第89話 雫のお誕生日
7月20日は月面着陸の日だという。半世紀以上前にアポロ宇宙船が月に到達し、人類が月へ1歩踏み出した日だそうだ。しかしアポロ計画以降、月の有人探査は行われていない。理由はいっぱいあるのだろう。今度、静流に聞いてみようと雫は思う。
ロフトベッドの上で目を覚まし、そんなことを考えながら雫は起きる。
今日で11歳だ。特別な日だ。
雫はロフトベッドのハシゴを気をつけて降り、リビングに行く。静流はとっくに夏休みに入っている。バイトがなければ家にいるはずだ。案の定、静流はリビングのカウンターでコーヒーを飲みながらラジオを聞いていた。
「お誕生日おめでとう」
「11歳になったよ。7歳差だよ!」
「僕の誕生日が9月11日だからすぐまた8歳差だけどね」
「911。覚えやすい日だな」
「だいたい忘れられる」
「ウチは絶対に忘れない!」
雫は静流にくっつく。
「じゃあ、お誕生日プレゼント。といっても消耗品だけど」
「なになに?」
カウンターに置いてあった包みを静流が雫に手渡す。開けてみると自転車用の指切りグローブだった。オレンジ色がきちんと差し色に使われていた。
「今まで指切軍手だったからね。もう指切軍手は卒業だ」
「ありがとう! 自転車もプレゼントなのに!」
「自転車は澪さんと半分ずつだし、僕だけのもあっていいかなと思って」
「大切に使い倒すね。使い倒すってことは静流と一緒にいっぱいどこかに行くってことだからね」
「もちろんそのつもりだよ」
「嬉しいなあ。今年の誕生日は特別になりそうだ。今まで学童に行って帰ってきてお母さんと一緒にケーキを食べるだけだったから」
「そっか。でも、今年はさくらちゃんと美月ちゃんがいるもんね」
「なんと言っても静流がいるよ!」
そして雫はまた静流にくっついた。暑いが、くっつきたいのだ。
しばらくして澪が起きてきて娘の誕生日を祝う。
「あれからもう11年かあ」
感慨深いことこの上ないだろう。
静流が作ってくれた朝食を澪と一緒に食べて登校しようとすると、つむぎから連絡が入っていることに気づく。開けてみると動画だった。動画ではつむぎと瑠璃が歌い、蒼がギターを弾いてハッピーバースデーを演奏してくれていた。
〔我らがマジカル仲間、オパールのお誕生日をお祝いします、だそうですよ〕
〔感動した! とお伝えください〕
こんなに嬉しいサプライズがあるとは雫は思ってもいなかっただけに、何度も見返してしまった。
登校すると教室でさくらと美月が待ち構えていた。
「お誕生日おめでとうございます」
「一足先に11歳だな!」
「さくらちゃんはまだ先だもんね」
「あたしは祝日だから翌日におめでとうを言われるだけだ」
「私も2月11日ですからいつもお休みですよ!」
雫が2人につむぎたちから送られてきた動画を見せると美月が羨む。
「いいなあ。私もお誕生日もリークしておいてくださいよ」
「承知した」
雫はくすくすと笑ってしまう。
「そういえば自転車はまだなんですかね」
「今日は自転車屋さんがお休みだから明日かな」
「明日、さっそく出かけられますね!」
「暑いからお日様が出ている間は出かけない方がいいぞ」
さくらの正論に雫と美月はしゅんとしてしまう。さくらは続ける。
「しかし自転車に差をつけられたのは思うところがあるぞ」
「でも体力でカバーしてください」
「美月のいうとおり、そのつもりだよ」
さくらはガッツポーズをとる。美月が雫の顔をのぞき込む。
「ところで今日のご予定は? 静流さんとデートの約束なんてしていないでしょうね」
「そうだぞ。静流お兄さんを独占しすぎるのはよくない。いやいや、あたしたちが祝う場を用意してくれ」
「もちろん、そのつもりで予定は空けているよ」
雫は胸を張る。お友達にお祝いして貰える初めてのお誕生日だ。テンションが上がる。
「じゃあ、放課後はお昼を食べずに雫の家に集合だ」
さくらがノーアポでそう言い出したので雫は焦る。
「え、
「1番気易いので」
美月にそう言われると否定しようがない.2人ともお泊まり会やらお料理教室などで雫の家には馴染みがある。
「わかった。いるとしても静流だけだからな。問題ないだろう」
そして静流に連絡を入れ、スマホの電源を切った。
終業式は何事もなく終わり、成績表も無事配信され、羽海ちゃん先生はかなりホッとしていた。担任をもって初めての終業式、初めての成績表である。緊張して当然のことだろう。帰り際、羽海に雫は言った。
「静流に羽海ちゃん先生が頑張っていたって言っておく」
「それはなにか期待していいってことかな」
「夏休みなので少しはこきつかっても許しますが、セクハラは許しません」
「いつもセクハラなんてしてないよぅ」
羽海は苦笑するだけだ。本当に無自覚なのかもしれない。
「じゃ、1日くらい借りるね」
「それは静流次第ってことで」
羽海は最大のライバルだが、初めての担任で苦労した先生を労いたい気持ちはある。静流がからかわれるだけなら実害はないだろう。あとは釘を刺しておけばいい――いい、のか? かなり疑問だが、言ってしまったことはもう取り消せない。誕生日で気分がよかったからつい言ってしまったに違いなかった。
途中までさくらと美月と一緒に帰り、しばらく登校はない。主事さんがお休みの日に花壇にお水をまく日にはこないとならないが、それは楽しみでもある。
またね、と言って2人と別れ、帰宅する。
