第70話 美月の初恋 3
雫が目を覚ましたとき、毛布の中に静流の姿はなかった。もう起きていたか、とちょっと寂しく感じる。できれば一緒に目を覚ましたいものだ。昨日は帰りが遅くなってしまったが、結局、母は帰ってこなかった。静流の布団に潜り込むいい機会だと思って忍び込み、無事、静流が目を覚ますことはなかった。
静流は自分が悪戯する側だと思い込んでいるようだが、こんなことではウチが静流に悪戯しちゃうよ、と思う。朝方に股間が大きくなっていることを雫は知っている。大きさを確かめてみたいと常々考えているが、それはまだ先のことになるだろう。
起き出してリビングにいっても静流の姿はなく、自分の部屋にいくとロフトベッドで寝ていた。自分から逃げ出したことが分かり、つねりたくなったが、まあいい。今朝は忙しいのだ。
トーストを焼いて牛乳を飲んで軽く朝食を済ませ、大慌てで着替える。今朝は美月とさくらと待ち合わせをしている。蒼のところに顔を出したいからだ。美月はキーボードを持っていくと言っていたが、さてどうだろう。大きくて重いから手伝う必要があるかもしれない。
ふとまた少し時間があったので、何か手軽に作れるものでも持っていこうと思う。昨日、持っていかなかった角煮があったので、角煮を刻み、おにぎり作り器で作ったおにぎりに埋め込み、海苔を巻く。その繰り返し。そしてタッパーに詰める。作っているうちに時間ギリギリになってしまって、雫は大慌てで美月との待ち合わせ場所に向かった。堤防手前の道祖神前だ。
まだ朝焼けが残る中、美月は道祖神の前に立っていた。キャリーカートに大荷物をくくりつけている。おそらくキーボードだろう。
「おはよう。来てくれてありがとう」
「なんの。みーちゃんのためなら」
美月はふふふふと笑う。気持ちに余裕がありそうで嬉しい。
まだ5時過ぎだ。明るくなってきたが早朝である。既に大勢の犬の散歩の人が前を通って堤防に向かっていたから、散歩の時間と日の出が連動しているのかと思われた。
「細野さん、来るかなあ。細野さんのギター、聞きたいな」
「初心者って言っていたよ」
「それならちょうどいい。私もピアノはリハビリ中だから」
そう言っているところをみると美月はしばらくピアノから遠ざかっていたらしい。それを考えるとキーボードに再び手を着けるようになったことは喜ばしいことかもしれない。
キャリーカートを引きながら、雫と美月は歩き始める。荷物が重いので階段は使わず、多少遠回りになるが、傾斜の通路を通る。オートバイ用の車止めがやっかいだったが、どうにかすり抜けて堤防の上の道に出る。
さわやかな風と草に朝露。河川敷のグランドにはキャッチボールをしている人たちもいる。早朝の河川敷には本当にいろいろな人がいる。
「大坂さん、いつ頃来るかな」
「ゆうきちゃんと走ってからだって言っていたから、まだ1時間くらいあるんじゃないかな」
「大坂さんに聞いて貰うの初めてだ」
「ウチも聞くの初めてだよ」
「そうだね。ああ、1つ始めるとドミノ倒しみたいに何か動き出すんだな……」
そう思う。本当にいろいろ動き出している。どこで止まるのか、それともまた別のドミノが倒れるのかそれは未来の自分しか分からないことだろう。
「ウチはどうするかな」
「静流さんを捕まえておくのが大瀧さんの最大にして最強のモチベーションなんだから、それに従えばいいんですよ」
「考えもしなかった」
雫は自分が恋愛脳だということの自覚はあるが、静流が大人だから、それだけで終わっていないことがいい方向に向かっている理由に違いない。
「あら、今朝は早いのね」
柴犬を連れたいつものご婦人に声をかけられる。すっかり顔なじみだ。
「トロロ~ 遊ぼ~」
柴犬トロロもすっかり雫と遊ぶのが散歩に組み込まれたようだ。
犬が怖い美月は腰が引けてしまうようだったので、特に何かいうこともない。犬と遊びたくなったら自分から行くだろう。
しばし遊んだ後、トロロと別れ、先を行く。
「――犬、かわいいね」
「柴犬最高!」
そしてトロロを振り返る。トロロは大きく尻尾を振っていた。
「また今度ね~~」
「大瀧さんは元気で憧れちゃうな」
「無神経なだけだよ」
「そんなことないよ。だって今朝だってこうしてつきあってくれるし……」
「それはみーちゃんの親友としてほっとけないから。さくらちゃんだってそうだよ。同じ」
「知っている」
「じゃあさ、気にせず甘えればいいんだよ」
「うん」
美月はそれきり黙りこくった。
河川敷に降りる階段のところに蒼と瑠璃の姿を見つけた。
「みーちゃん、来てたよ」
「え、ええ――ええ」
考えてみるとキャリーカートがあって普通には降りられない。自転車が通れるように傾斜の場所もあるが、キャリーカートにはギリギリだ。慎重に2人で下ろしていると蒼が気がついて階段を上ってきた。
「従妹ちゃん、美月ちゃん。おはよう」
そしてキャリーカートをひょいと持ち上げた。
「下に持っていけばいい?」
「おはようございます」
「ありがとうございます。大瀧さん、連絡してあったの?」
雫は首を大きく横に振った。
「周囲の気配には敏感なんだ。クラスメイトにあまり見られたくない。臆病だからね。だから気がついたんだ」
