5-3.幸福な劇毒
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終電間際で電車内は空いていたけど、落ち着かなくてドア横に立って目的の駅までを待つ。
そうしているのすらもどかしく、電車を降りて自分の足で走った方が早いような、馬鹿馬鹿しい錯覚さえしてしまう。
カイネが、かつて語った母親のような、見返りによって成り立つ関係を厭わないのは知っている。そもそもうちに住むようになった経緯だって、僕が望まなかっただけで、その延長上だ。
でも、勘違いは困ると言ってキスしてきた意味は、わかっているつもり。
その事に一方的な怒りをぶつけたのだから、筋違いも甚だしいのは承知しているけど、昨日とは違う種類の不快感が、胸の奥と腹の底で疼いてしまうのは、どうにも出来なかった。
到着したホームで、ドアが開き切るのも待たずに走り出す。
改札を抜けて、カイネのいるホテルまでまっすぐ、電車内で繰り返し叩き込んだ最短ルートを迷わず走り抜けて。
同じような目的であろう何組もの男女とすれ違う。
行ってどうするつもりなのか、自分でもわかっていない。
ただ場をかき乱して、一人帰るだけになるかもしれない。
外からは見えなくなっている入り口に駆け込んで、ぶつかりそうになった中年男性と若い女性に頭を下げて、エントランスのきらびやかな部屋案内を通り過ぎる。
階段がどこかわからず、やむなくエレベーターのボタンを叩く。幸い一階に停まっていてすぐ乗り込むけど、ほんの十数秒の時間すらもどかしい。
到着階で、防音のためか間隔の広い部屋の番号に目を走らせながら、廊下を進む。
――あった。
目的の部屋のノブを回すが、鍵がかかっていた。
ノックというより、殴りつけるように拳で叩く。
ホテルも部屋も間違っていないはず。けど焦燥感がスマホに手を伸ばさせる。
ここで合っている。それより、外からじゃどうしようもないのだし、開けるようメッセージを送るか。それとも通話か?
応じてくれる気があるか、応じられる状況かもわからないが――
――太い解錠音。
顔を上げると、驚いたように目を見開いたカイネが、そこにいた。
何か言うよりも早く、頭突きするように、僕の胸に額を押し付けてくる。
そのまましばらく、彼女は何も言わなかった。僕も何も言えなかった。
「…………帰ってもいい、ってことですか?」
不安そうな声。
「うん」
カイネの頭越しに、部屋の中を窺ってみる。
中には誰もいなかった。
●
終電はもう過ぎていて、最寄り駅までタクシーを使った。直接家まで乗せてもらわなかったのは、カイネの事情があるから、念の為。
車内ではお互い一言も口を開かなかった。
それは別に口を利きたくないとかじゃなく、むしろ安心感のような空気があった。
単に、何を話すにしても、
降りてから、ほとんどの人々が寝静まる住宅街を、二人並んで家路につく。
カイネの歩調に合わせて。彼女も、普段よりゆっくり歩いているように思える。
「ありきたりかもしれませんけど、嬉しいものですね」
「それは何より。こっちは拍子抜けだよ」
「もしシノさんの想像通りだったら、どうするつもりだったんです?」
「……さあね」
それは本当にわからないし、もうどうでもいい事だ。
カイネと出会った頃に比べると、夜風は涼しい季節になった。いまはそれがありがたい。
思えば、見落としていただけでその可能性は最初からあった。
ラブホテルなんて、性行為が主目的というだけで必須要件じゃない。エントランスや廊下に監視カメラぐらいはあるだろうが、従業員と顔を合わせなくていいし、他人から出入りを見られにくい分、身を隠しているカイネには宿泊場所として使いやすいというだけのこと。
結局のところ、振る舞いや境遇から、僕は無自覚にカイネという少女を誤解していた。
だから、いまのうちに話したい。僕のこと、カイネのこと。
並んで歩いていけるように。
……多分僕がこんな風になったのは、そう思う相手だからなんだろうな。
「昨日、あれから考えていたのは、母と同じ道を辿るかな、ってことでした。都合の良い男を見つけて、たらし込んで、寄生して。振り出しに戻るけど、仕方ないのかなって」
でも、そうはしなかった。
「あなたと会う前はそうするつもりでしたけど、いまは、そういうの嫌だなって。そんな感覚、生まれる前から壊れていると思っていたんですけどね」
「……困ったな」
「……ごめんなさい。私、調子に乗っていました」
