3-4.虚影な邂逅

          ●

 完全に集中力を失った遥空が、長身を折り畳むようにローテーブルに突っ伏した。

「…………終わった」

 カイネが小さくパチパチと拍手する。

「この量を一日で終わらせるなんてすごいですね。頑張ったご褒美あげます」

 そう言って差し出したのは、未開封のまま余ったエナドリ。

 僕も飲みかけのエナドリを飲み干す。まだ何本も残ってるんだけど、どうしようかこれ。

「お疲れ。正直今日中に終わると思ってなかったから驚いてる」

 遥空自身がパフォーマンスを維持し続けたのはもちろん、当初は予定外だったカイネの参加が大きかった。

 とにかく教えるのが上手い。自分で解かせるスタイルは僕と同じだけど、アドバイスは噛み砕いて、かつ短く。そして何より、これは経験上のものか、遥空が躓く要因を先読みして的確に指摘するのだ。僕が手伝える事なんてほとんど何もないぐらい。

「……サンキュ。マジ助かったわ」

「とりあえず、これで留年は回避だね」

「これ落としても、まだギリ大丈夫だっての」

「九月に留年の話って、一体なにやらかしたんですか」

 膨大な量の課題を終えて緩んだ空気の中、カイネの表情が真剣味を帯びる。

「今日は課題やる為に来たんですし、訊くのを終わるまで我慢していましたが……その手、どうしたんですか? そんなんじゃ、ピアノ弾きづらいでしょう」

 ……カイネは知らないのか。

 遥空の顔に緊張が差し、目を逸らした。

「……弾いてない。ピアノはもうやめた」

「…………え?」

 言葉ですらない声、呆然とした表情に、普段飄々として読めない本心が垣間見えた気がした。

 意味がわからない、と言いたげに厳しい目を向けるカイネに、目を合わせようとしない。

「ピアノ弾くの、好きだって言ってたじゃないですか。亡くなったお母さんに教わったって、自慢にしてたじゃないですか」

「違う」

 疲労とは違う弱々しさを帯びた声。

「母さんは俺に素質があるってわかってから、俺のピアノの腕を伸ばすのが生き甲斐だった。上達する度に喜んでくれた。でも母さんが死んでから、目的なんかなかった。ただ、続けなきゃいけないと思って続けてただけなんだよ」

「…………」

「そっから親父が再婚して、お前がうちに来て……俺の弾くピアノが好きだって、お前は言ってくれた。だから俺は、ピアノ弾くのが好きになった。お前が聴いて、喜んでくれるのが、俺の生き甲斐になった」

 握り締めた拳。厚くなった皮膚が白くなる。

「でも……憶えてんだろ。俺がぶっ壊した。離婚して、お前がいなくなって、生き甲斐はなくなった。なんかもう、弾いてても虚しいだけでよ。弾きたくなくなった。いっそ、弾けなくなりたかった。できるだけ馬鹿馬鹿しい方法で、ピアノ弾けなくなりたかった」

 ……意外なところで意外な話を聞いてしまった。名が知れる程の腕を持ちながらも引退した理由。

「それで日々喧嘩、ってわけなの、挟倉?」

 遥空は、僕とは目を合わせて、頷いた。

「篠咲と知り合った時、随分やらかしたろ。あれが初めてだ」

「人を殴って手を壊そうって? もうピアノを弾けなくするために」

「だよ。けど上手くいかねえもんだ。怪我して使えなくなっても、しばらくすりゃ元通りだ。そんでも続けてりゃそのうち――」

 ずっと黙って聞いていたカイネが、深いため息をついて立ち上がった。

「あなたは本当に感情で動きますよね。良くも悪くも、呆れるぐらい」

 あれ見てください、とカイネは何もない所を指差す。

 言われるがままその方を向いた遥空の頬を、動きに気付いた僕が止める間もなく、カイネが大きく振りかぶった左手で殴り飛ばした。

 ソファに倒れても勢いは止まらず、向こう側まで転げ落ちる。

「……ッ、てめ何すん――」

「人の身体なんてそう簡単に壊れやしませんよ」

 肩を掴んで止めたが、追い打ちをかける気はないようだ。

 でも、左手だ。頬を押さえた遥空がはっとした顔になる。

「私に腕力なんかないですけど、それでも全力で殴りつけたって、全然平気なんですから」

「平気ってバカ、ノンお前血ぃ出てるじゃねえか!」

「傷が開いただけです」

 遥空の言う通り、包帯から血が滲んで、すぐに飽和して垂れ始める。

 平気なわけがない。彼女には耐えられる痛みというだけの、虚勢に過ぎない。

「本当にもう弾きたくないなら、こんな中途半端な手段取ってないで、壁でも殴るなり思い切ってグチャグチャに叩き潰したらどうです? 弾きたくないとか言いながら、弾けない理由をダラダラ作り続けて、ただ自己嫌悪に浸ってるだけじゃないんですか」

