第91話 いよいよクロスバイクデビュー  

 自転車屋から納車の連絡が来たのは夏休みの初日の夕方だった。


 雫は美月と待ち合わせして静流と一緒に自転車屋に向かった。到着すると店頭に水色とオレンジ色のクロスバイクが仲良く並んでいた。本来ならオプションのキックスタンドが標準でついている特別仕様車なので、自立している。自転車なら自立して当たり前だと思っていた雫だが、静流のクロスバイクにはスタンドがついていないのでいつも停めるときは立てかける場所を探している。それをしなくて済むのは楽でいい。


 必要なものは前の自転車から移植し、古い自転車の処分はお願いする。長い間、お世話になった自転車に別れを告げ、ありがとうと最後に伝え、お店の脇の廃車置き場に置かれる愛車を見て、ちょっと涙ぐんでしまった。しかしもう小さく、ガタも出ている。お別れで仕方がないだろう。


 ライトと鍵は移植したのでもう最低限は大丈夫だ。あと、静流がサイドミラーを付けた方がいいというアドバイスから雫と美月の自転車にはもうサイドミラーがついている。


「詳しい説明はお兄さんから聞いてね。もちろん何かあったら来て欲しいし、1週間くらいで締め直しをしたいから必ず来てください」


 店主にそう言われて、3人は自転車屋をあとにした。




 河川敷が近いので、河川敷の沿いの京葉道路の河川橋の下の日陰で自転車の調整を始める。サドルの高さやハンドルバーの位置などを静流は2人分見ていく。  


「スポーツ自転車はサドルに腰掛けたら足がつかないんですよね。危なくないですか?」


 美月の足の長さをみてサドルの高さを上げ、その後、自転車を押さえながら美月に乗って貰う。そして静流は美月の疑問に答える。


「実は自転車が進む力ってさ、ペダルを足で踏んでもあんまり伝わらないんだ」


「驚きの情報。じゃあ何の力なの? ウチ、一生懸命踏んでたよ」


 雫が目を丸くする。それが普通だから自転車乗りからしては驚くことでない。


「踏んでも、ペダルがつながっているところ――クランクって言うんだけど、逆の側の足が乗っかっているだろう? だいたいその足を上げる力になるか逃げるかのどっちか。すかすかするでしょ? あれ」


「あーわかるわ」


「で、じゃあどうすれば効率的かっていうと、足の重さだけでペダルを回していくこと。そのためにはサドルを無駄に足を上げない高さまで上げることで疲れなくなる原理」


「足の重さで回っているんですね?」


「足の重さを気をつけてみてよ。体感できるから。そして踏んでいない逆の足は上げるように心がけると更に無駄に力を使わなくなる」 


「意識しないと難しそうですね」


 美月はちょうどいい、無駄に膝があがらない位置までサドルを上げて貰い、乗ってみる。静流は声をかける。


「足は着かなくても、フレームは下がっているから、前に降りれば倒れることはないよ。立ったまま自転車を支えられるから安心して」


「はい」


 河川敷の平らなところでくるくると美月は旋回する。


「ほんとうだ。回すだけでいいんですね」


「上り坂だとペダルを踏んで力がかかりやすいから足の力を使って登るんだよ」


「なるほど~~」


 雫のクロスバイクも美月のものと同じように調整したあと、雫は美月と一緒にその辺でくるくる周り、その後、フレームをまたぎながら止まる。


 雫も美月も脚が長いのでフレームをまたいでも全く問題がない。脚が短い静流は股間が苦しいのだが、女の子ということを差っ引いても余裕がある。身長から考えるとかなり脚が長い。


「本当はハンドルバーの位置を下げるともっと足に体重が乗るから楽に走れるんだけどその分、姿勢が苦しくなるから、身体ができるまではこれくらいでいいかな」


 クロスバイクのハンドルバーは静流のクロスバイクはサドルと水平に近い位置まで下げられているが、雫と美月のクロスバイクは少し静流が下げたが、サドルと高さを比べるとかなり高く、楽な乗車姿勢になる。


