7-3.灰色のイチゴ

          ●

「色々手を回して頂いてありがとうございました」

『礼には及ばないよ。君には息子と、あの子も世話になっているからね。親として、守らなければいけないものを守っただけさ』

 静かな嵐のような時間が過ぎた後、挟倉教授にお礼の電話をかけた。直接感謝を伝えに行ってもいいぐらいなのだけど、ゆっくり休みなさい、と突っぱねられてしまった。

「よく令状を撤回させるなんて事、出来ましたね」

『賭けだったがね。不正資金の件は以前から追っていたようだけど、事態が急だったし、なるべく対応を急がなければいけない案件だ。ならば、どこかに綻びがあるかもしれないと思ったのさ。あの子が君といた経緯はでっち上げだが、ああいう形で役に立つとはな』

「あれが、怒り方、ってやつですか」

『そういう事だ。やはりうちの愚息と違って、君は覚えがいいな』

「……でも、よかったんですか? 不正資金の所在、そちらにも疑いがかかるんじゃ」

『むしろその方がいい。今回の事、イブの繁華街で刺され、犯人は自害という悲惨な事件だ。目撃者は多く、マスコミも取り上げるだろうし、大衆が認知する事になる。主な疑義があの子にかかっていようが、被害者でしかないあの子の身辺に捜査のメスを入れる事への、世間の反応は無視できないはずだ。そこに一度、証拠不十分という失態で令状を撤回した以上、再申請は慎重にならざるを得ない。不正資金の所在について確実な根拠がなければ発行できないぐらいだろう。今現在まったく見当がついていない状況で、だ』

 ……僕が腑抜けている間に、とんでもない仕掛けをしたものだな。

『あの子も、あの子の母親も、一度は面倒を見ていくと決めたんだ。それが今ではこんな事態になっている。あの子に理不尽な圧力がかかるなら、代わりに背負ってやるさ。仮にうちに家宅捜索が入っても何ら問題はない。ない物はないんだからな。野郎二人のむさ苦しい家、探したって出てくるのは、せいぜいエロ本ぐらいだろうさ』

「持ってるんですか?」

『いいや。遥空は知らんが』

「今時、紙の本で持ってる高校生なんかいませんよ」

『ハハ、そうか』

 しばし、沈黙が下りる。

『不正資金の件、あの子は…………いや、篠咲君は、知らないんだよな?』

「……ええ」

 少なくともいまの所在については、本当に。

『あの子を置いてくれていた事、本当に感謝している。ある程度の事は遥空に聞いた。だが、いまいち要領を得ないというか、事情をまだよく理解していないんだ』

「…………」

『……いや、今度にしよう。全て片付いて落ち着いたら、ゆっくり聞かせてくれ』

「……はい。気遣ってくれて、ありがとうございます」

 挟倉教授とは何度か面識がある程度だったけど、カイネが頼りたくないと言ったのを、こんなに実感するとは。ここまでされると、人として感謝と遠慮の気持ちが湧いてしまうし……その分、申し訳なくなるというか、僕達には不都合のある人だと感じる。

 電話中ずっと、すみません、という言葉を飲み込んでいた。



          ●

 電話を終えた後、台風が過ぎた後のような気分で、また呆然と過ごした。

 なまじ、自分も深く関わっているのに何も出来なかった虚脱感が、全身を蝕む。

 それでもなんとか、ろくに食事も摂っていないせいであまり回らない頭をフル稼働して、全容を把握しようを努める。

 僕の中で欠けていた、カイネという少女を形作るピースが、揃った。

 ……結果論だけど、イブにデートした事で、彼女につきまとっていた懸案事項が、まとめて一気に押し寄せてきた。

 不条理に命を狙う者、汚れた痕跡を追うイヌ、もしかしたら元凶と繋がっていたハイエナ達も警察と同じ物を追って、身を隠していた彼女を追っていたのかもしれない。

 カイネが何をしたというのだ。盗みを働いたにしても、それだって本来、家庭内の揉め事で済ませられるだろう。

 まるで呪いだ。香込会音という少女の。

 生まれた時から周りの人間の業に飲み込まれ、与えられる以上のものを奪われて。

 せめて僕が、カイネの欲しいものをたったひとつでも、あげられたらいいのに。

 いまや、それも叶わない。

「…………ぐ……ぅっ」

 両親がいなくなった時は、悲しささえなかったのに。

 きっと僕は冷徹なのだろうし、生まれた時からある恵みに興味がなかったのだろう。

 でもカイネは違う。生きるという苦しみの中で見つけた、歩みを共にできる、特別な存在。

 そして、似ているようで、正反対……そう言ったのは、彼女だったか。

 それがこんな、理不尽な形で。

 いま彼女がどうなっているのか、連絡はない。

 挟倉教授との電話の中でも、彼女の事は触れなかった。

 伝えるべきではない状態だから――なのか?

 生き延びてくれるかもしれない希望が、死んでしまうかもしれない絶望を引き立てる。

 あの日ホテルを拒んだカイネの不安は、これに似ているのだろうか。

 黒に白を垂らしてかき混ぜても、灰にもならず黒いままのような。

「………………」

 ……終わり、なのだろうか。僕達の関係は。

 カイネだけ、遠くに行って。

 割れてしまいそう。胸も、頭も、全身が、心が、魂までも。

 かつてない苦痛は、幸福に伴う有害事象じゃない、混じり気のない無垢な劇毒。

 もう、いいのかな。

 与えることも出来ず、もらうことも出来ないなら。

 約束を破る事になるけど、結果的に同じなら、いいのかな。

 手にした重み。こうしてみると、一層ずしりと来る。

 それでいて今の僕の命は、とても軽い。たった二十一グラムでかき消える。

 この、耐え難い、死にたくなる苦しみごと。

 顎下に冷たい塊を押し当てる。

 よく見るようなこめかみよりも、安定して狙いやすい確実な射線。

 一本の線をイメージする。頭蓋骨の中心に重なるように。

 撃鉄を起こす。あとは引き金にかけた指に、ほんの少しの力を込めればいい。

 顎と舌を貫き、口蓋を砕いた死神が、頭蓋の中でその手を開き、脳髄を握り潰してくれる。

 指先が冷えていく。

 呼吸が浅くなる。

 意識が細くなる。

 視界が滲む。

 心臓がうるさい。

 止まってしまえ。

 鼓動が震えになって、伝播していく。

 ごめん、カイネ。

「――っは、ぁ……」

 そっと、銃口を外す。

 こんなに死にたいと思ったことはないのに。

 こんなに死にたくないと思ったこともない。

 気が狂いそうだ。

 生きていなきゃ、君に会えないなんて。

 もう、いないかもしれないのに。

 当たり前に一緒に過ごして、いなくなってから、こんなにも狂おしいと気付いて。

 望みも、果たせないまま――

 ヴ、ヴッ。

 止まらない耳鳴りに通知音が混ざる。

 感覚の戻らない手でスマホを取って、霞む目で画面を見た。

 ――黒が混ざって、色を変えていく。

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