2-3.日常と傷跡

          ●

 二学期が始まって数日、夏休み明けの気だるい空気もなりを潜めた頃。

『呼び出し食らった。とりあえず学校行く』

 遥空からそんなメッセージが届いた。

 しばらく会っていないし、様子を見ておこう。放課後にそう思って『いまどこ?』とメッセージを送ったのだが、教室で適当にだべって時間を潰しても、既読がつかない。

 気になって遥空のクラスを覗いてみてもいなかったし、見知った生徒に訊いてみると、放課後になってどこかに行った、としか情報はなかった。

 フロアロビーのベンチで、行先を考えてみる。呼び出しを受けていてスマホを見れない状況となると、職員室か生徒指導室か……あるいは単に音楽準備室で話し込んでいる、もとい説教されている最中か。

「お? そないトコでなにしてん」

 顔を向けてみると、ギターケースを背負った長身がいた。

「ん? ああ納羽か。ちょっと挟倉を探してて」

「そいや今日来とるらしいな。まだ学校おるんなら、ねこちゃんのトコちゃう?」

「先生といえば、こないだ文化祭の話をしてたね。これから練習?」

「せや。今日ねこちゃんがご馳走してくれるんやけど、ダンナさんも連れて来てくれるらしいねん。ダンナさん音楽業界の人らしくてな、挨拶代わりゆーて、ツテのあるスタジオ貸してくれるんやと。これからそこで練習や。気合入るで」

「ずいぶん気前がいいね」

 けど少し心配にはなるな。奥さんがいるとはいえ、女子高生に密室になりえる場所を気軽に提供するのは、裏があるんじゃないかと勘ぐってしまう。他のメンバーもいるだろうし、杞憂かもしれないけど。

「なぁなぁ、挟倉と話すんやったら頼みあんねんけど」

「バンド勧誘の話?」

 やる気に満ちた目で、風璃は頷いた。

 二年になった時のクラス替えで一緒になってから、度々頼まれている事だ。

 風璃本人が頼んでも断られるし、最近では顔を見るなり逃げられるのだとか。僕から言ってみても成果を得たためしはないのだけど、たしかに遥空には、めげずに粘るだけの華がある。

「挟倉が乗ってくれたら、なんかええもん奢ったるさかい。ほんならまたな!」

 ぱたぱたと階段を駆け下りていくクラス委員を見送って、僕もベンチを立つ。

 一応用事も出来た事だし、遥空を探すか。



 部活もないらしく、音楽室の前の廊下は静かだった。

 準備室の扉をノックし、開け「あれ?」ようとしたのだけど、鍵がかかっていた。

 ここはハズレだったか、と思ったのも一瞬。中から慌ただしい物音と、先生の慌てた声が聞こえてくる……あー……。

「え、ちょっ、わたしまだ……!」

 悲鳴じみた声の後、鍵の開く無情な音。中から出てきてすぐ後ろ手に戸を閉めたのは、長身痩躯で剽悍な印象を受ける男子生徒、挟倉遥空。女性向けの漫画からそのまま出てきたような整った容姿もあって、色々と学校内では有名人だ。