「違うよ。僕の事を知ってもらわなかった、僕が悪い。防ごうと思えば防げたんだ。だから、出て行けなんて言ったのはやりすぎた……ごめん」
カイネが、不安と心配が綯い交ぜになった目で、見上げてくる。
「潔癖症、とは違うように思いましたけど。尋常じゃありませんでしたし」
「うん……なんていうかな、ポジティブな感情が湧くと、苦しくなるんだ。それこそ死んで楽になりたいぐらい。でも全部が駄目ってわけでもなくて、楽しいのはいいんだ。学校での生活とか、料理してる時とか、なんだかんだカイネと過ごすのも」
一呼吸挟む。少し、度胸がいるから。
「僕にとって駄目なのは…………」
「……ダメなのは?」
言わなきゃ、だよな。僕なりのけじめとして、ちゃんと。
「……喜びとか、嬉しいとか、そういうの」
カイネが立ち止まって、僕も立ち止まる。
「嬉しかったんですか?」
「…………まあ、そうなるね」
「ふふ、それは、私が嬉しいです」
また歩き始める。さっきよりは、気持ち軽い足取りで。
「でも難儀なものですね。ナントカは実らない、なんて言いますけど、あなたを苦しめるのは本意じゃありません」
「苦しいのはいまに始まったことじゃないから慣れてる。でも限度があるし、それでいて欲が出る。生きたいと思ってしまうのは、困る」
僕達は、死にたいからこそ、一緒にいる。
「だからひとつ、我儘を聞いて欲しい」
最近、計画を立てながら考えていたこと。僕達の終わりの迎え方について。
「カイネには望みを叶えて欲しい。最高に幸せだと思える瞬間に、死んで欲しい」
隣でカイネが苦笑した。
「残酷なことを言いますね。困るなんて言ったくせに」
「わかってるよ。だから、僕の命はカイネに預ける。君が死ねた時、僕も死ぬ」
僕達の関係において、僕が最も相応しいと思う死に時。
……僕がいままで死を願って、その方法を模索しておきながら、実行に移せなかった大きな理由がある。
影響を最小限に留める方法さえ見つかればいつでも――そんな目標そのものがいけなかった。
完璧な死に方なんて、二次関数の放物線のように、限りなく近付いていくことは出来ても、到達することは永遠に出来ない。ほんのかすかな不備でも見つかれば、それを改善できるまで保留にしてしまう。生きている限り、時間などいくらでもあるのだから。
そんな事にも思い至らなかった自分を愚かしく思う。
だから、時間を有限に。協力という名目のもと、巻き込みたくないはずの他人に依存して。
カイネに委ねることになってしまうが、いままで失敗し続けてきた自分を鑑みれば、それでいいはずだ。
生きたい理由になってしまったカイネがいなくなってしまったら、きっと悔いも迷いもない。
「じゃあ、その代わり、私のわがままも聞いてください」
カイネが僕を見上げて、柔らかな微笑みを向けてくる。
「私の命もシノさんに預けます」
それはきっと、僕達の関係において、彼女が最も相応しいと思う死に時。
「私が理想だと思う時が来たら、私の気持ち、シノさんに伝えます」
気持ちなんて、明言していないだけで、もう言っているようなものだけど。
「そしたら、私を殺してください」
カイネが浮かべた笑顔は、見ているだけで胸が苦しくなるほど、最高に幸せそうで。
「残酷なことを言うね」
「お互い様です。それに自殺よりよっぽどロマンチックだと思いません?」
心中立てにロマンを感じるかは人それぞれだな。言い出しっぺの僕としては、まあ、悪くはないか。死ぬことに変わりはない。
「その時まで、あなたが苦しむようなことをしたり、言ったりしません。いままで通り、私達は理想的な死に方を求める同盟関係です」
そう言うとカイネは、いつもみたいな、悪戯っぽい笑みになる。
「約束ですから、指切りでもしておきます?」
「君が言うと、指詰めって意味に聞こえる」
「わぉ、よくお分かりで。さすが盃を交わした仲ですね」
「兄弟分みたいな言い方はやめてくれる?」
「ま、冗談はさておきまして」
カイネが開いた手を差し出してくる。
「これくらいなら、いいですか?」
迷ったのは、ほんの少しだけ。返事の代わりに手を繋ぐ。ただ隣を歩く、そう示すために。
もう僕達の家は近くで、そうしている時間を増やすようにゆっくり歩いても、すぐに着く。
たった一日の事だけど、カイネは嬉しそうに言った。
「ただいま」
僕の胸にも、苦しみのない嬉しさが湧いてくる。
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