女子小学生と男子高校生の受験シーズン

第86話 雫の初めてのバレンタインデー

 このところクラスの中が騒がしいのはバレンタインデーが近いからだということを雫は知っている。小4ともなるともうこのイベントにのっかる女子も多い。男子はほとんど期待していないからか、盛り上がった様子はない。受け身にならざるを得ないイベントだからだろうか。学校に持ってくるのが禁止ということもある。雫の場合は学校に持ってきても意味がない。さてどう作り、渡したものかと思う。


 今週の金曜日も静流は受験で、つむぎの家に前日から泊まりがけだ。しかしバレンタインデーはその次の月曜日。先に渡すことになりそうだ。


 静流は受験シーズン中は静流に会わないと宣言していた。というのもメンタル的に弱くなってしまうからだという。その本当の意味は雫には分からない。ただ小4の自分でもギリギリラインの精神状態だとエッチな対象になるからではないのかと想像はしている。会いに行くのは簡単だが、歯止めがきかず、最後まで求められたら困ってしまう。自分だって流されることは間違いない。会いたいが、ここは静流のためにガマンだ。流された後、静流は絶対にいろいろな意味で後悔するだろうから。真面目な静流のことだ。間違いない。


 そんなわけで初めてのバレンタインデーに向けて渡す手段を考える一方、手作りでチョコレートを作ろうという決意も固めた。


 雫はいろいろ考えたが、結局、チョコレートの受け渡しはつむぎに頼むことにした。マンションの郵便受けに入れておくか、タイミングが合えばつむぎに手渡しということにした。受験が終わってからマンションに戻り、荷物を持って館山に帰るらしいので、金曜日だ。だいぶ早いのだが、遅れるよりはいいだろう。いや、木曜日のうちに作らないとダメだ。金曜日の朝に郵便受けに入れなければ。


 マンガなどではよくチョコレート作りに失敗しているが、そうはならないように簡単なレシピを探す。マンガの主人公たちは普段、料理をしないのに湯煎やクッキー作りなどに挑戦するから失敗するのだ。無謀な挑戦はしない。お小遣いは限られている。


 家に帰ってタブレットでいろいろ調べると最も簡単そうなのがホットケーキミックスとチョコフレークを混ぜて焼いた小さなチョコパンだ。これなら失敗しないだろうし、材料費と包装代をかけても1000円しない。スーパーで材料を買い求め、包装は100均で用意する。バレンタインデー前なので包装は各種揃っていて目移りしたが、ホットケーキミックスだと量ができると思われるので、大きめのキラキラな袋にした。


 今日はまだ水曜日なので、1日はネット巡回して情報収集で終える。そして翌日の木曜日の夕方に実物を作り始める。


 まずはチョコレートを砕くところから始める。材料用のチョコチップはある程度は小さいが大きい固まりもある。まな板の上でとにかく頑張ってチョコを小さくする。


 その後ボウルに入れ、電子レンジで加熱して少しずつ緩める。1度に加熱すると焦げると書いてあったので、臆病になってしまい、本当に少しずつ加熱したのでへらでこねて溶かすのに時間がかかった。しかし努力の甲斐あってどうにかチョコレートクリームっぽくなるところまではできた。これなら最初からチョコレートクリームの方がよかったのではと思う。安いし。そこを考えても仕方がないので、先に進む。


 レシピの分量のホットケーキミックスを投入し、更にへらでこねる。もう無の境地になるくらいこねて、ムラができないようにする。


 実際にはこねるのにさほど時間はかかっていなかった。ホットケーキのタネがきれいなチョコレート色に染まったので、ボウルからラップに移し、太巻きのように太く長くして包む。そして冷蔵庫に入れて固める。


