5-2.幸福な劇毒

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 十月も半ば。

 作業台のコルクボードに張り付けた、自作の設計図面と材料を作るのに必要なレシピを確認して、これに沿った全作業工程をイメージしてみる。

 ……これで一通りは揃ったはずだ。あとは素材になる物をホームセンターと薬局で買い揃えて、時間を使える限り実作業に専念できる。

 順調にいけば十一月中、実際には少なからず修正点が出てくるだろうから、年内が完成目標になるか。

 日常生活でお目にかかることのない代物だし、この分野の知識ははっきり言って乏しい。

 でも成し遂げようという意志は強くあった。そのために知識を一から学びもした。

 この執着心の根源は、きっとこれが僕にとっての最高の自殺方法だからなのだと思う。

 実のところ以前にも考えたことはある。けれど実現可能性の低さと諸問題から除外していた。

 それを改めたのはカイネの存在が大きい。彼女のような仲間を得たことで覚悟が決まった。

 完成すれば、彼女の役にも立つはずだ。

 なにせ日本を除けばナンバーワンと言えるほどの自殺方法だ。

 ……ああ、楽しいな。こういう、作る事に関しては、素直に楽しいと感じられるのに。


 はっきり言えば、僕はこの製作作業に熱中していたし、最優先すべき事でもあった。

 だから、近頃のカイネの変化には、鈍感になっていた。



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「左手の調子、どう?」

 定期的におこなっている、カイネの負傷した左手のケア。

 患部の固定以外は片手で充分だから僕が面倒を見る必要はないのだが、痛みに無頓着な彼女のことだから、処置をしてかえって悪化させないとも限らない。

 固まった血を掻き落としたりしていた最初の頃に比べれば、十月下旬にもなると、傷の具合もだいぶ随分良くなった。

 けれど、かつてネイルガンで貫通した傷穴はほぼ治っているものの、肉眼では見えない骨の部分は、素人の僕にはどの程度の状態なのかは把握できない。

「折れたところはようやくくっつき始めた感じですかね。ヒビが入ってた指はもう大丈夫そうですけど、ずっと固定してるので関節が軋みます」

 痛みに強いというのも、慣れてくるとこういう時は便利に感じる。

 患部を圧迫しすぎないよう気を付けながら、消毒用エタノールを含ませた脱脂綿で手指を拭いていく。手洗いも出来ないから、こうして衛生面も気を遣う必要がある。

「ふふ」

「どうしたの」

「くすぐったくて」

「我慢して」

「いえ、シノさんの手で触ってもらうの、なんだか気持ち良くて」

「……勘違いしかねないこと、言わないように」

 平気で裸を見せるような行動には耐性がついてきたものの、いきなり変化球を投げられると対応に困る。

「じゃあ、言わないようにします。勘違いは、お互い困りますもんね」

 手を触るぐらい、怪我をしてから何度もしているのだが、それだけ痛みが引いてきたってことか。

 一通りの処置を終え、地下室で手慣らしにアルミ板を加工して作った固定具を添えて、新しい包帯とテープを巻く。

 道具を救急箱にしまうと、

「いつもありがとうございます」

 それは緩やかな動きだったのに、反応できなかった。

 腕に抱きつかれ、引き寄せられる。

 柔らかい感触を一瞬理解できず、呼吸が止まる。

 目の前には、さらさらの黒髪と、上と下が重なった長い睫毛。

 軽く触れた唇が、優しく食んでくる。

 カイネの体温が離れていって、何をされたのか把握した瞬間、目眩で視界が揺れた。

 心拍が早まる。

 本能的な快感、高揚感と――名状しがたい不快感、嫌悪感。

 僕を見つめるカイネの顔がぶれる。どんな表情で見ているのか、わからない。

 耳鳴りがする。脳を締め付けられているよう。吐きそうだ。

 こうなるのがわかっていたから、避けていたのに。油断していた。

 信用するべきじゃなかったのか。踏み込んできたところは、悪戯じゃ済まない。

 ……どれぐらい経ったのか。

 苦痛にまみれた、時間を引き伸ばしたようなゾーンを過ぎて、少しずつ悪酔いに似た状態が醒めてくる。

 ようやく絞り出した声は、喉に砂の塊でもねじ込んだように、乾いて掠れていた。

「出て行け」

 焦点の合ってきた視界の中で、カイネが硬直する。

 表情が抜け落ちて、

 目を逸らし、

 何かを言おうと口を開き、

 何も言えずに閉じる。

 唇を引き結んで立ち上がって、自室に引っ込んでいく。

 しばらくすると、いつもの帽子と眼鏡を身に着けて、鞄を肩に提げて出てきた。

「…………っ…………、…………」

 じっとこちらを不安げに、そして心配そうな目で見ていたけど、僕の態度が変わらないのを見てか、結局何も言わないまま深く頭を垂れて、出ていく。

 玄関の閉まる音を聞き届けて、深く嘆息した。

 やけにあっさり従ったのは、僕がそういうのを避けている、という話を憶えていたからか。

 発作的な症状はもう落ち着いてきていたけれど、鼻と顎の先から冷や汗が雫となってぽたぽたと落ち、頭と胸の中に不快感が残っていた。

 床全体が綿になってしまったような感覚のまま台所に向かい、以前カイネが買ってきて残っていた酒を、瓶のまま呷る。

 あの時の肴も胸糞悪くなる話だったが、いまのような不味さだっただろうか。

 ……こんな気分は、初めてだ。



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 腹の底でムカデの群れが蠕動しているような不快感が、酒のせいでないことぐらいは、飲み慣れていない僕にもわかる。

