第4話 澪の帰宅


 雫の母親、澪が帰宅したのは午後7時過ぎだった。


 雫が事前に帰宅時間の連絡を受けていたので、静流はその時間にあわせてコンベンションオーブンで干物を焼き上げ、雫は新タマネギの味噌汁を完成させた。


 今は疲れたビジネスウーマンを絵に描いたような澪だが、雫が美少女なのは母親譲りだと分かる切れ長の目の美形だ。スタイルも抜群で、スーツのウエストもきゅっとしまっていて細すぎるほど細いのが分かるし脚も長い。まだ30代半ばで、再婚の当ても数多あるだろうに独身のままだ。静流からは20代にしか見えないので、かなり若く見える方だと静流は思う。


「美味しそうな匂いだなあ」


 澪がリビングに入ったタイミングで雫が鍋を持ってきてお椀に味噌汁を注ぎ、静流が炊飯器からご飯をよそう。


「静流くん、いらっしゃい」


「澪さん、これからお世話になります」


 静流は雫の父方なので、澪との血縁関係はない。


「これからは家族だね。よろしくね」


 耳元で澪はささやくようにいい、静流はドキリとさせられる。


 制汗剤と女性特有のいい匂いがした。


 澪は3人分が配膳された座卓を眺めて目を細め、座椅子に腰をかける。続けて雫が座り、最後に静流が座った。手を合わせていただきますをした後、澪はジャズ風の音楽をBluetoothスピーカーから流し始める。


「干物、美味しいねえ」


 箸をつけるなり、澪が言った。


「何よりです。お仕事どうですか」


「広告とるのも大変だし、制作も大変だよ。人手があればいいんだろうけどそうすると赤字だ。でも、今日は早く帰れたからね」


 澪は笑顔になり、席を立って冷蔵庫から缶ビールを取り出し、開ける。


「干物にビールが合うこと!」


 澪はだいぶお疲れのようである。


「雫は静流くんに迷惑をかけないようにするんだよ」


「分かってる」


「どうだろ? テンション上がっていたんじゃないの?」


 澪はニヤリと笑って自分の娘をからかうような目で見る。


「それは……上がるよ」


「お、認めた。私の娘だけ合って猪突猛進なところがあるから、静流くんには苦労掛けるけど、勉強を含めてよろしくね」


 そして澪は缶ビールを飲み干し、干物をきれいに食べ終わる。


「それはもちろん」


「静流くんが来てくれたお陰で、雫の学費が貯められるし、塾代も節約できるし、大助かりだよ」


 静流は大きく頷いた。


 夕食を終えると静流が最初に入浴する。それは澪とよく考えた上で決めたことで、1番事故が起きにくいだろうから、という理由からだ。洗濯槽には洗濯ネットが幾つか入っていたが、昨日洗えなかったのか、洗濯ネットの中に下着類が入っているのが見えて、静流は慌てて目をそらした。しかしこれから洗濯物を干す上でもう避けられないことだと腹をくくった。澪も雫も世間一般の基準からいっても美人と美少女だが、家族だと考えてもう煩悩を消していくしかない。


 風呂場には去年の夏に理科の授業で作ったヘチマタワシが乾くようにぶら下がっていて、雫が今も使っているのがわかり、静流はほっこりした。静流が入浴を終えると、次に夕食の後片付けを終えた雫が洗面所に来る。


「ウチと一緒にお風呂に入る日が来るかもよ」


「なんて逮捕案件を口にするんだ!」


「じょーだん、冗談だよ」


 そして静流は洗面所を後にして扉を閉めた。


 リビングの座卓には澪がいたが、もう部屋着に着替え終えていた。ポニーテールにしていた長い髪を今は下ろしている。座卓の上には缶ビールの空き缶が3本ほどあり、4本目を飲んでいるところだ。食事中の1本を足すと5本目ということになる。つまみは乾き物だけだ。


「自分の家なんだからくつろいでね」


「はい」


「話があるんだけど、座ってくれる?」


 アルコールが入っているというのに、澪は随分、神妙な顔をしていた。


「はい……」


 静流は座卓越しに澪の正面に座る。


「雫がお風呂に入っている間にお話しておこうと思います。雫が静流くんのこと、大好きで、大好きで、大好きなのは知っているよね?」


「はい……」


 あれほど好意が露骨なら誰であろうと分からないはずがない。正月に館山に来たときにはもう、雫は静流にべったりだったのだから。


「私はこの年でおばあちゃんにはなりたくありませんから、そこは十分、気をつけてください。いつ生理がくるか分からない状態ですし、同意があっても、ダメです。もちろん、雫に襲われても絶対に拒否してください」


 澪は超絶真面目な物言いをする。


「もちろんです。まだ10才ですよ」


「雫は私の娘らしく、可愛いし、頭もいいし、気立てもいいし、正直、男の子のある種の理想が詰まったような娘に育てました。しかし、その危険さもよく知っています。静流くんは心変わりするだろうくらいしか考えていないと思いますが、まず、それはないです。静流くんが裏切らない限り、結婚まで一直線は続きます。私がそうだったので分かります」


