第87話 大学合格と下宿の話
2月の下旬、無事、一応本命の大学の合格が判明し、静流はひとまず安心した。これで4月から東京の大学に通うことになる。残り2校あり、1校は合否待ち、もう1校は試験があるが、それはまた別の話だ。
高校はもう自由登校になっていたので、静流は両親にすぐ報告し、入学金の振り込みをお願いしますと頭を下げた。大学の学費を出して貰えるのは当たり前のことではない。しかも通いではない。謝意をしっかり伝えたかった。
両親共に喜んでくれ、そこで難しい顔をした。まだ、つむぎの家か雫の家か親戚会議では決まっていないようだった。何しろつむぎはお年頃だし、雫の家には澪という美しい未亡人がいる。どちらにしろ危ないと言うことだ。
父親にお前はどっちがいいのかと希望を聞かれ、素直に雫の家と応えた。
「たぶん、雫ちゃんには勉強を教えられるから、その分、下宿代を勉強して貰えると思うんだ。つむぎちゃんの方は、中学生の勉強はともかく、高校生になったら絶対に手に負えないし」
「それはいいアイデアだ。雫ちゃんにはお前、すごい懐かれてたしねえ」
母親は困った顔をしたが、澪に電話をし、澪は下話を聞いていたからか、二つ返事でOKした。
「すんなりすぎて怖いわ」
「母子家庭でお金に余裕がないからだろうな」
父が言うのももっともだと思う。普通に暮らすだけならばともかくこれからは教育費がかかる。ただ勉強をしに塾に行くより、勉強習慣を身につけられるよう常に家庭教師が近くにいた方がいいという判断だろう。それに下宿代も貰えることもメリットだ。
「それはいいけど、お前、犯罪者にはなるんじゃないよ」
「え、どういうこと?」
「知らないとでも思ってるの? 夏も年末年始もずっと雫ちゃんと一緒に寝ていただろう。いつ間違いが起きないかヒヤヒヤしていたよ」
「まだ小4だよ」
「小学生でも女の子は女の子。男の子と比べたら大人びているんだから。絶対にダメだからね」
母にも釘を刺され、静流は苦い顔をしながら頷いた。
「あの子がもっと大きかったらよかったんだけど」
「そうしたらもうデキてただろ? 澪さんに謝りに行かないとならないところだ」
「そうだねえ。間違いだけはなしにしてくれよ」
父も母も勝手なことを言う。いや、痛いところを突いてくれる。
「わかった。約束するよ。犯罪者にはなりません」
「当たり前すぎるがな」
父にドヤされてしまった。
少し落ち着いたところで部屋に戻り、勉強を再開する。まだ1校ある。とはいえ、もう勉強と言うより詰め込んだ暗記物の確認しかしていない状況だ。これ以上、間が空くとぽろぽろと暗記したものが落ちて行ってしまいそうだった。
勉強していると雫から音声通話していいか連絡が来た。もちろんいいよと返すと即座にかかってきた。
『静流! 合格おめでとう!』
「滑り止めにはもう受かってたけどね」
『何で報せない!』
「まだ2校あるしね。とりあえず本命が受かったから連絡した」
『ウチの家に来てくれるってお母さんから聞いた』
「そうだよ」
『つむぎちゃんには断られたか?』
「違うよ。雫ちゃんの家の方がいいって言ったんだ。だってお勉強を教えてあげられる分、貢献できるだろ?」
『うん。教えて教えて!』
雫が跳び上がって喜んでいるような気がして静流は思わずクスッと笑ってしまう。
「その代わり、雫ちゃんも真面目に勉強するんだよ」
『もちろんだよ。静流の前だとウチはいつだって真面目なんだぞ』
「そうかな」
『ごめん。真面目なんじゃないや。本気だ』
なるほど。それなら分かる。
「じゃあ本気で勉強して貰おう」
「なるほど。そう言われるとどうも本気で勉強しないとならなくなるな』
雫も笑った。
「雫ちゃんの成績が悪くなると居づらくなるから」
『わかった。がんばる。ところでいつ頃、こっちに来るんだ』
「気が早いな。今日、決まったばっかりなんだよ」
「だって待ち遠しいよ。静流に会いたいよ』
どうして雫にこんなに好かれているのか静流は不思議でならない。
「4年間は一緒にいられるよ。問題はその4年間のうちに雫ちゃんが僕じゃない誰かを好きになったときかな。相当居づらい」
『そんなこと起きないから安心してこっちに来てくれ』
「断言するね」
