第61話 さくらの悩みごと 1

 さくらの様子がおかしくなったのは水曜日の夜の空手教室のときだったらしい。その夜、さくらは雫と美月に連絡をよこしたのだ。


〔あたし、もう空手やめるかもしんない〕


〔いったいどうしたんていうんですか!?〕


〔高村にリベンジするんじゃなかったのか?〕


〔はっ! 高村、重要だ。確かにそうだ。リベンジは重要だ〕


 そしてすぐに続けた。


〔寝る〕


 通り魔的な投稿に、雫は困惑したし、美月は大心配したが、夜も遅いし、明日の朝に確認しようということになった。


 さくらは朝早く来る方なので、雫と美月は申し合わせて朝早く教室にいった。朝、教室に入る前に花壇の土の乾き具合をチェックするのが日課になっていた雫だが、今日は申し合わせた時間が同じだから、美月と出くわした。


「みんな元気ですね」


「安心したよ」


 苗を植えてから2週間あまり。桃の木もあじさいも根付いている様子で、わすれな草に至っては勢いよく葉を広げ、青い小さな花をいっぱいつけている。今日はまだ水をあげるほど乾いていなかったので、2人はそのまま教室に向かった。


 いつもの時間に、いつも通りさくらは教室の窓際の席に座っていた。しかもぼーっとして、頬杖をついて外を見ていた。


「なにが起きたんでしょう」


「わからんが、空手センパイのことかな」


 空手センパイとはこの前、謝りに来た榊のあだ名である。


「それにしては時間が経たなさすぎですが」


「うん。まあ、後であたってみよう。おはよう、さくらちゃん!」


「おはよう、大坂さん」


「おお、雫と美月か。おはよう」


 1度、2人の方を見たがさくらは心ここあらずで、また校庭に目を向けた。


「重症だ」


「重症ですね」


「別になんてことはないよ。昨日、榊に組み手で負けたんだ」


 さくらは弱々しく微笑んだ。


「でも6年生に負けても……」


「そうだよ。さくらちゃんは女の子の上に5年生なんだからさ」


 美月と雫はさくらを励ますが、糠に釘という様子だ。確かに榊案件だったが、別に恋バナではなかったようだ。


「榊はあたしより1年遅れて入門して、今まで組み手で引き分けたことはあっても負けたことはなかったんだ。空手で負けたのか、もう男と女の差なのかなって」


「深刻だ」


「すごい深刻ですね、それは」


 男の子と同じ競技をしたことがない雫にとっては、慰めるにも限界がある類いの悩みだ。だが、高村というあの空手大会でさくらを負かした選手の名前を出したのは効果があったようだ。


「――高村だったら男に負けないんだろうなあ」


 はあ、と大きなため息をつくさくらだった。


「方法は2つあります」


 美月が指を2本立てた。


「1つは空手センパイにリベンジすることです」


「いや、昨日だって3回やって2回は勝っているよ。まだまだ負け越す感じじゃないね」


「ああ、じゃあ本当に負けたのがショックだったんだ」


 さくらは頷いた。


「追いつかれたのとやっぱ男と女の差だよなあってのが……」


「だからもう1つあるって言ったじゃないですか」


「うん、聞くよ」


「高村さんに会いに行って、勝負を挑む」


 さくらの目が点になった。


「なんだって?」


「男の子に負けるようになるのはそれはもう仕方がないことです。空手センパイもさぞかし嬉しかったことでしょう。これを機会に押し寄せてくるかもしれませんが」


「押し寄せてくるって何が?」


 さくらは本当に分からないという顔をする。雫は思わずニヤニヤしてしまい、美月もニヤニヤし始め、2人で変な顔になる。


「まあ、それはおいていて、高村さんってどこの道場の方なんですか?」


「実はとても近い。隣の駅前の空手道場」


「会いに行こう! 会えば本来の気持ちを思い出す」


 雫も賛成の気分だ。


「本来の気持ち――そうだな。そうだった。あたし、高村に勝って、優勝したいんだった。男子に判定で負けたくらいどうってことない」


 ああ、しかも判定なのね、と雫は心の中で思う。なるほど、空手センパイがさくらのローキックを受けるわけだ。別に甘んじて受けていたのではないらしい。


「がんばれさくらちゃん」


「がんばって!」


 そう雫と美月がいったところで予鈴が鳴った。


「じゃあ、今日も勉強頑張るか」


 雫は羽海ちゃん先生が来る前に自分の席に着いた。




 とはいえ、本当にそんなことでさくらが元気を取り戻すのか謎であった。なので、雫と美月は業間休みに、上の階の6年生のエリアへと向かった。上の階に行くだけで多くの視線を感じる。そのほとんどが男子だ。