「自転車は難しいなあ」


 雫はそういうが、静流は首を横に振る。


「自転車だけじゃないよ。なんでもそう。ある程度まできちんと勉強するとなんでも難しい。そしてなんでも面白い」


 静流はいいことを言うなあと雫は思う。花壇をリニューアルした経験はとても勉強になったし面白かった。自転車と花壇作りなんて全く違うことなのに、学ぶことの大切さと面白さは全く同じだ。


「じゃあ、今日はこれに慣れるために少し走ってみようか。美月ちゃんは大丈夫?」


「もちろんですとも!」


 美月は大きく頷く。


 もう日は傾いているが、かなり暑い。それでもこれから涼しくなるので、少し遠くへもいけるかと静流は考える。しかし暗いのも困ってしまう。堤防の上は一般の道より安全だが、街路灯もない中を走るには雫と美月のライトは貧弱だ。いや、ちょっと待てよと考えて、自分のLEDライトを雫の自転車に取り付け、美月には持ってきてあったLEDヘッドライトをつけて貰う。順番は静流、雫、美月で堤防の上の道路を北へと走り始める。


 夕焼けの中、スカイツリーのLED照明はまだ点灯していない。帰りにはきっともう薄明るく点っているはずだ。


 すぐにJR総武線の下を通り、国道14号線の下を通り、京成線の下を通る。


「今、どこでしょう?」


 美月が聞く。スマホのホルダーがあればナビになるから分かるのだが、そんな装備は2人の自転車にはつけていない。静流は応える。


「今、国府台の下。里見公園のあたりだよ」


 そして更にまっすぐ行くと集落に入り、集落の中を走っている間に北総線も越える。


 再び堤防上の道路に戻り、国道6号線の上で東京都側に渡る。


「うわあ、風が強い!」


 橋の上だと南風を横切る形になるので煽られる。自転車は歩道を通る自動車道路なので歩道を走るが、幅が狭いために対抗の自転車がくると緊張する。2人は慣れない自転車だが、無事、すれ違うことができていた。


 なんとか国道6号線の橋、新葛飾橋を渡り、葛飾区に入る。


「東京に来た~」


「楽々来ましたね」


「行きはよいよい帰りは怖い、だよ」


 そして南に向かって堤防の上の道路を走り出すが、強い南風で、完全に向かい風になる。自分は走れるが小学生女子の2人が心配になる。


 後ろを見ると2人は追い風のときに使っていた重いギアを使っているのだろう、ペダルをゆっくり踏んでいた。道路の幅が広いところで、端に寄せて止まるように指示をして2人のギアを確認する。やはり重いギアのままだった。


「こういうときは軽いギアを使うんだよ」


「軽いギア?」


 雫が聞き返す。


「1回クランクを回すと後ろの歯車を何回、回せるかの話。ああ、比は6年生だね」


「踏んでいてスカッと回る方ってことでいい?」


 雫はやはり聡い子だ。軽いという語感から伝わったようだ。


「その軽いギアだと進みませんよね」


 美月が聞いてくる。


「でも楽に回せる。筋肉を使うと長くは回せないから」


「そうですね。それも分かります」


「自転車での遠出は長い時間がかかるから筋肉は温存しないとね」


「なーるーほーどー」


 雫が納得していた。静流は再スタートを促す。


 もう暗くなりつつあったので、2人にライトを点けさせてからペダルを踏み始める。静流のクロスバイクにはブロックダイナモのLEDライトを装備してある。今のブロックダイナモのLEDライトは非常に負荷が軽いので、ペダルが重くなることがなく、脚への負担がとても少なくて済む。また、電池式LEDライトのように電池の残量を気にすることなく、同じような光量を確保できるのでとてもいい。最後尾の美月に貸した電池式LEDのヘッドライトも相当明るいものなので、最後尾でも時々、先頭を走る静流の方まで照らし出されていた。光量に不足はない。


