛で動けないとのことだった。


「葛西臨海公園にいったときの方がずっと遠くまで走ったはずなのに、どうして今回はこんなにキツいんだろう」


 雫はなんの筋肉痛も感じていないであろう静流を見てため息をつく。


「ほとんど坂も風もなかったから、ゆっくり走れば脚の重さだけでペダルを回せた。でも、昨日は強風に抗って走ったからペダルを踏むのに筋肉を使ったんだ。だから筋肉痛になる」


「本当に筋肉の力で走ろうとするとこうなるってことか……」


「向かい風が強風だと坂と同じで、よりペダルに筋肉の力が伝わるから、筋肉の力を使えてしまうんだね」


「それにしても痛い」


「コーヒー飲む?」


 雫が頷くとすぐに静流はコーヒーを入れてくれる。


「コーヒーを飲むと痛みが和らぐから、動けるようになるよ」


「そうなの?」


 クリームと砂糖を入れてコーヒーをゆっくり飲む。


「カフェインが入っているからね。痛み止めの薬もカフェインがいっぱい入っている」 


「そうなんだ」


 飲んでいるうちに痛みや不快感が落ち着いてくる。


「さくらちゃんは大丈夫かもしれない。走り込んでいるし、自転車とは使う筋肉が違うだろうけど、基本はついているだろうから」


「さくらちゃんと2人で行ったらイヤだよ」


「それはそう思うだろうね。さて、どうやって行くか考えないと……」


 静流は腕組みをして露骨に首を傾ける。ジェスチャーが大げさだ。


「普通に電車で行く?」  


「それが無難かな。しかし僕はそこまでして応援にいく関係性でもない。要するに美月ちゃんのつきそいだからね」


「でも、ウチはついていてあげたいよ」


「そのとおり。じゃあ答えは簡単だ。雫ちゃんとさくらちゃんの2人が電車で行けばいい。僕は自転車で行くよ」


「ええ! そんなのないよ。ぜんぜん知らないところなのに!」


「なんのためにスマホがあるのさ。大丈夫。何かあったら僕に連絡をくれればいい」


「うわー そう来た?」


「電車の乗り換えなんてたいしたことないよ。さくらちゃんと一緒にシミュレーションしよう。そうすれば怖くない」


「シミュレーション?」


「地図とか時刻表を見ながら予行練習をしようってこと」


「面白くなってきたぞ!」


 雫はワクワクしてきた。正直、美月のつきそい以上のモチベーションがなかったのに、自分たちだけで電車に乗って目的地に行くというのは小冒険だ。


「よし。さくらちゃんに連絡しよう」


 雫は早速、さくらに連絡を入れ、昼前には雫の家に来ることになった。夏休みの初日からワクワクしてきた雫だった。




 さてさて、適当なことを言ってしまったが、小学5年生の美少女2人の電車旅をさせようというのだから静流の責任は重大である。電車になれている子であればともかく、さくらも雫も電車には慣れていない。しかしこれもイベントだと思えば楽しくなる。彼女たちに不安を与えないためにきちんと静流が予習をしておかなければならない。なにしろ静流はこっちに来たばかりのお上りさんなのだ。


 スマホだと画面が小さいのでタブレットを持ち出し、東部野田線でいろいろ調べるとそれほど難しくはなさそうで安心した。何かトラブルがあってもスマホで連絡がつくし、万が一のときはさくらの空手の心得がきっと役に立つだろう。


「1番心配なのは痴漢だなあ」


 カウンターでコーヒーを飲みながら思わず静流は呟いてしまった。


 雫は朝から夏休みの宿題に取りかかっている。宿題の消化については、澪が仕事に行く前にきつく言いつけていた。そんなことを言われなくてもやるよと雫は不平を漏らしていたが大切なことだ。


