7-4.灰色のイチゴ

          ●

 カイネが運ばれた大病院は年末で閑散としていて、白衣を着たスタッフや、点滴台を牽く入院着の患者がまばらにいるだけだった。

 その中で、二階の廊下を歩く僕の足取りは重い。一階まで下りなかったのは、二階の出口が利用駅に直通だから。

 カイネが目を覚ましたという報せを聞いて、居ても立ってもいられず駆けつけたものの、面会謝絶だった。当然といえば当然のこと。意識が戻ったからといって重体である事実に変わりなく、いまも処置のために全身麻酔で眠っているという。

 ……そうかもしれないとはわかっていたのだけど、実際にシャットアウトされると、思いのほか気落ちした。

 仮に話せると状態だったとしても、僕が会うのは当分難しいだろう。

 いまのところ、友人とは言えるかもしれない。でも恋人でもなければ家族でもない。生死の境にある時の優先順位が、過ごした日常より重いのは仕方がない。わかっていても、やるせない気持ちになる。

 さりとて帰る気にもなれず、総合受付があるエントランスホールを見下ろせる吹き抜けで、手すりに肘かけて項垂れる。

 どうするか。いつもなら冬休み中の課題が終わっている頃だけど、手を付ける気にすらならない。

 僕とカイネがまた会える頃には、取り巻く事態はどうなっているだろう。

 成り行き次第では、二度と会う事も出来ないのかもしれない。

 ……良くないな。希望の見えない事を考えると、どツボにハマる。それはもうやった。

「……ん……?」

 階下によく知る姿が見えた。遥空だ。一階の、入院フロアに繋がるエレベーターホールから出てきた。

 遥空も連絡を受けて急いで来たのだろう。で、僕と同じく追い返された、と。

 そのまま帰るか、待合の椅子あたりで状況が動くまで待つのだろうと思っていたら、まっすぐ受付に行って、事務員と何かを話していた。

 成り行きを見守っていると、遥空はエントランスの隅に設置されたグランドピアノに向かって行く。別段舞台が整えられているわけでもない、半ばオブジェとして扱われているストリートピアノ。