『当たり前だろ。ウチは一日でも早く静流に会いたいのに、こんなに強い気持ちがウチの中にあるのに、たとえ4年経って、この気持ちが弱くなったって、消えることは絶対にない』
そう言われると安心する。
「うん。楽しい4年間にしたいね」
『その後、どうするんだ?』
「まだ考えてないよ。こっちに帰ってきて就職したいけど」
「こっちで就職しないのか! そうしたらまた離ればなれじゃん』
「それは仕方ないよねえ」
4年経ってもまだ雫は14歳だ。ぜんぜん一緒に暮らせる歳ではない。
「まだ4年あるのか。それでも諦めるもんか』
雫のそのエネルギーがどこから湧いてくるのか知りたい気がする。雫は自分のことを運命の相手だと本気で思っているに違いない。そうでなければ、たとえ初恋だからといって、こんなにエネルギーを注げるはずがないと静流は思う。
「雫ちゃんは強いな」
『そんなことないよ。だって目の前に希望があるから強くなれるんだよ』
「なるほど」
それが強さに直結してエネルギーを生み出しているのだと静流は気がつく。希望を捨てずにいることが、緊急事態や遭難から生還する絶対条件だと誰かが書いていたドキュメンタリーを読んだことがある。きっとそういうことなのだろう。
「そうと決まったら静流が寝る部屋を片付けないと。今、物置だから』
「うん。お願いするよ」
『どんな布団にしようかな』
「ふとんは持っていくよ」
『そうか。じゃあ机とかはどうするんだ』
「折りたたみ座卓で十分だよ」
『ゲーム機持ってくる?』
「携帯機は。据え置き機はどうしようかな」
『自転車は持ってくる?』
「持っていくよ。自転車で大学まで行くつもり」
「結構遠いよ。房総と違って信号も多いよ』
「そうだな。でも、いろいろなところに行けるから楽しみだ」
雫と話をしていると話題が尽きない。実際、自転車で都内を巡れるのは楽しみである。皇居を一周してみたいし、長谷川平蔵屋敷跡にもいってみたい。NHKも見学してみたいものだ。
『ウチも行く』
「近場ならね」
『毎日静流がいるのかあ。楽しみだな』
「きっと飽きるよ」
『飽きるんじゃなくて日常になるんだよ。当たり前になって、それが楽しい』
「そういう考え方もあるかもね」
静流は大学生活を社会に出るまでの猶予時間だと思っている。きちんと勉強もするし、大卒の資格も欲しいし、ここに戻ってきて地元の役に立ちたい。しかし猶予時間だからといって無駄にする気もない。
『一緒に住んだらバレンタインデーのチョコだって手渡しできる。ううん。一緒に作れるよ』
「それは自分で作って」
『そっか。それはさすがに都合よかったか』
雫は苦笑いしているらしかった。
『今日は、もう遅いし、十分話したから切るね』
「うん」
『静流がうちに来るの、楽しみにしてるから』
「ありがとう」
『じゃあ、切るね』
そういっても、しばらく経ってからやっと切れた。本当はまだ話したりなかっただろうに、まだ試験が終わっていないから気を遣ってくれたのだろう。勉強に戻ろう。
しばらく暗記の確認作業だけして煩悩を追い払う。それでも浮かんでくる煩悩は『貪』といわれるものだろうと思われる。貪欲の貪だ。それもそれはまだ幼い雫に向けられている。この家に短い期間いただけなのにあれだけラッキースケベがあったのだ。一緒に住んでいたらラッキーで済まないかもしれない。そしてガマンできたとしてもどうやってリビドーを消化すればいいのだろう。まったくまだ見当がつかない。まあ自分でなんとかするしかないのだが。
気がつかなかったが、雫からスタンプが送られてきていた。
ダブルピースの女の子のスタンプだった。
その女の子の顔が雫のように見えてきて、愛おしく思う。
さあ、もうひと頑張りだ。
静流は座卓に再び向き合い、最後の最後の追い込みを始めたのだった。
結局、静流は合否待ちだった本命より1つ上の大学に滑り込むことができた。残念ながら最後に残っていた大学は不合格だった。自分にしては行けると考えていた大学よりもいい大学に、それも史学科で有名なところに行けたのが嬉しかった。雫の家からも若干近いのもありがたい。
これから3月中旬の引っ越しに向けて面倒な荷造りをしなければならなくても、気持ちは軽い。
雫と過ごす新生活が今から楽しみで仕方がない静流だった。
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