「すまん、待たせた」

「よく僕だってわかったね」

「声が聞こえたからな」

 思わず漏れてしまった程度の、扉越しじゃ聞こえるかも怪しい小さな声だったのだが、あれだけでよく判別したものだ。

「……出直した方がいいかな?」

「俺がしたかったわけじゃねえし、篠咲が優先だ」

 そうは言っても、間が悪かったな……先生に次会う時、顔に似合わない鋭い眼差しで睨まれる事になる。

「なら、返信ぐらいしてよ」

 急いで着直した感が溢れる制服をまさぐった遥空は、急に踵を返して準備室に戻り、先生の怒り気味の叫びを背にすぐ戻ってきた。中でスマホを落としていたのか。

「悪い、気付かなかった」

「顔ぐらい見ておこうと思っただけだし、いいよ」

 頭半分は高い遥空を見上げる。結んで誤魔化しているけど、長い髪の無造作感が増したな。

「ずいぶん日焼けしたね。それと、少し痩せた?」

 端正な顔立ちは元から陰があったけど、いまは加えて疲労も見て取れる。

「……最近、外にいる時間が長いからな」

「バイトか何か始めたの?」

「そうじゃねえんだが……あー……すまん、上手く説明できない」

「別に詮索するつもりじゃないからさ。停学とかじゃなくてよかったよ」

 戸が開いて先生が姿を見せると、わざとらしく咳払いする。ついでにすんごい睨まれた。

「……立ち話するなら中でしてもらえる? 鳥井とりい先生は、教頭先生に押し付けられた雑用でもう少しかかると思うから」

 鳥井先生というのは、遥空のクラスの担任だ。多分、呼び出したのも鳥井先生だろう。

 頷いて中に入ると、換気のためか窓を開けられていたけど、まだ湿った匂いが残っている。

「久しぶりなんでしょうけど、学校でするのも程々にしたらどうです?」

「……篠咲くんがドライな子で助かってる、ホント」

「学校ですんのが好きなんだろ」

「ハルくんはもっと危機感を持ちなさい。篠咲くんにバレたのだって君のせいなんだからね」

 割と本気めな肘鉄が遥空の脇腹に刺さった。

 この二人は、いわゆる幼馴染なんだそう。

 先生が学生時代に通っていた音楽教室を開いていたのが遥空の母親で、講師と教え子という以上に、歳の離れた姉妹のように仲が良かったのだとか。

 その縁で遥空も幼い頃から親しいそうで……今は、こんな関係である。前に風璃も口にしていたが、一応は教師と生徒であり、先生は既婚者だ。

「家だとまずいからじゃ? ホテルだって顔見知りに見られるリスクを防げないだろうし」

「いや、ネコん家でも全然してるけど。旦那いる時でも」

 余計な事を言うな、とばかりに先生は嫌な顔をして、肘をもう一発入れた。

「……夫とは、お互い都合がいいから結婚しただけ。同居人としては結構仲良いと思うけど」

「にしても、不倫はいかがなものかと」

「そもそも夫はゲイだもの。お互いの事情に干渉なし。向こうも愛人いるけど、たまに家に来てわたしとも一緒にゲームで遊んだりしてるよ」

 ……こんな話、遥空との関係を知っている僕以外の生徒には聞かせられないな。風璃も含めて、ゆるふわ癒やし系だと思っている皆の心に穴が空いてしまう。

 ていうか、そうか。さっき風璃と話していて抱いた懸念は杞憂だったか。

「それって、前行った時にいた奴か? 八月頭ぐらい。格ゲーめちゃくちゃ強かったけど」

「うん、その人だよ。知らなかったの?」

「全然。道理で距離近いし、やたら触ってくると思った」

「……オッケー、夫に相談しとく」

 最近はカイネのせいでその辺麻痺してきたと思っていたけど、この会話が違う世界に思える程度にはまだ常識的なようだ。

 廊下の方から、校内放送のアナウンスが聞こえた。

 鳥井先生の声が、遥空に生徒指導室に来るよう告げる。

「……めんどくせぇ」

「ちゃんと行かないとダメ。あの人も主任で気苦労多いんだから。ハルくんのせいで」

 頭を掻きながら準備室を出ていこうとする遥空の背に「そうそう挟倉」と声を掛ける。

「納羽から伝言あるんだけど」

「断る」

 即答して出て行った。まあ、こんなやり取りも慣れたけど。

「先生、納羽に色々取り計らってるみたいですけど、あの人は巻き込まないでやって下さいよ」

「わかってるってば。ハルくんはあんなだし、君さえうっかりしなければ大丈夫だよ」

 そんな事より、と先生が見上げてくる。

「篠咲くんて、ふぅちゃんと結構仲良い?」

 ……童顔なのもあって、そんな興味津々な目を向けられると、同世代と話している気になる。

「悪くはないですけど、先生が期待しているような種類じゃないですよ」

「んー、篠咲くんには期待してないけどなー。んふふふ」

 薄々察してはいる。意識されている程度で、強い熱を持っているわけではないけど。

 風璃は健気で健全だ。先生に爛れた事情を見せて巻き込むなと言ったけど、僕の事情にも巻き込むわけにはいかない。

「……本人いない所でそういうの、良くないですよ」

 先生への用事はないし、不完全燃焼の憂さ晴らしにこれ以上イジられるわけにもいかないので、僕も音楽準備室から早々に退散した。



          ●

 遥空と出会ったのは、高校に進学して一ヶ月後ぐらいの頃だ。

 彼は入学当初から有名人だった。

 一つは、その端正な容姿。整っているだけでなく凛々しさと儚さが同居した、現実感が欠如しているようにさえ見えるルックスは、それだけで校内の大半の女子の興味を惹く程だった。

 二つ目は、元ピアニストという経歴。それも天才少年と持て囃される程の。目を引くための誇張もあったろうが、音楽誌では幾度も特集を組まれ、テレビのような映像媒体に出た事もある。それでいてメディアの取材には無頓着で、演奏することにしか興味を示さない態度は、ストイックな姿勢だと好意的に受け取られていた。