 吐き出される怒り。

「あなたはきっと、後悔しているんでしょうから。でもね、遥空さん。私がいなくなったから、なんて理由でピアノ辞めたとか、ふざけるのもいい加減にしてくださいよ。私に聴かせるのが生き甲斐だとか言うなら、私に届くように頑張ったらよかったじゃないですか。テレビでもラジオでも動画でも、あなたならいくらでも方法はあったでしょう? そういうのは考えないで、もう弾けないように手を壊そうなんて下らないこと考えて、本当に救いようがない馬鹿ですね…………あなたの演奏は本当に好きだったから、また聴きたかったのに」

 静かな、それでいて鬼気迫る剣幕に、僕も遥空も口を挟む余裕はなかった。

 一気にまくし立てたカイネは全て吐き出しきったのか、真っ赤に染まった左手をこちらに伸ばす。

「シノさん、手当て、手伝ってください」

「……挟倉は顔冷やしておいで」

 カイネの鉄拳と言葉がよほど堪えたのか、遥空はふらふらと立ち上がって、洗面所に向かって行く。

 一方で僕は、昨日使った応急セットを持ってくる。地下室に戻していなくてよかった。

「病院が必要になるような事はするな、って昨日言ったばかりなんだけど」

「すみません。頭に来ちゃったもので」

「意外だったよ。にしても、よりによって左手こっちか……」

「両手が使えなくなったら困りますから」

 壊れる事を想定してぶん殴るとは、それほど怒り心頭だったか、遥空の行いを改めさせたかったか。いずれにせよ、それであんな口を叩くんだからイカれている。

「……思ったよりも酷いな」

 包帯を解いてみて、思わず顔をしかめた。

 拳の外側で殴打するという典型的な下手糞の殴り方をしたんだろう。小指と薬指の付け根周辺が赤黒く変色している。指も変形は見られないが、痣というには不自然に腫れ上がっていた。

 それに釘で貫通した傷口から、血に混じって白い突起がかすかに見えた。中手骨に突起などないはずなのに。

「んー、手の真ん中あたり、薬指に繋がってる所が折れている感じですかね。指の方はヒビで済んでそうですけど」

 これが他人の手だったとしても、普通ここまで冷静に診断したりしないだろう。僕だってげんなりしているのに。

「……言っておくけど僕に医療の心得はないから、本当に病院行かないなら、どんな治り方しても知らないよ」

「そんな事言いながら、ちゃんと治しはするつもりで言ってくれるの、嬉しいですね。ま、ひどい感じになるとしても、それまでに死ねるよう努力してみますよ」

 努力の方向性が間違っていると思ったが、そもそも僕らの目標地点がそこだった。

 カイネの手を改めて止血しながら、ありあわせの固定具を添えてきつくテーピング。二本の指も動かないよう曲げた状態で固定する。昨夜から色々使い込んで、今後も替えが必要になるし、買い足しておかないと。

「君があそこまで言うぐらい、挟倉って本当に上手いんだね。僕は聴いたことなくて」

「ええ。シノさんと初めて会った時、川にポイしたスマホが鳴っていたんですけど、聴こえてました?」

「うん。やっぱり、挟倉が演奏した曲? 何の曲かはわからなかったけど」

「曲名なんてないですよ。即興で弾いてくれたのを録音したやつですから」

 挟倉がなる事を望んだ手を見下ろして、カイネは寂しそうに笑う。

「あの人のピアノ、本当に好きだったんです。情感が乗ってる、っていうんですかね、ああいう感じ。本人は割といつも仏頂面ですけど。もちろん技術的にもすごくて、ノリだけでなんでも弾けちゃうし。クラシックもジャズもロックアレンジも、なんでもござれです」

「そんなに推すなら、僕も聴いてみたいな。死ぬ前に一度ぐらいは」

 思えば風璃があんなにも食い下がるのも、それほどの実力を知っているからか。

「そういえば、僕のクラスにギターやってるのがいるけど、挟倉をバンドに誘ってたな」

「わぉ、いいですね。あの人の普段使いは縦型アップライトピアノでしたし、キーボードやシンセもいけると思います。鍵盤なら応用するぐらい朝飯前ですよ」

 カイネは、まだ遥空の出てこない洗面所を見て、小さなため息をついた。

「……本当に、馬鹿ですね。手の届くところに、もしかしたら生き甲斐になるかもしれないものがあるのに」

 それは生き甲斐もなく、求めてもいない僕達への皮肉にも聞こえた。

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