「5年生の女子がそんなに珍しいのかしら」


「まあ、あんまり他の学年のところにはいかないからな」


 雫は空手センパイの組を覚えていたので、その前まで行ってみたら、何故か男の子たちがクラスの外まで雫たちを見に来る有様だった。


「何が起きているんだ?」


「さあ。分かりませんね」


 そしてその教室から榊が出てきて、目を丸くした。


「さくらの友達1号2号!」


「どっちが1号でどっちが2号かは聞きません」


「愛人じゃないんだから」


「仮面ライダーかもしれませんよ」


 いずれにせよ女子小学生の台詞ではないなと雫は思いつつ、榊に目を向ける。


「なんだ。オレに用かよ?」


「ウチらのさくらちゃんを負かした空手センパイに用です」


「空手センパイ? オレのこと?」


「私たちはあなた以外に空手をやっている6年生を知りません。なので通称、空手センパイと定めさせていただきました」


 後ろからは、知っているのか? 俺に紹介しろよ、などという男子の野次馬たちが現れ、雫もさくらばりにそいつらにローキックを噛ましたくなる。


 榊が言った。


「もう時間がない。早く要件を言ってくれ」


「さくらちゃんに勝って鼻高々なんじゃないのかと確認に来た」


 雫の言葉を聞いて、空手センパイは唖然とした。


「多分、オレ、余裕で200回は負けてるぞ。初めて1回判定とって喜んだけど、それはもう体格差が出始めているからで、そんな鼻高々になったようなことを面に出していたつもりはないぞ!」


「みーちゃん、有罪ギルティ? 無罪ノットギルティ?」


「ノットギルティにしてあげましょう。大瀧さん、では行きましょうか」


「うん。あ、いや、空手センパイはさくらちゃんをこの前の大会で負かした高村さんの道場の場所知ってる? 連絡を取りたいんだけど」


 雫はダメ元で聞いてみたのだが、意外にも榊からは有意義な情報が返ってきた。


「道場は隣駅のすぐ目の前だよ。行けば看板があるから分かる。連絡先は本人は知らないが、弟の連絡先なら知っている奴がいるかもしれん」


「もし分かったら、よろしくお願いします」


 雫は丁寧にお辞儀をして榊の前から去った。美月もなんとなく頭を下げてから、雫の後を追った。


「大瀧さんはどうして空手センパイが高村さんの連絡先を知っていると思ったんです?」


「高村さんほどかわいければ、空手道場の男子ががっつかないはずがない」


「なるほど。合理的な推理ですね。空手という共通点があれば確かにありえなくもない」


「実際は弟経由というのがいいよね」


「そんなに女の子とお知り合いになりたいのかな?」


「わからん。ビビッとくることがなければそうなるんだろう」


「ほほう。大瀧さんは静流さんにビビッときたんですね」


「もうちょっとそれっぽく言うと、ビビッと、より、ジーン、かな。マンガである雷に打たれたみたいな描写って本当にあるんだよ」


 雫はあの夏を思い出す。


「大瀧さんにのろけられた~」


「ごめんごめん」


 2人が教室に戻ってくるとさくらは半泣きだった。


「あたしを置いてどこに行っていたんだよ~」


「空手センパイのとこ」


 そう聞くとさくらは顔色を変えた。


「え、お前たちだけで? ダメだよ、そんなことしちゃ。どんだけ6年生の教室で目立ってきたんだ?!」


「はあ。そうなんですか。でも、高村さんと連絡とれそうですよ」


 美月の言葉にさくらは驚く。


「行動力すごいな。いや、落ち込んでいる場合じゃなかったな――感謝」


 さくらは美月と雫をいっぺんに抱きしめる。


「えへへ」


「行った甲斐がありましたね!」


 雫はシンプルに嬉しい。そして放課後になると榊が教室までやってきて、連絡先ではないが弟の居場所を教えてくれた。普段、図書館におり、本人そっくりだから分かるはずだと言うことだった。


「多謝でございます」


「右に同じでございます」


 雫と美月は丁寧に礼をしたが、さくらは榊にそっぽを向く。まだ昨日の負けが許せないのだろう。もちろん彼ではなく、自分を。


「お前、道場、ちゃんと来いよな」


「分かってる!」


 さくらは榊に強い語調で答えたが、それを聞いた榊は嬉しそうだった。


「じゃあ、待っているからな」


 そういって榊は去って行ったが、さくらは身震いしていた。


「おお、気持ちが悪い」


「なして?」


 雫が聞くとさくらは即答した。


「ただの悪ガキだったのに別人みたいだ」


「ああ、師範代のお灸が効いているんですね」


 美月はこの前、空手道場に行った自分たちを空手少年たちがナンパして、師範代に怒られた事件を思い返しているのだろう。雫は自分の感想を述べる。


「でも、変わるきっかけなんて人それぞれでは?」


「どういうこと?」


 そう聞くさくらに雫は少し考えてから答えた。


「静流を好きになる前は、静流に対して、ウチってたぶん、ただのガキだったから」


「なるほど。でもまさか榊があたしのことを好きだとかいう訳じゃないよな」


「それは違うけど意識はしているでしょうね。私の恋敵は多いなあ」


 美月は肩をすくめる。


「それはみーちゃんがウチら2人を好きだから単純に倍なのでは?」


「そう。気が多いから苦労するの~」


 笑う美月を見て、さくらは表情を緩めた。


「そうだな。あたしがモテるってだけのこととしよう」


 そしてさくらは笑い、雫は2人と図書館に集合することにして、下校したのだった。

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