3-2.虚影な邂逅

          ●

「悪ィ、変なトコ見せた」

 目にはまだ赤が残っていて、詫びる声も詰まっていた。

「んで……どういう事なんだ? なんであいつが、篠咲ん家に居候なんかしてる?」

「訊きたいのは僕もだよ。挟倉は一人っ子だって前に聞いたけど」

 話題の中心であるカイネは眠気も吹き飛んだらしく、いつも通り歯を磨いて顔を洗い、いまは自室に着替えに戻っている。

「……中学ん時に親父が再婚して、義理の兄妹だった時期があんだよ。短い間だが」

 昔に母親を亡くした話は聞いたことがあるが、再婚の件は初耳だった。

「それだけ? さっきの反応、久しぶりに会ったから、なんてレベルじゃなかったよね」

「…………」

 遥空は答えず、眉間に深く皺を寄せた。言うのを迷っているのか、別の何かか。

 カイネが部屋から出てくる。ラフな外着と、外出用の帽子と眼鏡を身に着けて。

「ん、出かけるの?」

「煙草が切れそうなので、ちょっとコンビニまで。それと朝ごはん食べ損なっちゃいましたから、おにぎりでも買ってきます」

「俺も行く」

 立ち上がろうとする遥空を、カイネがやんわり制した。

「課題をしに来たんでしょう? ちゃんとやらなきゃダメですよ」

「……俺も、腹減ったんだよ」

 歯切れの悪さはいかにも言い訳っぽかった。

「たまごツナサンド、ついでに買ってきますよ。あれ二つ一緒に食べるの、好きでしたよね」

 小さく笑ってみせると、カイネはひらひら手を振って出て行く。

 玄関が閉まる音を聞き届けると、遥空は柔和な笑みを浮かべた。そういう表情は、つるむようになって初めて見た。いつも仏頂面だから。

「よく憶えてんなぁ。帽子とか眼鏡とか、らしくねーけど、似合ってんじゃん」

 初めて見る嬉しそうな顔には覚えがあった。僕には無縁だけれど、周りではしばしば目にする、共通項のある表情。

 スマホが震えたので見てみると、外に出たばかりのカイネからメッセージが届いていた。

『私が死にたいと思っているのを彼は知りませんから、秘密にしてくださいね』

 念の為、ってところか。当然の事だし、僕も同じだ。

「……あー、あのさ、あいつ、居候してるっつーけど、なんつか、その、篠咲とは――」

「気になる?」

 頭を掻きながらそわそわする遥空に、ついからかうように言ってみたら、口をへの字に曲げた。思わず笑ってしまう。友人の珍しい一面を見るのは、素直に面白い。

「本当にただの居候。挟倉が気にしてるようなのはないよ」

 事に及んでいないだけ、とも捉えられる実態は、伝えない方がいいだろうな。

「そ、そう、か……そんな気にしてるように見えたか?」

「すごく。正直意外だったけどね、挟倉がアオハルしてるの」

 野暮な話だけど、常に気だるげな仏頂面で、幼馴染の先生と爛れた関係を持っているのだから、こういう年相応な部分は本当に意外だ。

「うるせえ。新しい家族っつって顔合わせして、一目惚れっつか……ぬぁ、ハズいワードだな」

 義妹相手に、か。カイネがその頃からあんな振る舞いだとしたら、色々大変そうだ。

 だがそうなると、何もないとは言っても、僕が一つ屋根の下に住んでいる現状は気がかりだろうな。

 遥空に、カイネが居候するに至った経緯を説明する。もちろん、互いの自殺についての協力関係は伏せて、あくまで宿無しの彼女を善意で住まわせている、という体で。

「あいつと会った、その日って……」

 聞き終わった遥空は何かを考え込み始めたが、結局その続きは言わなかった。

 カイネと出会った日に何かあっただろうかと思い返してみると、ふと引っかかった。

 初めて言葉を交わす前、彼女はスマホを川に投げ捨てた。着信音であろうピアノの旋律を鳴らすスマホを。

 ……あれが遥空からの電話だったとは限らないが、言わない方がいいだろうな。少なくとも、自ら連絡手段を断った理由を知らない間は。

「……でもま、あいつなのは色々アレだけどよ、いまお前に、同居人がいて良かった」

「ん?」

「お前の親が死んじまった時、借りある癖に、俺は何もできなかったし。あれから家じゃ、ぼっちだったろ」

 その事について、親戚以外では遥空が一番気にかけてくれていたように思う。彼自身、母親を失った事があるから。

「ま、たしかに一人でいるよりは楽しいよ」

 昨晩のような、何をしでかすかわからない気苦労はあるけど、前向きに見ればそれも一人では経験しえないものだ。

「ところでよ、カイネって名前、あいつが自分で言ったのか?」

「そうだけど。多分、即興の偽名」

「そか、センスねーな。あいつの本当の名前って――」

 おかしそうに言う遥空を「待った」と手で制する。

「ここに住み始めて三週間ぐらいになるけど、僕が知ってるのは、カイネっていう偽名と、僕らより一つ歳下って事だけ」

 細かい部分を挙げればキリがないが、プロフィールとして知っているのは、本当にそれだけ。

「コンビニ行くだけなのに、わざわざ帽子かぶって伊達眼鏡かけてたのは見たでしょ。カイネは素性を隠したがっているし、そのスタンスも徹底している。今日の事で気が変わるかもしれないけど、それでも挟倉の口からあの子の事を聞くわけにはいかない」

 むしろ、希死願望も含め核心的な部分は遥空も知らないのだと信じたい。

 遥空は少し黙考したのち「そうだな」と神妙に頷いた。

「さておき、そろそろ課題始めるよ。カイネが帰ってきてまだ手も付けてなかったら、僕まで怒られるかも」

「……課題、やる気分じゃねえなー……」

 背もたれに深く身を預け、完全に脱力した様子で天を仰いだ。気持ちはわかるが。

「そんな気分になった事ないでしょどうせ。挟倉が後輩になるのはなんか嫌だし、お父さんの心労を増やすものじゃないよ」

「……だー、これ以上親父に迷惑かけらんねえしなー……」

 とりあえず簡単なのから手を付けていくか、と現代文のノートを広げて一応は着手する姿勢を見せながら、「なあ、いっこだけ」と遥空が口を開く。

「あいつ……カイネ、手に包帯巻いてたろ。怪我でもしてんの?」

「うん。それがどうかした?」

 いやまあ、気にはなるか。寝る前に包帯とガーゼを替えて、就寝中に傷が開いたという事もなかったようだから、血も滲んでいないし大きな怪我には見えないと思うが。

「怪我したのって、いつ頃だ?」

 一瞬、答えに詰まる。つい昨晩の事だが、自傷したのだとは話せない。

「お前と会った時には、もう怪我してたか」

「……? いや、最近の事だけど」

 会った時って、この家に来た日か。包帯を使うような怪我なら、たしかに治るまで時間はかかるが……

「そか。なら、いいや」

 そう言って、一応は真剣さを取り戻して手元に目を落とした。なんだったのだろう。

「……いや、良くねえよ。なんで怪我したんだ」

 その切り替えに若干呆れつつ、適当にでっち上げた。食事を作ってくれようとして包丁でうっかり、と。

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