 次の日の授業中はずっと上の空。休み時間に話しかけられたりもしたけど、誰と何の話をしたのかも憶えていない。

 久しく忘れていた、誰も迎えてくれる人のいない家。

 何をトチ狂ったのか、作った夕食は一人分なのに味付けだけ二人分で、でも味はしない。

 機械的に作業場へ向かい、地下室特有の湿った冷たい空気に触れてようやく、昨日カイネを突き放した時、僕の中にあったものが何だったのか気付いた。

 怒り。それも、理不尽で子供じみた類の。

 僕の人生経験なんて、世に溢れる人々の平均値にも遠く及ばないが、何かに怒りを抱いた事なんてなかった。

 家族と呼ぶには短くとも、ただの友人としては長い時間を共にし、生まれてから歩んできた道のりを知り、彼女を理解した気になっていた。

 でもカイネは僕を理解してくれてはいないのだ、と感じてしまった。

 踏み込んでほしくない領域に無邪気に入り込まれて、憤ってしまった。

 年頃らしい生き方を避けていると話した事はあったが、言葉で説明するのは難しいと、理解してもらうのを放棄していたのに。

 その結果が、出て行け、などという一方的な協力関係破棄の宣告。

 咄嗟の事とはいえ後悔はあるのだ。主観的にはカイネに責があるのだという感覚がどうしても拭い切れないが、僕の反応が過剰だった事実を否定するほど馬鹿でもない。

 ……反省をいくらしたところで、カイネを拒絶し、去っていったのは変わらない。家だって買えるぐらいの大量の資金もあるのだし、戻って来る必然性もない。

 湧き上がった感情に流された過ちだったと認めざるを得ないけど、その大きさに逃避したくなる。

 製作に取り掛かって忘れようとしたけど、今日の作業予定が何だったかを忘れてしまった。

 作業台の設計図を眺めてみても、落書きを書き連ねた紙くずにしか見えない。

 買い込んだ資材の山を見ても、ただのゴミ捨て場にしか見えない。

 こんなの、何のために作ろうと思ったのだったか。

 もちろん、僕が死ぬために。

 揺るがないはずの考えが、いまや薄っぺらい事に気付く。

 ――僕と彼女が死ぬため、だ。

 思考にピントが合ってきても、作業を始めようとすると、ノイズが混ざってしまう。

 今日は諦めようとリビングに戻ると、カイネの残り香に気付かされる。

 ゲーム機に、読みかけの文庫本、酒瓶と盃、好んでいた煙草ピースのバニラフレーバー。

 ……どうかしてるな。こんな感傷的になって、両親を失った時にさえ感じなかった、寂しさを覚えるなんて。

 ソファに深く腰を沈めて、半ば意識せず、スマホに手を伸ばした。

 あれから一日過ぎただけだったけれど、その間、僕からも、カイネからも、連絡はない。

『どこにいる?』

 色々と考えたけれど、打ち込んだメッセージはそれだけだった。

 送信を押すまでの躊躇は少しだけ。

 当分眠れる気もしないし、出来る事も思い付かない。体を包む虚脱感に任せようかと思った矢先。

 送ったメッセージにほんの数秒で既読がついた。

 つい、画面を見入ってしまう。

 自動でスリープになってしまう画面を何度も戻している間、ログに変化はない。

 怒っているのかもしれないな、と今更ながらに思う。僕には実感が薄いけれど、彼女がそういう感情を持つ人間だと知っている。居候だといっても、彼女からすればいきなり理不尽に追い出されたも同然だし、当然かもしれない。

 待ち続けて、返す気はないか、と思い始めた頃、返信があった。

 言葉ではなく、位置情報を。

 続いてURL。位置情報の場所にある施設のページのようだ。

 更に、簡素に部屋番号だけ送られてきた。

 URLを開いて施設情報を目にした瞬間、何かを考えるより前に立ち上がって、玄関を飛び出していた。

 別にカイネの行動を束縛する気はないけれど。

 拒絶した僕に文句を言う権利などないけれど。

 ……いま、深夜の住宅街を駆け抜けている理由は、理屈を並べて説明するのが難しいな。

 カイネの居場所は、ラブホテルだった。

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