 スマホを確認するとつむぎから連絡が来ていた。


〔静流さん、到着したよ〕


〔うん。でも、今日、ウチは連絡しない〕


〔えらい。その旨は伝えておくよ〕


 静流に無用な動揺を与えたくない。つむぎから間接的に伝えて貰う分にはいいだろう。


 しばらく放置し、冷蔵庫からラップに包んだタネを取り出すと、チョコが冷えていい感じで固まっていた。ラップを丁寧にはがすと1本のチョコ棒みたいなものができている。これをやや厚めに包丁で輪切りにしていく。クッキーなのかパンなのか微妙なところだが、小麦粉とチョコを使った何かであることは間違いない。


 これをクッキングシートに並べてコンベクションオーブンで30分焼いてできあがりだ。できあがりを待つ間に夕ご飯も簡単に作ってしまう。今日は白菜と鶏肉と豆腐で鍋だけの簡単な夕ご飯だ。真面目に作る気力はない。


 鍋はごく弱火でガスレンジにかけ、放置。最後に入れる豆腐は水切りしておく。


 その間にコンベクションオーブンの加熱が終了した。雫は手袋をしてトレイをまな板の上に出す。見た目はチョコレートクッキーだ。特に焦げてもいない。そして手袋をとり、1枚食べてみる。食感はパンでもクッキーでもない。しっとりクッキーの類いだろうか。しかし初めてにしてはよくできたと思う。


 粗熱がとれてから包装の袋に入れて、リボンをかける。


 できた。


 記念すべき雫の初めてのバレンタインデーチョコだ。


 ちょっと眺めたあと、スマホでも写真を撮る。


 そうしていると澪が帰ってきて、袋に入れていなかったしっとりチョコクッキーを見つける。


「手作り?」


「うん」


「静流くん用ね」


 澪も、夏休みに雫が静流にベッタリだったことをもちろん静流の両親から聞いている。


「うん」


「食べていい?」


「1枚だけね。さくらちゃんとみーちゃんにもお裾分けするから」


「よいよい」


 そして1枚、澪がつまむ。


「いいんじゃない?」


「よし!」


 雫は母の感想を聞き、しっとりチョコクッキーのできに自信をもった。


「そうか。雫がバレンタインデーのチョコを作るようになったのか。お父さんにもあげてね」


「合点!」


 雫は小さなお皿にしっとりチョコクッキーを載せ、仏壇に供えた。


 そしてつむぎに連絡を入れる。


〔できた〕


 そして撮影した画像を送る。


〔やるね。じゃあ、どうする?〕


〔郵便受けに入ると思う。朝の早い時間に入れておくね〕


〔じゃあ、静流さんが帰ってきたら分かるようにしておく〕


〔お願いします〕


 そして連絡を終え、雫はベッドに潜り込んだ。無事、バレンタインチョコは出来たが、静流の手に届くまでは気が抜けない。なかなか寝付けなかった。


 翌朝も早く目が覚めてしまった。朝食を作る前に着替え、つむぎの住むマンションに行き、どうにか包装袋を郵便受けに入れる。想定して薄く並べて入れておいて正解だった。


 そして入れてからメッセージもなにも添えていないことに気づき、どうしたものかと悩んだが、これでいいかと思った。つむぎが何か言ってくれるだろう。そう期待する。雫は家に急いで戻り、朝食を作って、普段通りに登校した。


 そして朝のうちにさくらと美月に2枚ずつ、しっとりチョコクッキーを小さな袋に入れて渡した。


「持って帰って食べてね」


「バレンタインデーのチョコレートか。早くね?」


「手作りなんですか?」


「バレンタインデーに渡せる相手じゃないから」


 そういうと2人は特にそれ以上、何も聞かなかった。


 今晩、きっと静流から反応があるだろう。どんな連絡が来るのか今から楽しみでもあり、どことなく怖くもあった。でも、きっと美味しいと言ってくれるだろう。


 雫はそう思うことにしたのだった。 




 その日の受験校は静流の本命だった。正直言えば1ランク上の大学にも出願しているが、判定は芳しくない。運がよければ受かるだろうというレベルだ。あと2校あるが、どうなるだろうか。分からなかった。


