2-2.日常と傷跡

          ●

「おかえりなさい。結構遅かったですね」

 帰宅すると、リビングのソファで寝転がっていたカイネが、起き上がりながら文庫本をぱたんと閉じた。今日は終業式だけだが、遅くなる旨は連絡しておいた。

「久しぶりに集まったから盛り上がってさ」

 ま、カイネとの約束もあるし、今後は控えめになるだろう。

「何して遊んでたんです?」

「昼食がてらファミレスでだべって、ダーツとビリヤード行って、カラオケで解散」

「結構充実した高校生やってるんですね。ちなみにカラオケでは何を歌うんですか?」

「特にこれっていうのはないな。流行してるのを適当に。カイネは?」

「新宿系」

「……世代的には結構渋いね」

 自室に入って着替えてから出ると、ソファの背もたれに顎を載せたカイネが見上げてくる。

「それで、理想の死に方のヒント、見つかりました?」

「そう簡単に見つかったら苦労しないよ」

「今度、私とも遊びに行きましょうよ」

「気が向いたらね」

「あ、そういえば報告です。お腹が空きました」

「……はいはい」

 遊び疲れても家でやる事は変わらない。家事をして、体を休ませ、自殺について考える。



 体をほぐす心地よい熱が全身から染みてくる。

 まだ気温の高い九月、いつもならシャワーだけで済ますのだが、暑いと思って作った夕飯が冷製パスタだった上、外から帰ってきたばかりの僕に気を利かせてカイネが冷房を強くしてくれていたものだから、冷えすぎてしまった。

 そんなわけで、湯船に使ってリラックス――の、はずだったのだが。

 ガララ、と戸が開く。

 目が合ったカイネは挨拶代わりとばかりに微笑むが……せめてタオルとかないの?

 そのまま何事もないように椅子に腰掛け、シャワーを出して身体を洗い始める。

「……使用中の掛札でも買ってくるべきか」

「たまたま、入ろうと思ったタイミングにシノさんも入っていただけですよ」

「待つという選択肢は?」

「遠慮する間柄でもないと思いますよ?」

 恩着せがましくするつもりはないので言わないが、居候だと忘れているんじゃなかろうか。

 しかしどうしたものか。さっさと上がってしまうべきなのだろうけど、いささか癪だし、もう少し温まりたい。

 ……とか考えている間にカイネは身体を流し終えた。「あ、ちょっと場所空けてください」と、僕の両脚を開く形で押しのけて、その隙間に入り込み、僕を背もたれにしてくつろぎ始める。すぐ鼻先で、風呂上がりとも違う、シャンプーそのものに近い洗いたての匂いがした。

 早い段階からわかってはいたけど、やはり距離感がおかしい。

「ふぁあ……温かいと幸せな気持ちになりますよね」

 完全に脱力して言うカイネに、僕は上がるのを諦めた。もう手遅れだ。

「いま死ぬとか言わないでよ。色々困るから」

「これぐらいの幸せで死んでいたら、命がいくつあっても足りないですね」

「……カイネってさ、幸せな時に死にたいって思ったきっかけ、何かあるの?」

 ふと湧いた疑問。自然な情動であって、別にきっかけなどなくても不思議ではないのだけど。

「んぅー? ああ、ありますよ。中学の時、同じクラスの子に告白されたんです。私のことを好きだって」

 記憶を探っているのか、天井を向いたカイネの濡れた髪が、首元をくすぐってくる。

「でも、少し変な告白でした。付き合って欲しいとかじゃなくて、迷惑じゃなければキスして欲しいって」

「……それで?」

「しましたよ。軽くですけど口に。別に迷惑でも、減るものでもないし」

 この状況からもよくわかるけど、そういう事にはとことん抵抗がないらしい。

「すごい驚かれちゃいました。おでこかほっぺにダメ元で、と思っていたみたいで……でもすぐ、私の方が驚かされました。ありがとう、って泣き始めたんです。断られると思ってたから嬉しい、って笑いながら。その表情が……とても可愛くて、とても幸せそうで、とてもびっくりしました」

「とても伝わってくるよ。カイネの語彙力がそんなに死ぬなんて」

 しかし何だろう。聞いていて微妙に違和感があるのは。

「それが、きっかけ?」

「もうちょっと続きがあります。その晩、告白してきた彼女は死にました」

「え」

 二重に驚く。ごく普通に話していたけど、告白してきた相手というのは女子だったのか。そしてこの流れから、訃報になるとは。

「その子、いじめられていたみたいで。見た目とか性格とか、諸々で。同性愛者というのもネタにされていたのかもしれませんね。家庭環境もひどいものだったようですし、逃げ場のない鬱屈に飲み込まれたんでしょう」

「同じクラスだった割に、結構曖昧だね」

「私もそこに転校してから大して経っていなかったもので。さほど接点もありませんでしたし、ほとんど後から聞いた話です。だから勝手な想像ですけど、告白したのは、フラれて自分の世界を真っ黒に塗り潰して、満を持して死にたかったんじゃないかと」

 カイネですらよく知らないその少女を僕が理解できるわけもないが、きっとその通りなんだろうな。百の苦痛、千の悲哀、万の絶望に苛まれようと、たった一つでも生きていたい理由があれば、縋ってしまうものだ。それが、片想いの相手がいる、という事だけでも。

「実際、死ぬ直前、遺書の写真がSNSにアップされていました。結構エグい内容の」

 遺書の写真……?

