4-1.無痛の代償
●
「なー篠咲、今日は挟倉学校来とる?」
昼休みになって早々、風璃が声をかけてくる。
それだけで癒やしを感じているあたり、自分で思っているより疲れているな。
「……用あるなら直接行ってくればいいのに」
「つれんやっちゃなー。いきなり行ったら捜しとる間に逃げられるもん……せや、こないだ挟倉に会ったん? どやった?」
「話す前に断られた」
「むぅ。こうなったら、最終兵器ねこちゃんのお力も借りるっきゃないか」
「ほんと熱心だね、バンド勧誘」
「そらそうや。こないだねこちゃんに昔の映像見せてもろたけど、神演奏やったで。あんなん腐らせとったらバチ当たるわ」
遥空は本当に色んな方面から評価されてるな。
以前から親交がある先生は、ピアノをやめた理由を知っているのだろうか。ならばその頃から、どんな気持ちでいるのだろう。
「……? 篠咲、なんか元気ない?」
「そんな事ないけど、そう見える?」
「なんちゅうか、心ここにあらず?」
「まあ、ちょっと寝不足っぽいけど」
「なんや、えっちぃ動画でも観とったん?」
一つ下の女の子と一緒に風呂に入っていた、とか言ってみたらどんな反応をするんだろう。何の得もないから言わないけど。
……こんなしょうもない事を考えるあたり、不安定になっているな。
寝不足気味なのは本当だ。色々考えてしまって、寝付きが悪かった。
考えられる可能性の一つでしかないけど、僕は今日、殺されるかもしれないし。
●
「どこから話したものですかね」
知りたいかという問いに頷いた僕へ、しばし考えたのち、彼女は言った。
「断片的にお話しするのは難しいので、長くなります。明日、シノさんが学校から帰って来てからにしましょう。今日はもう遅いです」
そう言って、彼女は先に風呂から上がった。
「本当に話してくれる気? 僕が誰かに告げ口するかもしれないのに?」
それまでの話の流れで、誰か、など具体的に言うまでもない。
けれど彼女は口角を上げて、自信ありげに笑った。
「シノさんがそういう人じゃないと信じていますよ」
帰りの電車の中、ゴールのない思考の迷宮をさまよう。
彼女は本当に話してくれる気なのだろうか。あんなにもひた隠しにしてきたのに、何故?
なまじバレてしまったからか、そこに何か誤解があるからか、それともただの気まぐれか。
そもそも僕自身、彼女の事を知りたいのだろうか。
気になってしまう、というのは間違いない。
だが、どうしても意識に靄が入り込んでしまう事と、掘り起こしてしまいたい好奇心は違う。
知りたいのか、知るべきなのか、
その答えすら、最寄り駅を降りて数分歩いた場所にしかない。
いや、家に答えが待っているとも限らない。
可能性……いや、彼女が取れる選択肢はいくつもある。
僕が学校に行っている何時間もの間、彼女には自由がある。
例の事件の時そうであったように、失踪しているかもしれない。
万端の準備を整え、知られたくない真相に近付いた僕の口を封じるかもしれない。
あるいは――
寝不足気味なのに加えて止まらない思考に疲弊した脳が、意識とは無関係に休もうとする。
切れかけた電灯のように、視界が明滅する。
――僕はいま、家に帰ろうとしている。
玄関を開ける。カイネが首を吊って死んでいる。目が醒める。
玄関を開ける。カイネが首を切って死んでいる。目が醒める。
玄関を開ける。カイネが胸を刺して死んでいる。目が醒める。
玄関を開ける。カイネが腹を裂いて死んでいる。目が醒める。
玄関を開ける。カイネが毒を飲んで死んでいる。目が醒める。
玄関を開ける。カイネが釘まみれで死んでいる。目が醒める。
玄関を開ける。カイネが炭になって死んでいる。目が醒める。
玄関を開ける。カイネが頭を撃って死んでいる。目が醒める。
――最寄り駅への到着を告げるアナウンスで、ようやく悪夢から醒めた。
●
駅を降りた後、ドラッグストアへ寄って、忘れかけていた医療用品を買う。