 そして澪は位牌と遺影の方に目を向けた。


「――なーんで、颯介そうすけさん、コロッと死んじゃうかなぁ……」


 それはとても寂しそうなまなざしで、静流は胸が痛む。


「でも静流くんもお年頃の男の子ですから、我慢できなくなることもあるでしょう」


「我慢します。たとえ布団に潜り込まれても、中学2年生になっても」


 静流は拳を握り固める。雫が中2の年までは同居が続く予定だ。


「もし、万が一、我慢できなくなりそうだったら、私に相談してください」


「はい」


「そのときは私が射精管理をします。その覚悟で私は静流くんを受け入れました」


「は、はい?」


 思ってもみない言葉が澪の口から飛び出して、静流の心臓がバクバクし始めた。


「私みたいなおばさんじゃイヤかもしれないけど」


「――い、いえ、澪さんは今でも変わらず美人ですよ。ただ、思ってもみないことで……なんていえばいいのか」


 そう静流が答えると澪は微笑んだ。


「ありがとう。そう言ってくれて。くれぐれも雫には迫られても手を出さないでね」


「もちろんです」


「それでも切羽詰まるようだったら私が静流くんの童貞を貰うからね」


 そう言う澪の表情は艶めいている。少なくとも母親の顔ではない。


 爆弾発言もいいところだが、静流はそれを願ってもないことだと心を躍らせてしまう。澪ほどの美人に初体験を貰ってもらえたらどれほどいいことだろう。だが、そうしてしまったら、それがすさまじい勢いで煩悩と肉欲として膨れ上がることも容易に理解できる。おそらく年上の澪の身体に溺れてしまうだろう。しかし将来的に本当に雫と結婚することが起こりうることを考えればあってはならないことだ。親子丼になってしまう。なんということを言ってくれるんだと静流は脳内だけで頭を抱えた。


「澪さん、酔ってますね」


「ちょっとね……回ったかな。でも、私の思っている本当のところを伝えたつもり」


「雫ちゃんのお母さんだけあって、基本、攻撃がストレートパンチですね」


「はは、ストレートパンチか」


「ものすごく効きましたよ――」


 澪の台詞だけで反応してしまっている自分がいるのだが、それを口に出すと澪も調子に乗るに違いないので言葉にしない。


「嬉しいな。気楽に相談してね」


 そういって首を傾げる澪はかわいい。自分より15も年上だが、十二分にかわいいと、静流は心臓を鷲づかみされる。この母子にはやられてばっかりだ。


「お風呂出たよ~」


 バスタオルを頭から被った雫がリビングに来て、静流は胸をなで下ろす。これで変な雰囲気にならずに済んだ。部屋着に着替えると、雫は手足の細さと筋肉のつきの良さという矛盾するような体つきだとわかり、かわいいとかなんとか思う前に、昨年の夏に見た水着姿と比べて、この年頃の子はたったの数ヶ月で随分成長するものだと感心した。


「お母さん、飲み過ぎ」


「今日は静流くんの歓迎会だから」


「1人で飲んでいるだけじゃん」


 いやいや、ものすごい歓迎を受けたよ、と心の中だけで静流は言葉にする。澪の方も言葉にするのにアルコールの力を借りる必要があったのだろう。


「静流くん、明日の予定はあるの?」


 澪はさっきの台詞はどこにいったのか、年長者らしい言葉遣いに戻った。


「荷物の整理とこの辺の探索ですね。クロスバイクを持ってきたのでぶらつこうかと」


「それはいいね。雫は?」


「明日も半日授業だよ」


「そう。じゃあ、仲良く静流くんとお昼ご飯を食べてね」


 雫は大きく頷いた。それほどアルコールが回っていなかったのか、澪はしっかりとした足取りで立ち上がり、洗面所に向かった。


「お母さんと何を話していたの?」


 雫も澪の振る舞いが気になったようだ。


「雫ちゃんとお母さんは性格が似てるって話し」


 嘘ではない。むしろ本質はそういうことだと静流は思う。


 雫は納得したようなしていないような表情を浮かべたあと、ドライヤーを使い始めた。


「おやすみ」


 静流はドライヤーが止まったタイミングで雫に声をかけた。


「おやすみぃ!」


 雫の元気な声が返ってきた。


 静流は自分の部屋に戻って布団の上に横になるとすぐに寝入ってしまった。


 そして外が明るくなって、静流は目を覚ました。しかしやけに布団の中が温かいことに気づき、まさかと思って横を見ると、案の定、雫の寝顔があった。すぐ近くに彼女の頭があったので、いい匂いがまだ彼の鼻先に漂っていた。


 静流は声にならない叫びを上げ、ぐっと抑えて、彼女の耳元で、小さな声で言った。


「雫ちゃん、起きて」


 1度では起きず、2度3度と声をかけて雫はやっと瞼を開けた。


「うーん、静流、なんでここにいるの」


「こっちが聞きたいよ」


「ここ、館山? ウチだよね――あ、そうか。静流、昨日からウチにいるんだったね」


「だからどうして僕の部屋で寝てるの?」


「そうだ。トイレに起きた後、潜り込んだんだった」


「そういうのダメだって言ったよね」


「だって館山じゃ一緒に寝ることもあったじゃん」


「もうダメなの。雫ちゃんは女の子なんだから」


「ウチ、温かかったでしょ? よく眠れたでしょ?」


 雫は小さく舌を出してから起き上がり、スリッパを履いた。


「心臓に悪いから勘弁して欲しい」


 母子してこれでは先が思いやられる。


 澪が起きないよう、雫は部屋を静かに出て行き、静流はようやく安堵する。しかしそれも一瞬のことだった。もし自分の理性の糸が切れてしまったら一体どうなるのだろう。我慢できなかったら射精管理、という澪の言葉が刹那の間で思い出される。


 前門の虎、後門の狼とはまさにこのことか。


 静流はもだえ苦しみ、煩悩退散、煩悩退散と念じるのだった。

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