 東京側の堤防上の道路は広く、陽が落ちて涼しくなってきたので散歩の人やジョギングの人が大勢いる。気をつけて走らなければならない。


「向かい風がすごいよ~」


「僕のすぐ後ろをなるべく走って! 美月ちゃんは雫ちゃんの後ろを!」


 振り返って叫ぶ。自分が風除けになればだいぶ違うはずだ。


 どうにか国道14号線の市川橋まできて、千葉側に戻る。静流はもう堤防上を走ることを諦めて市街地に入る。市街地の方が河川敷より障害物がある分、風が弱まるからだ。


 小学生女子を気に掛けながら、車も通っているので車も気にしながら、帰路を走る。途中、コンビニでアイスを買って3人で食べる。もうすっかり陽が落ち、コンビニの照明が明るく3人を照らしている。


「向かい風、無理。もう足が筋肉痛」


 雫が静流に訴え、美月も大きく頷く。


「行きが楽だったのは追い風だったからなんですね」


「うん。これくらいの向かい風で君たちが無理だってことが分かったのは収穫だ。やっぱり土曜日は帰りは輪行だ。さあ、頑張るぞ」


「本当に野田まで行ってくれるんですね。ありとうございます」


 美月の顔がぱあーっと明るくなり、雫がサムアップする。


「行くよ。だって約束したもの」


「正直、アマレスなんて見たことないし。空手の試合を見たときに思ったんだよね。なんでも経験だって。美月ちゃんはどうして見に行くことにしたの?」


 すると美月は難しそうな顔をした。


「つむぎお姉さんが不安そうな顔をしていたから」


「細野くんとるりりんさんも来るのに?」


「それでも私がついていてあげたいと思ったので、行くんです。でもその分、私も不安になってしまいましたが」


 蒼と瑠璃のカップルに挟まれるのは蒼に憧れた美月としては避けたいところだろう。


「みーちゃん、最高!」


 雫は美月をがっちりハグし、美月は恥ずかしそうに苦笑した。


 もう夜遅いので、静流と雫は美月をマンションまで送っていった。美月のお父さんが出てきて、新しい自転車に感動していた。美月はクロスバイクの良さをお父さんに話して、運動不足を嘆いているくらいなら自分の分も買えばとも言っていた。


 美月と別れ、静流と雫は家に戻り、前庭に2台のクロスバイクを停めた。


 今、前には仮の住人がいる。それは理科の授業で雫が育てているいんげんだ。もう花が咲いているので収穫できる日も近いだろう。


「クロスバイク、ぜんぜん違うね。ギアがあると楽だし、無駄な力が要らない」


 雫は静流に笑顔で話しかける。


「そうなんだよ。本当はそんなことないんだけど、普通の自転車の半分くらいの力で進む気がするよね」


「クロスバイクが誕生日プレゼントでよかった。ありがとう、静流」


「どういたしまして」


 そして2人で顔を見合わせて笑った。


 雫は先に帰宅していた澪に新クロスバイクを報告すると、きちんと自分で整備できることはするんだよ、と言われた。雫は何度も頷いていた。そのうち静流は、簡単な整備を彼女に教えてあげないとならないだろう。


 夜は更けている。早いところご飯を作って、雫をお風呂に入って貰って、寝させて、身体を休めさせないとならない。きっと明日は筋肉痛で嘆くだろう。若いからすぐに治るだろうが、これで自転車を嫌いになられたら困る。


「じゃあ、ご飯を作りますよ」


「ありがとう、静流くん!」


 澪は1人で家にいても、やはり静流がご飯を作るのを待っていたようだ。


「ええ、手早くやりますよ」


 そして掃き出し窓から室内に入り、静流は手を洗って夕食を作り始めたのだった。

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