第2話 静流の事情

 駅から雫が住むマンションまで歩いて13分ほどだ。


 1階で小さな前庭がついており、2人は庭側から入ってクロスバイクを隣との仕切りフェンスに立てかけてから正面に戻ってマンションに入る。雫の家は3LDKだが、彼女の母のみおとの2人暮らしなので、物置になっていた部屋を片付けて静流が住むことになっている。


 玄関を開けるとオレンジ色のランドセルが投げ出されたままで、静流はまた苦笑する。荷物は既に彼の部屋に置かれているが、巨大な段ボール1箱だけなのは静流が荷物を絞ったのと、またGWにでも持ってくればいいと考えたからだ。静流は手荷物を部屋に置いたあと、リビングの位牌に手を合わせ、焼香する。


「叔父さん、これから4年間お世話になります」


 後ろで雫も父親の位牌に手を合わせる。


「お父さんのお陰でローンもなくつつがなく暮らせております」


「どこでそんな言葉を覚えたんだ」


 静流は呆れて雫を振り返るが、悪びれる素振りはない。彼女が2才のときに病没した父、静流の叔父の記憶はないようで、悲しいとか寂しいとかいう感情と結びついていないらしい。それでも、必要以上に雫が自分に懐いているのは父親が不在という家庭環境にあると静流は考えている。


「お母さんがお線香を上げるときにいつも言っている」


「澪さん……」


 静流と血のつながらない叔母と雫はさすがに母子だと思う。目に浮かぶようだ。


「ご飯食べようよ」


「うん。何を作ってあるんだい」


「昨日の肉じゃがの残り。サラダは今、作るね」


 雫はまず、肉じゃがの鍋をコンロに掛け、冷蔵庫を開け、レタスを千切り、新タマネギを刻み、軽く生姜を刻んでごま油をかけて塩こしょうしてあっと言う間に和風サラダを作ってしまう。和風サラダをリビングの座卓に置いたら、肉じゃがが温まったことを確認し、大皿に盛って、とりわけ用の大きなスプーンを添える。静流もとりわけ用の小皿くらいはとキッチンから持ってくる。炊飯器からご飯を盛って座卓に置くと、お昼ご飯が揃う。


 そして雫は座卓の上にあらかじめ置かれていた小さな細長い包みを手に取り、ぱしっと静流に差し出し、静流は手に取る。


「はい。無事家族になったお祝い」


 静流は雫が家族という言葉を使ったことに少し驚いた。が、落ち着いて考えてみると4年間一緒に暮らすいとこ同士だ。家族に違いない。


「ありがとう。何?」


「毎日使うもの。ウチとお揃いなんだよ。さあさ、開けて」


 静流が包みを開けると中から真新しいお箸が二膳でてきた。黒と赤で、漆塗りで少し蒔絵風の絵が描かれている落ち着いたものだ。 


「お箸だね。さっそく使おうか」


「洗うね。赤い方はウチのだから!」


 夫婦めおと箸か――と思い、静流は雫のはしゃぎっぷりに心底照れる。どうしてこんなに雫にどっぷり好かれているのか少しは見当がついているが確証はない。そのうち尋ねてみようと思う。


 真新しいお箸を2人手に取り、ちょっとだけ遅い昼食が始まる。肉じゃがと和風サラダをそれぞれとりわけ、静流は口にする。


「美味しい?」


「うん。好みだよ」


「えへへへ。静流がくるからつゆの素を使わなかったんだ~」


 雫の顔は緩みまくっている。彼女も食べ始める。食べ始めるというかがっつき始める。よほどお腹が減っていたのだろうかと思うが、実はそうではなく、静流が食べ終わる前に自分が食べ終えて、お皿を下げたかったようだった。自分の分だけでなく、食べ終えるやいなや静流のお皿も持っていく。


「自分でやるよ」


「いいの、今日は歓迎会だから!」


 ふふ、と静流は笑ってしまう。今日だけならばいいだろう。


「大学はまだまだ始まらないんだよね?」


 キッチンで洗い物をしながら雫が聞く。まだ身長が足りないのでお手伝いステップを使って洗い物をしている。食洗機じゃないんだな、と静流は気づく。


「うん。まだ1ヶ月くらいあるね」


「遊び放題だ!」


 静流もシンク前にきて雫と並ぶ。ステップに乗っている雫とはちょうど目の高さが同じくらいになる。


「そうだね。ここの図書館は大きいみたいだからとても楽しみだ」


 そう言い終えるやいなや眉をひそめた彼女の顔が静流の方を向いた。


「違う違う、ウチだってもうすぐ春休みだよ!」


「お母さんから勉強を見るよう言われているからね」


「えーっ!」


 雫は本気で不満顔だ。


 静流が雫の家庭教師をする約束になっていることは雫も知っている。母子家庭のこの家にとって静流の居候代は大きな収入になり、かつ家庭教師をすることで支出の減になる。静流の父の方もただ単にアパートを借りて息子を上京させるより遥かに有意義だとこの話をまとめたのだった。しかし小学生の女の子にとってはその事情は二の次だということもよく分かっている。