蒼は爽やかな笑顔を2人に向けた。なるほど。少なくとも静流より外見はいい男だ。いやいや静流だってそんなに悪いわけではないが。つむぎと同い年だから学年が4つ上だ。美月は遙か遠い存在に感じるに違いない。そう考えると自分ってどうなんだろう、と悩まざるを得ない雫だった。
階段の下り終わり付近で美月が言う。
「るりりんさん、おはようございます」
「クリスタルさんだ~」
河川敷のベンチで待っていた瑠璃が顔を上げた。
「おはよう。従妹ちゃん。オパールちゃん」
「オパールはウチもだよ」
「でも、後からの方がインパクト強い気がするの。ごめんなさいね」
瑠璃が苦笑する。確かに自分より美月の方がオパールのキャラクターに合っている気がする。階段を下り、ベンチの脇に蒼がキャリーカートを立てかける。
「ううん。ウチ、オパールを卒業してつむぎちゃんの相方のキャラを希望しているから」
「うわ、それ、ぴったりだよ、ぴったり」
瑠璃はとっても嬉しそうで、ぴょんぴょん跳ねていた。
「従妹ちゃんたちならついこの前まで
「ウチは3年前までだな」
「――まだ見てます。今、見ている唯一のアニメです」
美月がそういうと瑠璃が彼女の手を取って大喜びした。
「我が同士よ! ギュウしてもいい?」
「え、遠慮します……」
美月はかなり動揺していた。恋敵の超級美少女相手に圧されまくっている。だが、それはもう仕方がないだろう。
「この大荷物は何?」
蒼が見当もつかないという様子で美月に聞いた。
「乾電池でも動くキーボードです」
「おおお~」
蒼と瑠璃は声を合わせて感嘆した。仲のいいことだ。美月はちらっと蒼を見て表情を窺っている。蒼を見ると恋する乙女の表情そのものだ。そして次に瑠璃を見て露骨に落胆する。
「いいなあ」
美月はぼそっと言ってしまう。
「え、何か言った?」
蒼が聞き返し、美月は真っ赤になってしまう。
「――なんでもないんです。大瀧さんから先週、ジブリを弾いてみんなで歌ったって聞いたので。自分もセッションにチャレンジしようと思って今週いっぱい練習したんです」
俯きながら、おそらく準備していたであろう台詞を美月は口にする。雫は心の中だけで頑張れみーちゃんと何度も言葉にした。
確か、一緒に温水プールに行ったときだったと思う。美月は男の子のことを好きだ嫌いだというのが分からないといっていた。なのに今、まだ1ヶ月しか経っていないのに、美月は恋する表情を浮かべている。不思議だと思う。後でゆっくり話せる機会があったら、お互いの心の内を話したいと雫は思う。
「念願のキーボードだ」
蒼は頬を緩ませるが、瑠璃は小さくため息をつく。
「でも、これから受験だからね。君にはしっかり勉強して貰わないとだからね」
「うん。分かってるけど、本格的にはできなくてもゲリラセッションなら……」
「涼しくなったらね。もうすぐ暑くなるから」
「でもどっかでやりたいなあ」
「人を集めなくてもよければいいんじゃない?」
「委員長がどういうかなあ」
委員長というのはつむぎのことだろう。
「というかオパールちゃんの意見も聞かないで気が早い。ねえ、オパールちゃん。早速聞かせてくれるかな」
瑠璃が美月にいうと美月はこくりと頷いた。ここまで話が進めば雫はもう外野だ。観客だ。少し離れるが、階段の降りる人の邪魔にならないようなところに腰をかける。
美月はカバーを外してキーボードを取り出し、一緒にくくっていたキーボードスタンドは蒼が組み立てる。そして荷物から譜面を取り出し、全てのセットを完了させた。椅子は持ってきていないのでベンチの前にセットした。
美月がキーボードの音出しをすると、蒼と瑠璃が驚いた顔をする。
「意外と音が出るね」
「河川敷が静かだからだと思いますよ」
蒼の感想に美月が照れながら答える。
「では、頑張ってみます」
そして美月はキーボードで指を踊らせる。曲は先週も歌った『風になる』だ。雫も好きな曲だ。思わず身体を揺らしてリズムをとってしまう。弾いている様子をうかがう蒼と瑠璃の表情は真剣だ。1回つまづいてしまったが、それでもなんとか美月は弾ききることができた。
「失敗しちゃった」
「僕より上手いよ。ギターはごまかせるからね。昔は相当練習していたんだね」
蒼に誉められて美月は照れ照れする。彼女のこの表情を雫が見るのは2回目だ。
「じゃあ、合わせてみようかな」
瑠璃は大きく深呼吸して、歌う準備をした。
「よし」
瑠璃の視線を感じて美月がもう1度『風になる』を弾き始める。そして歌詞の入り口で瑠璃が合わせ、メロディに歌詞が無事乗る。
すごい。
雫は瑠璃の発声を改めて聞き、目を見張った。瑠璃は毎日練習しているのだろう。素人のカラオケレベルからは想像できない声量と発声の確かさだ。
美月のキーボードのメロディと瑠璃の歌声が絡み合い、溶け合い、初夏の青空に向かって広がっていく。これが音楽の力だと雫は思う。先週、一緒に歌ったときの感動が蘇ってくる。
堤防の上の道を散歩している人たちが足を止め、見物を始める。何を見ているのかとロードバイクに乗っていた人たちまで自転車を止めて、またがったまま聞いている。
雫は振り返りながら、ジーンと背中に感動が走るのを感じた。
音楽はすごい。そして自分で演奏したり、歌ったりするのはもっとすごい。
音楽の力を感じながら、雫は美月と瑠璃の演奏に聴き入ったのだった。
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