3-3.虚影な邂逅
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午前中は黙々と課題の消化にあたった。
一応は本人に問題を解かせ、理解出来ていない解法だけ口を出す。いずれ僕が手を貸す事は出来ないようになるから、自力でやる力を少しでも身に付けてもらわないと。
この家庭教師みたいな状態は結構暇なもので、かといって遥空の割と絶望的な成績に表れている学力の前では、他に何か出来るほど手が空くわけでもない。
真綿で締めるように襲ってくる眠気に抗うため、遥空に必要だろうとカイネが大量に買い込んできたエナジードリンクを僕も頂戴するハメになった。多分これ、全種類買ってきたな。
カイネは帰ってきてから部屋にこもったきりだ。本を読んで過ごしているのだろう。
午後になって遅めの昼食を作り始めると、カイネは部屋から出てきて僕のいた場所に居座り、遥空に時折なにか言葉を投げかけていた。
軽めにしておこう、とニンニクの代わりに生姜を効かせたペペロンチーノを三人で食べ、洗い物を済ませて戻ると、カイネから意外な申し出があった。
「引きこもっているのも退屈なので、私も課題手伝いますよ」
わざわざ断るような事でもない、のだが。
「何を手伝うって? カイネ、僕達より一コ下だったと思うけど」
「そうですよ? でも高校の履修内容ぐらいなら、だいたい頭に入ってます」
エナドリを片手に、なんでもない事のように笑って言った。
昼食の準備中、何をしているのかと思ったら、代わりに家庭教師役をしていたらしい。
「義兄妹だった頃も、私が勉強教えていましたよ。補修追試常連の人ですから」
「……歳下に勉強見てもらうのはどうかと思うよ?」
「うるせえ」
そうしてカイネが名乗り出たのでしばし傍観してみたが……感心してしまうまで、そう時間はかからなかった。
解答に詰まる一学年上の遥空へのアドバイスは的確で、教科書的な解法はもとより、問題の考え方までしっかり身に付けている。遥空の様子からしてカイネが高一なのは本当のようだけど、ならば学校に通っていたのはたった一学期だけ、おまけに死にたがりの不登校児に勉強なんて不要なはずなのに。
遥空が課題に向き合うのを見る傍ら、カイネは時々、シャーペンを握る彼の手を見ていた。
男としては華奢な手だが、指の付け根の周辺だけ皮膚が厚くなっている。傷が癒えてはまた傷を作り、いまも痣の痕が見て取れる手。
昔の不良漫画よろしく喧嘩に明け暮れている事を、彼女は知らないんだろうな。
様子見に徹している僕に気付いてか、カイネがこちらに目を向ける。
「私の勉強は、母に教えてもらったんですよ」
不意に、ベールに包まれていたものの片鱗が晒された。
「……そこまで教え込むなんて、ずいぶん教育熱心な人だね」
「んー、多趣味な人でしたから、その一つってとこですね。教えるのも、自分が勉強するのも」
遥空が目を逸らして舌打ちする。カイネの注意を持っていかれて拗ねた……という種類の苛立ちじゃないな。
その態度に、カイネは苦笑した。
「相変わらずですね」
遥空は不機嫌さを見せていたが、ふと何かに気付いて、深い皺を刻んだ眉間を揉みほぐす。
「いや、すまん。いまのは忘れてくれ」
そして何かを考え込むと、僕とカイネを交互に見遣った。
「偶然なんだろうけど、篠咲んトコ来たってのは、そうなってみると、しっくりくるな」
「……どういう意味?」
遥空は答えず、静かに課題に取り掛かる。
その後も課題を着々と進めた。
カイネが予想外に頼りになったので遥空の面倒は任せ、僕は夕食作りに専念でき、しっかり一汁三菜を揃えられた。豚肩ロースの照り焼き、炙り舞茸の柚子胡椒添え、芽葱の湯葉巻き梅肉のせ。一つ一つはそう手間暇かからないが、一通り作るとやっぱりそれなりの時間を食う。とはいえ二人の好みを考えながら作るのは結構楽しく、僕には息抜きになる。
「休日は良いですね。シノさんのご飯を三食いただけますから」
「そりゃいいな。うちなんか最近、昼メシ晩メシ全部牛丼屋だぞ」
「わぉ、いかにも男所帯って感じしますね。親子揃って食事に無頓着ですし」
「たまにこうして美味いモン食うと、結構ヤベェなって思うわ」
夕食を終えた後、片付けも僕がする事にした。遥空には少しでも課題をやらせたいし、カイネも手を怪我している。なんだかんだ周りの事は僕自身で全てやってしまうのが効率的だった。
洗い物の水音に混じって、二人の話し声が聞こえる。
「ノン、うちに来ようと思わなかったのか?」
「私がどう自己紹介したのか、もう忘れたんですか?」
一瞬なにかの聞き間違いかと思ったが、ノンとは以前のカイネの呼び名か。本名から取られているのだろうか。
なんだか盗み聞きしている気になるが、こっちの姿は丸見えなので、僕に聞こえても問題ない話なんだろう。
「悪い、こういうの懐かしくて、うっかりしてた」
「私に会った事、言い触らさないで下さいね」
「……わかってる。親父にも言わねぇ」
「恩に着ます――私も最初は、挟倉家に頼ろうかと思ったんです。でも、この近くまで来たところで、虫が良すぎるな、って思いまして」
遥空の家は、ここの最寄り駅からほんの数駅、しかも駅区間の短い都内だ。その気になれば歩いても充分行ける距離にある。
にしてもカイネがどこから来たのかは知らないが、やはり駅の利用はなるべく避けているのか。目的地があったならこの近辺にいたのはおかしいから、徒歩で向かっていたんだろう。
「虫が良いって、そんなわけあるかよ。それに……既読つかないのはまだしも、電話かけたら急に切れて繋がんなくなったから、めちゃくちゃ焦った」
「それは…………そう、ですね。ごめんなさい」
急に切れた、か。あの日川に投げ捨てたスマホにかけていたのは、やはり遥空だったのか。
「でも、あたなはともかく、あなたのお父さんには頼れません。ちゃんとした人ですから」
「…………」
「さ、とっとと済ませちゃうよ」
洗い物を終えた僕も加わる。このまま課題消化が滞るのは誰の本意でもない。
午前中から夕食時まで延々何時間も続けていて気付いたのは、遥空は学力自体には難があるものの、かつては演奏で発揮したのであろうずば抜けた集中力だ。時々小休憩を挟む程度で、ペースを落とす事なく朝からぶっ続けで取り組んでいるのだから、エナドリ補正を加味しても相当なもの。
そしてその集中力が切れている状態というのも、なんとなくわかるようになってきた。
今のように。
遥空は、何にそんな気を取られている?
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