「痴漢? ウチらに?」


「雫ちゃんもさくらちゃんもかわいいし、女の子だけだからね」


 そう静流が答えたところでインターホンが鳴り、さくらが来た。


「おはよう。雫、静流お兄さん!」


「朝から元気だ」


「宿題持ってきた?」


「無論。さっさと片付けてしまおう。ところで静流お兄さん、お腹減った」


「ここで食べるの前提かい……」


 まあ、こちらがさくらを呼んだ方である。彼女がそう考えるのも自然だ。雫が勉強する座卓の向かいにさくらが座り、宿題を広げ、言う。


「さっさと宿題を片付けないと、遊びに行けないよ」


「そうだね。空手の方はどう?」


「走り込みをした後、ゆうきと軽く組み手をやってる。隙の意味がわかってきた」


「隙?」


 雫がいぶかしげに聞く。


「よくマンガなんかで『隙あり!』とか言うだろ? あれ」


「いや、それは分かるけど」


「少なくともあたしは重心が崩れたときだと思ってる。もっと空手をやっている人は別の見方もあるだろうけど、今はそう」


「さくらちゃんは素人には難しいことを言うな。確かに自転車に乗っていて怖いのは段差を乗り上げて重心が不安定になったときだから、分かるけど」


「攻撃に転じるときに重心移動するものなんだけど、そんなことも分かっていなかったよ。これじゃゆうきには勝てないなと思った」


 どうやらさくらは1つ知り、更にまた、空手道の先を見ているらしい。


「うーむ。言っている日本語は分かるが内容がわからない。というか、そんなに好きなことを突き詰められることが羨ましい」


 雫は座卓に座ったまま、腕組みをして唸る。


「雫は静流お兄さんが大好きで、それに全力だからそれでいいんだよ」


「うーん。否定できない」


「そうじゃなきゃあと7年、静流お兄さんを好きで居続けられないだろ?」


「それはそうなのかな。わからん。別に自分の一部になってしまえば、大丈夫な気がする」


「深いな。日本語は分かるが内容がわからないという言葉をそのまま返そう」


 静流には小学5年生女子の会話とはとても思えない。


「いやいや。あと7年って何さ」


 静流は具体的な時間の提示にビビった。雫は即答する。


「そんなの決まってるじゃん。結婚可能年齢だよ」


「うわあ。具体的だった。でも18歳っていったら高校3年生だよ」


「名前は大瀧のままだから学校には気がつかれないよ」


「小学5年生女子、恐ろしい」


「ウチと結婚するの怖い?」


「具体的に計画として立ててないから軽く聞くんだろうけど、現実としては僕は26歳だよ。きちんと就職して安定していないとならない。未来の話過ぎる」


「ああ、雫を嫁にすることに違和感はないんだ……」


 さくらがため息をつく。


「もしもの話だけど、今、具体的に考えたら犯罪だよ」


「ちょっと前まで16歳だったらしいじゃん。2年間、長いわ」


 雫は大きなため息をついた。


「さすがに高校1年生を嫁にはできんわ」


 静流はこの話題を変えようとキッチンに立つ。


「じゃあ、お昼ご飯を作るとしますか」


「わーい。やったあ」


「美味しいの作って」


「メッチャぶん投げられた」


 とはいえマズいものを作る気は静流にはサラサラない。さて何を作ろうか。鶏の胸肉があったので、手開きして片栗粉でまぶして低温でソテーする。これでメインはいいだろう。


 また、そうめんがあったのでそうめんを茹でることにするが、そうめんはすぐに茹で上がるので後回し。野菜をどうするか。電子レンジ調理済みのニンジンの千切りとパプリカの千切りがあったのでこれで十分だ。赤と黄色で彩りもいいだろう。


 鶏胸肉のソテーには30分かかる。その間は読書をする。ソテーできあがり5分前にそうめんを茹で、そうめんが茹で上がって水で冷やしている間にソテーを包丁で細かくそぎ切りする。ガラスの器にそうめんと氷を入れてつゆの素をそのまま入れ、野菜をと鶏胸肉のソテーを散らしてできあがりだ。


 座卓の上はもう片付いていて2人はできあがりを待っていた。自分の器を座卓に持っていき、昼食会になる。さくらが声を上げる。


「美味しそう」


「大したものではないけどビジュアルが重要なのです」


「たまにビジュアル無視もあるけどな」


「さくらちゃんはお客さんなので今回の僕は、ビジュアルも重視します」


 食べ始めると氷がいい感じで溶けて、そうめんも冷えている。大瀧家は冷房控えめなので冷たいそうめんがとても美味しい。


「それで、自転車をやめて電車で行くんだって?」


「ウチ、昨日乗っただけで筋肉痛」


「ヤワだなあ。臨海公園のときは大丈夫だったじゃないか」


「季節が違う。風が強いからね」


「けど野田方面まで電車か。まあいいけど」


「うん。雫ちゃんと2人でね。僕は清水公園駅まで自転車で行って待ってる」


「なにそれ聞いてない。雫と2人で電車旅か!」


「楽しそうでしょ?」


「うん。否定しないけど、ちょっと不安。普段、電車乗らないからな」


「さくらちゃんはSuicaかPASMO持ってる?」


「うん。Suicaもってるよ」


「じゃあ問題ない。往復でも700円くらいだ」


「結構痛いぞ」


「ランチは作って持っていくよ。飲み物も」


「静流お兄さんがお弁当を作ってくれるのであれば行こう。なにせ全くアマレスなんて興味がないからな」


「つきあいは大切じゃん。みーちゃんを不安にさせないためだよ」


「もちろん。だから行くのさ」


「じゃあ食べ終わったらシミュレーションしよう」


「合点」


「わかった」


 そうめんなのですぐに食べ終え、洗い物は2人に任せる。洗い物は多くないのですぐに終わり、座卓に再び集う。


「勉強道具からメモ用紙と鉛筆を出して」


 2人はとりだし、鉛筆を持って構える。


「手でメモをとるとぜんぜん違うからね。じゃあ、始めようか」


 静流はタブレットを手に、仮想、本八幡駅→東武清水公園駅を始めたのだった。

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