第69話 つまみを作りに

 無事、ゆで野菜サラダの授業が終わったと羽海から静流に報告が来たのはコスプレイベントの週の木曜日だった。静流がリビングで本を読んでいる最中、スマホに古いアニメキャラのアイコンが出た。それで羽海だとすぐに分かった。


〔屋根の件も含めてお礼するから家呑みしようよ〕


 すぐに返事を返す。


〔僕は未成年ですってば〕


〔ノンアルコールビール買ってあげるからさ〕


〔薄給なのに大丈夫ですか〕


〔大丈夫。節約しているから〕


 それは本当だろう。


〔だからつまみ作って〕


 そんなことだろうと思った。材料費を考えたらよっぽどノンアルコールビールの方が安いに違いないと静流は身構える。


〔雫ちゃん、連れて行きますよ〕


 羽海からの返事は少し間が開いた。


〔もちろんいいよ〕


 羽海がどんなからかい方を考えていたのか分からないが、牽制は成功だ。アルコールの力でセクハラの度が増そうと、雫がいればブレーキがかかることは間違いない。なにせ雫は担当児童だ。目の前で悪いことはできないに違いない。


〔何を買っておけばいい?〕


〔今晩中にリスト作って送りますよ〕


〔わかった。楽しみにしているね〕


 ふむ。羽海の家に行くのも普通のことになった。このまま流される可能性もないわけではないが、羽海の方にその気があまりないのが助かる。自分がセクハラに耐えればいいだけなのだから。時間がかかるものは今から作っておこう。さあ、どうしようかな。


 雫は座卓で勉強をしており、静流は声をかける。


「雫ちゃん、明日の夕ご飯を羽海ちゃんの家で作ってあげることになった。一緒に来てくれない?」


「もちろん。楽しそうだね!」


「やだな、私は除け者?」


 カウンターで遅い夕食を取っていた澪が口をへの字にする。


「間に合ったら来てくださいよ。澪さんの分もつまみを作れれば効率がいい」


「え、あの娘と呑むの? 7時とか8時くらいでもいい?」


「いいんじゃないですか。羽海ちゃんが出来上がっていなければいいと思いますが」


「なるべく仕事を早く片付けていくよ」


「ウチ、土曜日の朝早いから、せめて開始は7時だよ、お母さん」


「頑張ります」


 羽海と2人きりよりは澪と雫がいた方がいいに決まっている。不意打ちのキスを貰うこともないだろう。嬉しかったが、雫への罪悪感がある。


「澪さんは自分で飲むアルコールは持ち込んでくださいね」


「それくらい分かってる。若い女の子の1人暮らしなんて貧乏なんだから」


 澪が外で呑むのは久しぶりだろう。少なくとも静流が来てからは家呑みしかしていない。楽しみにしているように見える。


「羽海ちゃんがよくウチを連れていくのをOKしたね」


 雫が疑問符を頭の上に浮かべて静流の方を見た。


「そりゃ後ろめたいことなんてないだろうから」


「そうかな~」


 雫は静流の言葉を聞いても最後まで首をひねっていたのだった。




 翌日、なる早で大学から戻ってきて、静流は昨夜のうちに作っておいた料理を入れたタッパーと細々したものを持って雫を伴って羽海が住む借家に向かった。


「お外で食事、楽しいね」


「雫ちゃんは絡まれるのを覚悟しなよ」


「お酒を飲んだお母さんに絡まれるのは慣れてる」


 静流は思わず笑ってしまった。雫も受けが取れたことを嬉しく思ったらしく、笑った。


 羽海の借家の前庭はきれいになっていて、掃き出し窓が開けてあり、網戸になっていた。そして庭には蚊取り線香が2カ所に焚かれていた。そして小さなアウトドア用の折りたたみテーブルと100均で売っているような小さな折りたたみ椅子が4つ用意されていた。折りたたみテーブルの上にはLEDランタンも置かれている。