家に帰ると静流がリビングのクッションで横になりながら真面目な顔で読書をしていた。読んでいるのはかなり分厚いソフトカバーの大型本だ。
「何を読んでるの?」
「国立歴史民俗博物館研究報告」
「難しいことだけは分かった」
「僕も読んでいてよく分からないけどとりあえず頭に入れてる。そのうちその知識が頭の中で結びつくのが気持ちいい」
「授業中に分からなかったことが復習で分かったときのピタリ感かな」
「だいぶ似てるけど非計画的なので僕の方が大雑把」
「これからさくらちゃんと美月ちゃんが来るんだけど」
「うん。僕、部屋にいた方がいい?」
「たぶん2人は何か計画がある。けど、手を出さないで欲しい」
「なるほど」
「言いたいことはそれくらいかな。あと、羽海ちゃん先生がきちんと1学期の間、担任ができたことを労ってきた」
「雫ちゃんは担当児童の鏡だね」
静流は本当に感心した様子で、雫は少し照れた。
「なので静流を少しは貸し出してもいいと言っておいた」
静流は思いっきり顔色を変え、激しく動揺した。
「なんて危険なことを言うんだ!」
「――嬉しかったりしない?」
雫はかなりそこが心配だ。美人でかわいくてボッキュンボンで独り身である。誰が彼女に誘惑されて断れるというのだろう。
「本心から僕をからかうからやっかいなんだよ、あの
「羽海ちゃん、静流の前だと別人だからな」
「あれが素だよ」
「羽海ちゃん先生は、先生だからそれでいいんだな」
本当に雫はそう思う。羽海はプロ意識をもって仕事をしているのだ。
静流はカウンターに移って研究報告を読み続け、雫は自在箒を手に掃除をして2人が来るのを待つ。自在箒は学校で使うものより一回り小型で、掃除機のように隅々まできれいになるわけではないが、静かだし埃は立たないし、すぐに手軽にできるしでと気軽に掃除できるのがいい。あと自在箒を使い始めて床にものを置かなくなった。
インターホンが鳴り、雫はロックを解除して2人を出迎える。2人は両手にエコバッグを手にし。大きめのリュックサックを背負って、家の中に入ってきた。
「さあ、作ろう!」
「作りますわ!」
2人の親友は勝手知ったる他人の家を地で行き、リビングに荷物を置く。
「雫~~ホットプレートはどこだ~~?」
「今、出す」
2人は一体何をしようというのだろう。雫はホットプレートを座卓の上に出していると2人の姿が見えなくなっていた。
「なんか僕はリビングから動くなって言われた」
「そうか。ホットプレートで何か作る気なのはわかる」
2人が戻ってくるまで少し待ったが、次に現れたとき、雫は声を上げていた。
「2人ともかわいい!」
さくらとみつきは同じゴスロリのメイド服を着て雫の前に姿を現したのだ。
「今日の大瀧さんのお誕生日はお家でメイド喫茶お誕生日イベントです」
「チェキも持ってきたぞ」
美月は両手の指でハートマークを作り、さくらはチェキフィルムを使ったトイカメラを構えた。
「想像の斜め上過ぎて驚くしかない」
カウンターの静流は小さくため息をついた。
「そんなこと言って嬉しいくせに」
さくらはカウンターに行き、静流にそっと寄り添って大きなフリルに覆われた自分のおっぱいを静流の肘辺りに押しつけた。
「さくらちゃん、それはNG! NG! 審議です!」
「いや、5年生にしては――」
静流は赤くなっている。
「へへ。意外とか思ってるだろ。急成長中なのだ」
雫は力尽くでさくらを引き剥がし、さくらは惜しそうな顔をする。
「時間切れか」
「まあまあ大坂さん、まだ機会はありますから」
「そうそうあったら困る!!」
美月がさくらを慰めたあと、雫と静流に言う。
「そしてこれから『お誕生日おめでとうメイドパンケーキ』を作ります」
「そう来たか~~」
初めてのお誕生日イベントがこれというのもかなり鮮烈な記憶になるだろう。
「さてはつむぎちゃんの入れ知恵だな?」
静流がそういうと美月はえへへと苦笑いした。
「正解です。このメイド服もつむぎお姉さんのものです」
美月とつむぎは自分たちを姉妹認定しているから今も連絡を取り合っているのだろう。
「つむぎちゃん、コスプレ衣装に本当に散財してるなあ。でもありがたい」
確かにつむぎが着る用だと思われ、サイズが大きめだ。気をつけてみるとしつけ糸がところどころに入っているのが分かった。今日のためにつむぎが、仮縫いをしてくれたに違いない。
「じゃあ、台所借りるな~」
2人のメイドがキッチンに行き、パンケーキを作る準備を始める。
「静流、どう思う?」
「お2人のご両親のために画像を残しておくべきだと思う」
「静流は大人だな」
確かに静流の言うとおりだと思う。美月のお父さんはよく知っているし、さくらの両親と繋がってはいないが、面識は多々ある。スマホを手にキッチンに行く。
2人はホットケーキミックスをボウルで混ぜながら、2人で呪文を唱えていた。
「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ」
そして写真を撮る。静流もミラーレス1眼を持ってきて、構図を考えながらなのだろう、慎重にシャッターを押し始めた。
どんなパンケーキができるのか、そしてメイド姿で2人が何をしてくれるのか、雫のお誕生日の楽しみが増えたのだった。
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