7-1.灰色のイチゴ
●
通路の奥にある、赤く点灯した表示を眺め続けて、どれぐらい時間が経ったろう。
ベンチに腰掛けたまま、動かず無気力に。
それでも速いテンポで近付く足音には気付いた。
「…………なにが、あったんだよ?」
息を切らしながら引きつった顔で、遥空が僕を見下ろす。
そういえば身体は拭いたけど、服はそのままだな。染みて固まった大量の血を見たら、驚くのは当然か。
遥空が駆けつけてくるのはわかっていた。カイネに現在の家族がいないから、この事態に、直近の家族だった挟倉家に連絡がいったのだろう。そうでなくとも、救急車の中で僕がその名前を口にした気がする。それどころではなくて、憶えてはいないけど。
「カイネが刺された」
「……は?」
僕は立ち竦む遥空に、起こった出来事をそのまま伝えた。死ぬつもりだった事は伏せて。
白くなるほど握り締めた拳を震わせ、顔を朱に染めながら遥空が叫ぶ。
「どこだ? そいつどこにいる!? ぶっ殺してやる!!」
「もう死んだよ。カイネを刺した後、目の前で自殺した」
「……はあ? ……ンだよそれ、ざけんな!」
行き場を失った拳が壁に叩きつけられるのを、僕はただ呆然と見上げていた。
皮膚が裂けたのか、血が滲む。
「……手、大事にしなよ。カイネが悲しむ」
「……ッ!」
頬に重い衝撃が走る。視界が大きく回って、耳鳴りがした。口の中に血の味も。
「お前一緒にいたんだろ!? なあ! なんでこんな――」
「やめなさい!」
遅れてやって来た人が遥空を押しのけて、リノリウムの床に倒れた僕を助け起こす。
「大丈夫かい?」
「……いい目覚ましになりました」
「すまない」
この人に会うのは久しぶりだな。こんな形で会うとは考えもしなかったけど。
「まったく……お前は抑える事を少しは覚えなさい」
「けどよ!」
「そうやって怒りに任せて何か解決した事があるか? それであの子が助かるのか? ……怒るのは自然なことだが、使い方がある。前に教えただろう」
唇を噛み締めた遥空は、壁に額を思いっ切り打ち付けると、荒々しくベンチに腰を下ろした。
「ご無沙汰しています、挟倉のおじさん」
スーツ姿で理知的な風貌をしたこの中年男性は、大学教授をしている遥空の父親。
「ああ。でも何がなんだか、まだ飲み込めていない」
それも仕方のないことだろう。僕とカイネが出会った日に起こった事件以降、さっき彼女が刺されるまでの動向を、彼は知らないはずだ。
「篠咲君、頬を冷やしておいで。薬か何かもらってくるから――」
「いえ、このままで構いません」
ベンチに座り直した僕に、挟倉教授は何か言いたそうにしていたが、優しく肩を叩いて隣に腰掛ける。ついでに遥空の頭に拳骨を落としながら。
「……なあ篠咲、あいつ、ちゃんと助かるよな?」
「…………わからない」
殴られたせいではなく、慰めの言葉をかけるだけの気力がなかった。
僕はずっと近くにいたのだ。細い身体から溢れる大量の血を、釘で貫かれ骨が折れようと平然としていた彼女が苦痛に喘ぐ様を、応急処置を受け、人工呼吸器を取り付けられ、いくつもの輸液管を繋がれるのを、弱々しい心電図の音を、白くなっていく肌を、手術室に吸い込まれていくまで、ずっと。
それでも、生き延びて欲しいと、切に願う。信じたこともない神様に願ってまで。
それは傍目には意味のないことかもしれないけれど、僕達には、なにより大切なことだから。
「あの子の事は引き受ける。血は繋がっていないし、短い間だったが、父親だからな」
こんな風に責任感のある大人は、彼女の周りにはほとんどいなかったんだろうな。
ちゃんとした人だから頼ってしまいたくないと、カイネが思ってしまうぐらい。
「今は先生方を信じて待つしかない。辛いだろうが、帰って休みなさい」
「…………」
「……その格好じゃまずいから、手続きを済ませたら車で送っていこう」
帰る……か。もう帰ることはないと思っていた、カイネのいない家に。
受け入れがたい現実を前にしても、理性はそれしか選択肢がないと認めてしまう。
車中、そういえば、と運転席の挟倉教授が、後部席の僕に向けて言う。
「言い辛い事だけど、君の所に警察が話を聞きに来ると思う。そのつもりでいてくれ」
「わかっています」
「……今回の件だけじゃないんだ。あの子は――」
「わかっています」
強い語調に察してくれたのか、それ以上は言わなかった。
●
あれからどれぐらい過ぎたのか、まだ年は明けていないらしい事しか、よくわかっていない。
ろくに眠ることもできず、家の中でぼうっと時間が過ぎていくだけ。
食事を作る気力すら湧かず、気に障るほどの空腹を覚えたら、冷蔵庫の中の食材をそのまま齧るだけ。一度だけ生食してはいけない物を食べて腹を壊し、何をしているんだろうな、と思った。
こんな無為な生活をしたことはない。生活とすら呼べないか、これは。
している事といえば、スマホに届く連絡に目を通すぐらい。
カイネの容態についての連絡はまだない。
ただ、妙な事もあった。
今回の件でさすがに、断りなくカイネを住まわせていた事が叔父の耳にも入っていた。
そこまでは予想の範疇。しかし、てっきり咎められるものと思っていたのだが、僕への心配や、感心の言葉ばかりを告げられた。
血の匂いがきつい事件に巻き込まれた事から、気を遣ってくれているのかとも思ったが、どうにもそういう様子ではない。
その理由は、警察が家に来て明かされることになる。
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