「外呑みのつもりですね」


「正解。いいでしょ?」


 網戸が開き、羽海の顔がのぞいた。サンダルを履いて外に出てくる。


「これ、うちでもできるね」


「今度真似よう」


「これを持っていくよ」


 どうやら羽海は来る気満々らしい。縁側に荷物を置き、タッパーを折りたたみテーブルの上に置く。


「なんか作ってきてくれたんだ?」


「豚の角煮とローストポークとです」


「それがメイン料理だね。いいね」


「澪さんが来るまで時間がまだあるので、ゆっくり準備していいですか」


「うん。自由にして」


「大瀧さん、いらっしゃい。さすがに那古屋さんと大坂さんには声をかけなかったか」


「時間が遅いし、明日もあるので」


「今晩は保護者つきだから安心だね」


「お母さんが酔いすぎなければね」


 雫は苦笑し、羽海も一緒に苦笑していた。おそらく自分を省みてのことだろう。まず静流は台所に行き、包丁を取り出す。


「100均の穴あき包丁だよ。もう切れないからそろそろ買い換えようかと思ってる」


 羽海は静流の手もとをのぞき込む。


「だろうと思いまして、砥石を持ってきました。これも100均です」


 砥石はもう朝のうちから水に漬けておいた。砥石を使うには水分を含ませておく必要があるが、着いてから漬けたのではすぐに研げないからだ。静流は砥石をぬらしながら、コイン1枚が入るくらいの角度で砥石を当て、ゆっくり片刃をつけていく。その脇で雫が冷蔵庫から生野菜を取り出し、洗って、外に持っていく。


「包丁研ぎ器あるよ」


「あるなら使えばいいじゃないですか」


 とは言っても研いだ方が切れるし、刃も傷めない。そもそも包丁研ぎ器と砥石では切れるようになる原理が異なる。


「だって買い換えた方が早いし」


「ずぼらな。SDGsじゃないです」


 予想通りの羽海の答えを聞いた後は、集中して刃と砥石の角度を維持しながら頑張る。包丁研ぎは最近会得したばかりの新スキルだ。経験を積んでスキルを磨く必要がある。


「静流~~盛り付け終わったぞ」


 雫に頼んだのはレタスをお皿に敷いて、プチトマトを散らし、ローストポークを飾り付けることだ。


「羽海ちゃん、確認を」


「わかった」


 少しして庭から声がした。


「大瀧さん、美味く盛り付けできてる」


「ゆで野菜サラダの経験が生きた。どれだけきれいに盛り付けできるか競争したから」


「先生、とっても嬉しい!」


 とてもいい会話が聞こえてきた。自分の前でもあんな先生の姿を維持していたら静流も困らないのだが。


 100均の穴あき包丁はステンレス製なので研ぐのに時間が掛かる。これは表面が滑りやすいので砥石の凹凸に強いためだ。しかし錆びないし(正確には酸化した皮膜があるので錆びていないように見えるだけなのだが)粘り強いので凍ったものを切ろうとしなければ原理的には切れ味が長続きする。はずだ。


 盛り付けが終わると今度は雫はクラッカーのチーズのせを作り始める。先週、河川敷に持っていった残りのクラッカーをつまみにアレンジしたものだ。ドライフルーツ抜き、塩こしょうのナッツ、そしてチーズ。それを混ぜて載せ、皿に置いていく。


「おつまみ作っているの大瀧さんじゃないの」


 羽海は理不尽にも不平を言い始める。


「家主がもてなさないからです」


「しゅん……」


 静流に怒られて羽海はしょげたポーズをとる。


「羽海ちゃん先生には日頃お世話になっているから座っていていいんだよ」


「持つべきはよい受け持ち児童だな!」


 すぐに復活するから強い。


 20分ほど包丁を研ぎ、光に当てて刃を確認し、もってきたナスでも切れ味を確認する。すっと刃が入り、包丁が動く。時間がなかった割にはまあまあの研ぎ具合だ。包丁でナスをさくさく切り、羽海にあらかじめ買って貰ったししとうのへたをとって一緒にレンジで加熱し、その間にフライパンでラードを使って豚肉を炒め、レンジ加熱が終わったナスとししとうを混ぜてしょう油と砂糖で味付け。つまみだから味付けは濃いめ。ちょっとだけ豆板醤。豚肉の脂の匂いとしょう油の焦げた匂いが最凶だ。これを皿に盛り付け、とりあえず完成だ。