 尤も、高校に入る頃には既にピアノを辞めていたそうだが。その理由は誰も知らない。多分、古くから親交がある先生を除いて。

 そして最後の三つ目は、遥空を持ち上げていた皆が一斉に距離を置くようになった、暴行事件。入学後一ヶ月頃に起こったそれは、僕との交流が始まったきっかけでもある。

 その頃僕は、新しい人間関係の構築もおおまかに終わったところで、高校生になった事で行動範囲が自然と広がったのを良い機会と捉え、暇を見て色んな場所を散策していた。

 散歩趣味、と言えば印象も悪くないのだろうが、実際のところ、自殺に適した場所がないかと物色していただけ。

 その日は、自宅の最寄りから数駅の地域で、なるべく人目につかない場所をうろついていた。

 車もほとんど通らないだろう細い路地にある、誰が使うのかわからない定数二台のコインパーキングに、彼はいた。

 点々と散る血痕。骨の乾いた硬さと肉の湿った柔らかさが混ざった嫌な音。駐車場の隅で誰かに馬乗りになっている、同じ制服の何者か。赤く濡れた拳を、釘でも打っているような作業感で振り上げては下ろし、鈍く生々しい音を立てていた。

 後ろ姿だったけれど見覚えはあった。なにせ学内で知らない人間などいない有名人だから。

 名を呼ぶと、彼は手を止めてゆっくり振り返った。返り血を浴びた虚ろな目。まだ面識はなかったが、僕の制服に気付くと少しずつ焦点を取り戻していった。

 挟倉遥空は血塗れの拳を見下ろすと、感覚を確かめるように開閉した後、己が跨る相手に目を向け、驚いて飛び退き尻餅をついた。明らかに動揺していた。

 殴られていた相手はとっくに意識が飛んでおり、顔面が砕けている、という妙な表現が適していた。素人目にも相当危険な状態で、手を止めるのが一分でも遅れていれば、おそらく終わっていた。

 そんな状態だったにも関わらず、遥空が保護観察どころか退学にもならず、停学で済んだのは奇跡的な幸運だろう。

 半殺しにされたのは同い年の少年で、彼の親に遥空を咎める気がなく、色々と働きかけてくれたからだそうだ。

 痛みを知らずに育ち、素行に問題を抱え進学せずに中卒のまま、とあるヤクザなテレビゲームに影響されて、路上の喧嘩で金を巻き上げて生計を立てるのだ、と馬鹿馬鹿しい事を抜かしていた息子に頭を悩ませていたのだとか。

 かといって当然、子に重傷を負わされたのだから感謝されたわけでもなく、相応のけじめは付けることになったが。

 たまたま遭遇してしまった同級生による暴行事件の、結果の方はそんな感じだ。

 経緯はというと、前述の事からもわかるが、少年の方から通りすがった遥空に因縁を吹っかけてきたらしい。カツアゲ、ないし強盗のために。それがあっさり返り討ちとなり、あの惨状に相成った。

 初めは正当防衛だったのだろうが、何故あそこまで徹底的に、相手が死にかけるほど痛めつけたのか――その理由は、僕もまだ知らない。

 後日、遥空は僕のもとを訪ねてきて、深く頭を下げた。

「あん時、篠咲がいてくれなかったら、一線越えてた」

 元ピアニストは頭を垂れたまま、包帯を巻いた手を強く握り締めた。

 相手が死にかけるほど殴ったのだから、保護具すらない手指が無事なはずもない。そんなに力を込めたら痛むだろうに。

「デカい恩だけど、必ず返す」

「たまたま通りかかっただけだから、気にしなくていいのに」

「よくねえ。おかげで人殺しにならずに済んだんだ。篠咲のいうことなら、なんでも聞く」

 大袈裟だと一笑に付せないのはよくわかっているけれど、ここまで律儀なスタンスを取られると、どう対応したものか困る。

 ――なら、僕の事を殺してくれる?

 僕の死にたいという思いは、あくまで自殺という自己責任で自己完結すべきだけれど、それを背負ってくれるというのなら、他人に任せるのもやぶさかじゃない。

 ちらっとそんな事を考えはしたが、人殺しをせずに済んだと謝意を示す相手に人殺しを頼む、なんていうのはあんまりだ。

 ともあれそんな形で、僕と遥空の奇妙な友人関係が始まった。同時に、学校内において遥空の友人と呼べる存在は、僕以外にいなくなった。

 この暴行事件を反省したかと思いきや、遥空は時折治安の悪い地域、いまだに暴走族なんてのが粋がっている場所に赴いては、今度は自ら喧嘩を売り回るようになった。

 一応相手は選んでいるらしい。大怪我さえしなければ禍根を残さない人間というのは、なんとなくわかるのだとか。そして大怪我には至らない加減と冷静さを、あの事件で覚えた。

 日々殴り合いをして過ごす高校生とか、いつの時代のヤンキーだという話だが。

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