ちゃんとした理由のある寄り道だったけれど、なんだか時間稼ぎでもしている気分だ。
帰る事に躊躇があるのは、さっき変な夢を見てしまったせいだろうか。
足取りひとつにも平常を心がけて、自宅に戻る。
玄関を開け、そこに何もないという当然の事に、少し安堵した。
リビングに入ると「おかえりなさい」といつも通りの声が出迎え、そして僕は呆れた。
「……怪我に気を遣おうとは本当に思ってないんだね。替えの包帯とか買ってきたのが馬鹿馬鹿しくなってきた」
「あ、ごめんなさい。それぐらい自分で買ってくるべきでしたね。コレは今回限りのつもりですから、大目に見てください」
彼女はソファに寝転がって文庫本を読んでいたが、その前のローテーブルには、洒落た日本酒の瓶と、花の蒔絵が施された漆器の盃が二つ。
酒の銘柄など全くわからないが、盃の方は一目で高校生には手が出せないような逸品だとわかる。酒器自体、高校生が買う代物でもないが。
「酔わせて取って食べよう、とか考えてないですよ。ただ、シラフでするような内容じゃないですから。話す方も、多分、聞く方も」
「……の割に、話を聞く前にだいぶ気が抜けたよ」
自室で部屋着に着替えてから戻ると、酒瓶を手にした彼女が、真剣な面持ちで見上げてきた。
「……失念していました」
手を怪我しているせいでスクリューキャップを開けられないらしい。
また呆れつつ、瓶を受け取って代わりに開ける。甘くも爽やかな、酒独特の香り。瓶から直接だと加減が難しいが、二つの盃に注いで、向かい合ってそれぞれが盃を手にする。
「シノさんはお酒飲んだことあります?」
「正月のお屠蘇ぐらいかな」
「わぉ、今時お屠蘇なんて珍しいですね。それじゃ、これで不良の仲間入りってとこですか」
「不登校で煙草に酒、君も挟倉に劣らずの不良だ」
「ふふ、ほんとですね」
彼女が盃を掲げるのに合わせ、二人揃って呷る。
柔らかな熱感とわずかな甘みと旨味。舌から鼻に抜ける香り。
案外悪くないな。わざわざアルコールを摂取しようと思ったことはないけど、純粋に飲み物としてのレベルが高い。何かの手違いで二十歳を過ぎてしまったら、色んな酒を飲み比べてみようか。
「んー、瓶とラベルのデザインに惹かれて選びましたけど、当たりっぽいですね」
彼女は飲み干した盃に酒を注ぎ足す。僕も盃を突き出すと、上機嫌に注いでくれた。
さて、と瓶を置きながら彼女が切り出す。
「ちゃんと舌が回るうちに、本題に入っちゃいますか」
「その前に、どうして話してくれる気になったのか、教えて欲しい」
言いながら、視線だけ周囲に巡らせる。
帰って来てから気になっていた。彼女が身に付けているのは外着で、彼女が座っているソファの隅には、帽子と眼鏡が置いてあった。脇には鞄も置いてある。
話した後、この家を出ていく用意がある、ということ。
「隠したままだとフェアじゃないと思ったからですよ。一方的にお世話になっていますし。もちろん、元義兄の存在がきっかけにはなりましたけど」
「それだけ?」
「あとはまあ、薄々考えてはいた事ですが、協力を請う以上、私の事を知ってもらわないといけませんしね。私は私だけの幸せが欲しい。私には見つけられなくても、私を知ったあなたになら見つけられるかもしれない。でも」
盃の中の、かすかに波打つ透明な酒を見つめた。
「私を知ったあなたは、私に失望するかもしれない。私を嫌悪するかもしれない」
仕切り直すように盃を傾け、赤い舌で唇を舐める。
「まず私には、一人の母と、全部で十人の父親がいました」
――そんな、既に意味不明な切り口から、彼女は己の半生を語り始めた。
「私……香込会音という人間を語る上で、母はとても大きな存在でしたから、半分以上は母の話になっちゃいますけどね」
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