 前日に世話になった叔父の家に、荷物を取りに戻る。まだ少し早い時間だったが、従妹のつむぎが帰宅していた。手にキラキラした包装袋を持っていた。


「はい、雫ちゃんから愛のこもった本命チョコだよ。ありがたく受け取ってください」


 当然、そんな風につむぎに言われて静流は少々驚いた。バレンタインデーまであと3日もある。だから全く予想していなかったのだ。


「そっ、か……バレンタインチョコか」


 ふっと笑ってしまった。どんな顔をして作っていたのか見たかった気がする。しかしそれを考えるとやはり受験前日のお泊まりはつむぎの家にして正解だった気がする。きっと雫の家だったら気になって試験どころではなかっただろう。


「静流さん、本当に驚いてる」


「うん。それはもちろん。鳩が豆鉄砲を食ったようとはこのことかな」


「今、証拠写真撮るから、構えて」


「へ?」


 静流は間の抜けた顔でチョコを胸の前にもってきてしまい、その瞬間をスマホで撮られた。つむぎは満足そうな顔をした。


「よしよし。これで雫ちゃんも安心することでしょう」


「なるほどねえ」


 静流は苦笑して、自分の荷物を担いだ。そして雫からのバレンタインチョコをポケットに入れた。


「じゃあ、また来週来るよ。早く帰らないと館山は真っ暗になるから」


「伯父さん、迎えに来てくれないの?」


「歩いた方が気が楽なんだ」


 ふーん、とだけつむぎは応え、静流を見送った。


 快速が停車する駅まで歩き、静流は千葉行きの快速電車に乗る。幸い、君津行きだったので乗り換える手間が省けた。通勤の帰宅時間より少し前だったので、1駅先で座ることができた。静流は袋を開けて中を見る。小4の女の子が作ったとはとても思えない、立派なチョコクッキーだった。


 鼻を近づけるとチョコの甘い香りが漂ってきた。食べてしまいたい気がしたが、電車の中では少々気が引けて、袋を閉じ、そしてまた、目も閉じた。


 しばらくうつらうつらしている間に、電車は君津に到着し、接続の安房鴨川行きに乗る。もうガラガラで、接続の隙間時間に自動販売機でお汁粉を買って、空腹を癒やす。


 甘さが血糖値を上げるのがわかった。


 冬の房総は寂しい。車窓から見える景色は真っ暗で、街の明かりも少ない。陽はとうに落ちていた。海が見えるところに至っても、ただ静寂とおだやかな波を月明かりが照らしているだけだ。過疎も著しい。


 自分に何ができるのか分からないが、大学でいろいろなことを学び、館山を盛り上げたい、そう静流は思っている。その先にどんな仕事ができるのかは全く分からないが、それは大学に受かってから考えればいいことだ。


 まずは、基盤を作る。


 雫のことを思い出す。雫はまだまだ子供だ。このまま自分を好きでいてくれることはないだろう。だが、好きでいてくれる間は裏切るまいと思う。それが大人である自分の方の責任だからだ。


 館山に到着したのは7時をとっくに過ぎた頃だった。


 X JAPANの発車メロディを聴きながら、静流は改札口への階段を上る。電車が去る音を遠くに聞きながら、ロータリーに降り立ち、街灯もまばらな暗い家路を辿る。そしてポケットから雫のバレンタインチョコの入った袋を取りだし、一口、頬る。


 しっとりとして、ほろ苦く、そして甘かった。


 恋の味だなと思う。


 そして街灯の下で立ち止まり、雫に連絡を入れる。


〔チョコありがとう。美味しいよ。これ食べて頑張るから〕


 そして待ちかねていたのだろう。すぐに返信があった。


〔ガンバれ! 静流!〕


 もっと早く連絡してあげるべきだったな、と少し悔やんだ。


〔電車の中だったから食べられなかったんだ〕


〔そんなことだろうと思ってたよ! 美味しく食べてくれてありがとう!〕


 本当に素敵な小さな恋人だ。


 早く大人になってね。そうしたら僕はきっと君にプロポーズするから。


 決して言葉には出来ない想いを胸に、静流は帰宅したのだった。

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