「きちんと僕も作りましたよ」


 静流は皿を庭に持っていく。Bluetoothスピーカーで古い50、60年代の洋楽を流していた。蚊取り線香の香りが、夏を予感させる。


「豪華だ」


 雫が声を上げる。折りたたみテーブルの上に所狭しと摘まみが並んでいる。クラッカーチーズのせ、ローストポークサラダ、豚の角煮、豚のナス炒め。


「豚づくしだ」


 気がついた雫は笑う。偶然だ。静流は何も考えていなかった。


「おお、ここかい」


 初めて来る澪だが、道には迷わなかったらしい。ちょうど7時だ。もう真っ暗で、明かりは掃き出し窓から漏れる室内灯とテーブルの上のLEDライトの明かりだ。


「お母さん、遅い!」


「時間ちょうどだよ」


 そして澪は折りたたみ椅子に腰をかける。


「美味しそう」


「いらっしゃい、大瀧さん」


「みんな大瀧さんだよ」


 雫が言う。この前もあったようなやりとりだ。


「じゃあ、澪さん、はい、どうぞ」


「ありがと。じゃ、静流くん、冷蔵庫にこれ」


 澪が、買ってきた冷えたアルコールの缶が入った袋を静流に手渡す。静流は無言で台所の冷蔵庫までそれを持っていき、収める。


「かんぱーい」


 大人2人の声が庭の方から聞こえ、雫が台所まで来た。


「ひどいよお母さんたち。勝手に自分たちだけで始めちゃった」


「仕方ないよ。ストレスがたまっているんじゃないかな」


 静流は冷蔵庫からノンアルコールビールを取り出し、雫にはノンアルコールカクテルを手渡す。


「ウチ、飲んでいいの?」


「違法ではない。興味を持つからダメみたいな風潮があるけど逆にノンアルコールの普及でアルコール飲んでいた大人で、ノンアルコールに切り替えてアルコールを飲まなくなる層も一定数いる。結局、自分次第だよね」


「じゃ、今日は1本だけ」


 雫と静流はプルタブを開けて缶を合わせる。


「乾杯」


「かんぱい」


 雫はノンアルコールカクテルを飲んで一言。


「ただの炭酸飲料じゃん」


「ノンアルコールカクテルならそうだね。ノンアルコールビールの方はビールの味がするらしい」


 ふふふ、と雫は笑い、静流と一緒に庭に出る。


「近所の手前、そんなに騒がないでね」


 羽海に注意を促され、静流と雫は頷く。


 折りたたみテーブルでは結局、4人分の取り皿を置く場所がないため、雫と静流は縁側で食べることになる。静かに音楽を聞きながら、夜風に吹かれながら食べるのは普段できないことだ。特別なイベントになった気がした。


「どう? 担任を持つって大変なことなんでしょう?」


「2年目で担任なんてもう、学校が回っていない証拠ですよ。他の学校じゃ副校長先生が授業するくらいですから――」


「そうなんだ――でもね――」


 澪と羽海は社会人の会話をしている。お酒が入ると本音が出やすいと言うが、澪は社会人の先輩らしいことを言ってあげたいらしい。羽海は羽海で、学校の愚痴も出る。


「雫ちゃんは聞かなかったことにするんだよ」


「分かってるよ。そこまで子どもじゃない」


 雫は子ども扱いしてと言わんばかりだ。先日直した透明波板の下だから夜空は見えないが、雰囲気だけは分かる。


「角煮美味しい! 家でも作ってくれればいいのに」


 澪からお誉めの言葉をいただく。 


「粗熱とって一晩冷蔵庫に入れれば脂が固まってラードにできるので割と楽に出来ることも今回気づきましたので、やりますよ」


「ラードはどうしたの?」


「炒め物に使ってますよ。残りはごく近日中にチャーハンにでも使います」


「いいね」


 雫が隣で頷く。


 ノンアルコールビールは美味しいものではないが慣れれば行けるのかもしれない。油物でもさっぱりしてまた食べられるようになる気がする。


「炭水化物が少ないね」


「今日はおつまみメインで、ご飯じゃないから。クラッカー食べてね」


「これはこれでいいけどね」


 甘辛い料理がメインなので食が進んだ。結局、ご近所迷惑にならないように8時前には家の中に撤収して、飲酒可能な2人は呑みを続行した。キュウリの梅和えを作り、豚の生姜焼きも追加で作った。


 9時には帰ろうと思っていたので、澪に声をかけたが、もう少し呑んでいくとのことだった。羽海との話が弾んでいるようだ。自分の話題を酒のつまみにして呑みたいのが見え見えだが、気がつかないふりをして、静流は雫を連れて家に帰る。そして普通に入浴し、歯を磨いて就寝した。


 しかし翌日の早朝、静流が目を覚ますと同じ毛布の中に久しぶりに雫がいることに気づき、大いに慌てた。


 そっと起き出し、玄関を確認すると、不幸中の幸い、澪の靴はなかった。また、澪の部屋の扉が開いており、のぞき込むと無人だと分かった。どうやら澪は羽海の家で寝落ちしてそのまま泊まったのだと思われた。途中で目が覚めた雫は、これはいい機会だとばかりに自分の毛布に潜り込んだに違いない。


 自分の部屋に戻り、静流は雫の寝顔を見る。


 人の気も知らないで――とかわいい寝顔が憎らしくなる。ロリコンだのなんだの言う前にもう雫を1人の女の子として見ている自分がいる。日頃、本人がいっているように自分が悪戯してもむしろウェルカムだと雫は喜ぶだろう。しかし良識ある大人としてそれは許されない。


 ガマンしよう、ガマンを。


 結局1人で羽海の家に行くのと忍耐力の消費ポイントはそう変わらなかった。静流は雫の部屋に行き、ロフトベッドの上に登り、雫の匂いがする毛布に包まれながら、2度寝したのだった。

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