「まずは雫ちゃんがこの辺を案内してよ」


「もちろん!」


 一転して笑顔がこぼれる。雫は喜怒哀楽が激しい性格だ。静流も自分の頬が緩むのが分かる。


「雫ちゃんは本当にかわいいな」


 雫は黙って洗い物に集中する。


「どうしたの?」


「静流、本気で言ってないよね?」


「そんなことないよ。雫ちゃんはいつだってかわいい」


「違う! それって子どもの『かわいい』でしょ?」


「そうだよ。だって君はまだまだ子どもじゃないか」


「それはわかってる。だけど違うの。違うかわいいが欲しいの~!」


 静流はくすくす笑って彼女の耳元でささやく。


「そういうところがかわいいんだよ」


 そして雫は顔を真っ赤にして、洗う手を止めた。洗い物の水を切り、2人で拭いて食器棚に戻すとひと段落だ。2人で食後のお茶を座卓で飲むと落ち着いてしまう。


「静流は館山から電車で何時間かかったの?」


「3時間くらいかな。遠いよね。特急なくなったし。でも3時間で帰れると思えば近い田舎だね」


「ウチにとっても館山は田舎だし」


 館山在住の祖父母は健在で、毎年夏休みには雫は館山に預けられていた。静流と雫がお互いをよく知っているのも、そのときによく面倒を見させられていたからだ。


「今年も館山で夏を過ごしたいな」


「僕も帰るつもりだよ」


「やったああ!」


 雫は両腕を上げて喜ぶ。


「でも雫ちゃんはこっちの友達はいいの?」


「夏は暑いし外出なくてもネット環境があれば別にだらだら一緒に過ごせるし」


「それはそうだ」


「それよりなにより静流と一緒なのがいい」


「今日からここでも一緒だよ」


「ホント、そうなんだよね! 信じられない!」


 雫は勢い余って座卓をどんどんと叩く。


「僕は大学も始まるし、それなりに友達もできると思うけど、ちゃんと雫ちゃんのことを大切にするよ」


「だってウチ、静流のフィアンセだもんね! ね!」


「違うよ。『もし君が結婚できる年になっても僕のことを好きでいてくれたらお嫁さんに来てね』って言ったんだよ」


「ずっと好きでいるもん。同じことだよ!」


「誰も君の心の中を覗けないし、未来のことだから分からないよ。でもね一つだけ確かなことはね、雫ちゃん、他の人にこのことを絶対に言っちゃダメってこと」


「前にも言っていたよね。どうして?」


「僕が逮捕されてしまう」


「そっか。わかる。でも、お母さんにも?」


「澪さんに聞かれたら一番やっかいだよ。一緒に住めなくなるかも」


「それはヤダー!」


 雫は半泣きだ。


 静流は、雫がすぐに心変わりするに違いないと思っている。まだ彼女は10才だ。いろいろな出会いがある。年齢相応に同じような年頃の男の子と仲良くなって、きっと普通の初恋をする。自分は父親代わりの憧憬の対象にすぎないのだろうから。


「絶対、誰にも言わない」


 強い調子で雫は宣言する。


「そうだよ」


「静流は、大学ですごい美人に言い寄られたとしてもなびかないでくれるんだよね」


「君が僕のことを好きでいてくれる限りは」


 それは誠意だと思う。子ども相手だからと誠意を欠いていいわけがない。


「もし運命の出会いをしたら?」


「それはわからない」


 運命というなら、従兄として生まれただけで、ここまで彼女に好かれていることが既に運命的だと思う。だが、それは言わない静流だ 


「静流に運命の出会いなんかくるなー!」


 雫は静流の腕にしがみつき、目を思いっきり閉じた。


「好きな人ができたらちゃんと僕に言ってね」


「できっこない~!」


 そして目を開けて静流を見上げる。


「絶対、他に好きな人なんてできないから。ずっと静流が好きだから」


「はは。気長に期待しているよ」


 雫は、今は、小さな恋人だ。本人にすら、雫のことを恋人だと思っていると言っていないほどの、誰にも言えない恋人だ。10歳と18歳という2人の時間の流れの違い故に、必ず不安定になって壊れてしまう関係性に違いないと静流は考えている。しかし、ウチを信じてと言わんばかりに自分を見つめる幼い少女の瞳を、盲信したくすら思う。

 本当に彼女が大人になっても自分を好きでいてくれていて――それが何年後か分からないが――照れずに彼女にプロポーズできる日が来ればいいと心から願ったのだった。

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