 遥空は鍵を一通り鳴らして調律を確かめると、呼吸を整えて、楽譜もなく鍵盤を弾き始めた。

 演奏は静かで、それでいて染み渡るように、エントランスに響いていく。

 文化祭で披露したキーボードとは、最初の一音からしてまるで違った。何の曲かは知らない。風璃に作り方を教えてもらおうとしていたオリジナル曲かもしれない。

 行き交う患者が、看護師が、医者が、事務員が、清掃員が、誰もが足を止め、振り向いた。

 エントランスには次々と人が集まり、二階にいる僕の周りも、一人のピアニストを吹き抜けから見下ろす人々で埋められていく。

 繊細で落ち着いていながら、内包された力強さが芯まで響く旋律。

 それは優しく励ますような、生きて欲しいと元気づけるような、当たり前にある命の鼓動に気付かせるような。

 音楽に造詣のない僕まで、その形のない美しさに感動を覚えてしまう。

『情感が乗ってる、っていうんですかね、ああいう感じ』

 カイネがそう評していたことを思い出して、こういう事なんだな、と染みる。

 音の質とか、奏でる技術とか、それはもちろん凄いのだけど、そんなものよりも、音を通じて伝わってくるものがあった。

 聴衆の中には、涙ぐむ患者さえいた。

 誰もが静かに聴き入っている。音に乗せた心を噛み締めるように。ここにはいない誰かにも、少しでも遠くに届けと願うように。

 届いて欲しい。

 死ぬ事を願って、いまは眠るカイネにも、届いて欲しいと。

 共に死ぬ事を約束した僕が、そんな事を祈るなんて皮肉だな。

 ……自分なりにカイネの願いを叶えようと、好きだと言ってくれた旋律を懸命に紡ぐ遥空を見て、羨ましく思う。

 一度は彼女のため弾くことに喜びを見出し、一度は彼女を失って弾くことをやめ自棄になり、そんな迷走の果てに、遥空は生き方を見つけた。

 僕が散々探して探してようやく見つけたのは、死に方なのに。それも現在進行系の迷走中で。

 演奏が終わり、天才ピアニストを称える拍手の渦の中、遥空とは違う出口から、僕は一人立ち去る。



          ●

 カイネのいなくなった家で、彼女の回復をひたすら願いながら過ごす。

 ぽっかり穴が空いたような感じは変わらないけど。とりあえず回復の見込みはあるらしい。いつになるかはわからない。その後どうなるのかも。それまで僕がどう生きるかも。

 年明けの時に叔父さんの所へ、顔見せ程度だけど挨拶しに行った。色々、迷惑かけたし。

 正月、カイネが買い置きしていたピースをなんとなく吸ってみたけど、やっぱりいまいちだ。

 そういえば、自分一人で吸ったことってないな。



 年越しから数日、遥空から電話がかかってきた。

『明日、朝から空けておいてくれ』

「明日は始業式だけど?」

『冬休みの課題、手伝ってくれ』

「明日が始業式だけど?」

『すまん、課題やってねえのはマジだけど、切り出し方わかんなくて、適当なノリで言った』

 電話越しにも、その声音や歯切れの悪さから、戸惑いが伝わってきた。

『……まず、その……あー、そうだ。悪かった。こないだ、殴っちまって』

「気にしないで。わかるから」

 行き場のない怒り。あんな程度の痛みでは足りないぐらい、その気持ちはわかる。

『それで、な。大晦日にあいつ、カイネの意識が戻って、少し話ができた』

 ……何故すぐに教えてくれなかったのか。

「本当?」

『ああ。けど、なんか、変なこと頼まれてさ』

「挟倉に、何を?」

『コインロッカーの鍵を渡されてよ。中にあるモノ使って押さえて欲しい場所がある、準備できたらそこにお前に行くよう伝えてくれ、って。鍵、刺された時にいたとこの、近くの駅のロッカーだった。んで、よ……』

 イブにいた所? あの日、カイネはずっと手荷物などなかったはずだし、ロッカーになど行っていない。

「……挟倉?」

『……ロッカー開けたらよ、あいつの鞄があって……中に、とんでもねえ量の、金が入ってた』

 そういう、ことか。あの日、現地集合と言って先に向かっていたのは、他人に見つかるとまずい金を隠すためだったのか。この間、少しの家探しとはいえ刑事が見つけられないはずだ。

 不要になるから処分するつもりだったのだろうが、今になって何をする気だ?

『なあ、あの金、なんなんだ? あいつのなのか?』

 遥空だって知らされているはずだ。香込家から不正資金が盗まれ、その疑いが誰にかかっているか。カイネという存在しない少女の、存在しない金である事を。

 信じられないのか、信じたくないのか。そして知る由もないのだろう。カイネとして死ぬための準備資金だというのは。

 ……何を考えているのかは知らないけれど、遥空を巻き込んでまでやろうとしている事に、水を差したくない。

「挟倉、何も言わないで、カイネに従って欲しい」

『けどよ……』

「それで貸しはチャラってことで」

『……っ』

 結構ひどい事を言っている自覚はある。

 知り合った頃の、僕にとっては偶然の何気ない事だけど、遥空にとっては人殺しになってしまう寸前で止めてもらった恩。

 遥空の中で、それがどれほど重大な借りなのか、よく知っている。

『…………わかったよ、何も訊かねえ。でも、いっこだけ、教えてくれ』

「ん?」

『あいつは……カイネは、大丈夫、だよな?』

 おかしなものだ。面会してきたのは遥空の方なのに。

「大丈夫だよ」

 カイネが何を考えていて、明日そこに何があるのだとしても。

 それがきっと嘘になることは、僕が一番知っている。

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