「それ、僕も見たことある気がする。二年ぐらい前、拡散されて話題になってた」

「よくご存知ですね。それで合ってると思います」

 よその学校での出来事だからすぐ下火になったけれど、よく覚えている。

 なにせ、すごいものを見つけたと無邪気に盛り上がっていたクラスメイト達が、朝のHR前に皆で集まって読んで、その日の間、陰鬱な空気を撒き散らしてほとんど喋らなくなってしまった程だ。

 人間、大なり小なり同調してしまう生き物だ。画面越しの文字の羅列、呪詛じみた怨嗟を綴った、黒に黒を塗り重ねる凄惨な生き地獄にも。

 断崖絶壁の向こうにしか逃げ道がない生き方に共感すれば、僕も踏み出せるだろうかと当時は考えたものだ。けれど深く浸れば浸るほど、僕が生きているのは何故なのかという感覚を覚えるだけだった。所詮、苦しみの質が違うのだ。腐敗した茨の檻に閉じ込められた囚人ではなく、僕などただ陸で生きようとする魚のようなものでしかない。

「でも、拡散された遺書は原本とちょっと違うんです」

「どういう事?」

「投稿された後、書き足されていたんです。私も直接目にしたわけではないんですが、最期に生きてきて良かったと思えた、というような事が書き添えられていたそうです」

 ……もしもその少女と話せるのなら、彼女にとってカイネはどんな存在だったか、訊いてみたいな。純粋な興味として、そんな小さな幸福の運び手をどう思っていたのかを。

「不思議なものですよね。少なくとも私の方は、あの子の事を何も知らないのに。好きな食べ物、好きな音楽、得意な教科、どうして私を好きになったのか。私は別に、心を通わせたわけでも、肌を重ねたわけでもなく、求められたからほんの軽く唇を合わせただけ。それだけなのにあの子は、生きていて良かったとまで言ったんですから」

「……たった一粒のイチゴの価値、か」

 生きるという事に蝕まれたその少女が、飽くほど味わった酸苦に上書きされてしまう前に、噛み締めている間に命を絶つのが幸福だと思える甘み。

「それを間近で知ったから、カイネは死ぬ間際に相応しい幸せを探してる」

「ええ。でもだからこそ、その正体が些細な気まぐれで、私にとっては価値がないとも知っています。ままならないものですね」

 愉快な話には程遠かったし、茫漠とした目的のために模索するしかないのだとしても、聞けて良かったと思う。

 長い話を終えたからか、カイネは組んだ両手を上げて伸びをして、湯船にさざ波が立つ。

「……そこであまり動かないでくれる?」

 今更ながらそんな事を言うと、彼女は小さく肩を震わせて笑った。

「やっぱりシノさんも変な人ですよね。不能ってわけでもないのに」

 確かめるように腰を揺すってくる。それをやめろと言っているのだが。

「後腐れもない都合の良い女が目の前にいるのに手を出さないなんて。もしかして、私のこと嫌いですか?」

「利害の一致があるからって、嫌いな相手を家に住ませるほど図太くないよ」

「それは良かったです。言われてみれば、嫌いだったらこうはなりませんよね」

 知らないけど多分そうだな。尤もカイネの場合、好悪感情など覆しかねないが。

「まあ私を使わないのはともかく、ご自分でもされていないようなので、気になったというか。シノさんの部屋にもそれらしい物はありませんでしたし」

「……漁ったの」

「シノさんが学校に行っている間、暇だったもので」

 悪びれもせずによく言う。見つかって困る物があるなら鍵ぐらい用意しておく。

「どうしてそんな事を気にするのさ。それで不満はない、って最初に言ってたと思うけど」

「不満はありませんよ。シンプルな疑問、ってだけです。ちゃんと機能してるのに抜かないのってしんどくないのかな、と。私には男の人の感覚、わかりませんから」

「いま君が圧迫してる状態がしんどいと言えばしんどい」

「これは失礼」

 などと小さく笑いながら、身を離してくれる気配はない。

「……ざっくばらんに言えば、心と体の不一致、ってところかな」

「トランスジェンダー的な?」

「性自認の事じゃなくて。お察しの通り、身体は健全な高校生男子そのものだよ。君の身体を見たり、素肌で密着されたら反応する程度にはね。でも僕の意識はそういう関心を持っていない。カイネの事は綺麗だと思っているけど、関係を持とうとは思わない。興味がないのは誰に対しても、だけどね」

「さらっと嬉しいこと言ってくれてますけど、無関心なのも寂しいものですね」

「……いや、いま自分で言ってて初めて気付いたけど、無関心は正確じゃないな。はっきり言って、僕は異性に関心を持ってしまう状況そのものを避けてる」

「身体は正直なのに?」

 だから、揺するなと。

「言い方。まあ、だからだよ。年頃で経験もない僕みたいなのは、基本的にチョロい。あっさり情が湧いてしまう」

「チョロそうには見えませんが……」

「実際どうかは僕もわからないけど、わからない時点で問題だよ。淡白でいられればいいけど、相手に溺れるようになってしまったらと思うと、恐ろしいね」

「生きている間はそれでもいいんじゃないですか?」

「僕をどう認識しているかは知らないけど、多分、カイネが思ってるより俗物だよ。イチゴが一粒だけなんて物足りない。もっと多く欲しいと思ってしまう。それは生きようとする、という事だ。生きていたくないと思っている僕が。一時的な心身の快楽のために、生きている限り続く苦痛を享受するなんて、ありえない」

 ようやく離れてくれたカイネが、立てた膝に頬杖をつく。

「……生きようと思えるなら、それはそれでいいと思うんですけどね。やっぱり変な人です」

 そして半分だけ振り返った彼女は流し目で僕を見て、艶やかに笑った。

「もし私が、死ぬこと以上に生きていくことに魅力を感じたら……手足がもげて五感の全てを失って、声さえ出せなくなったとしても、死にもの狂いで生きようとすると思います」

「それって生きていると言えるのかな……ていうか、例えが物騒すぎる」

「万が一、の話ですよ。死より生に惹かれることも、死体同然の生き様も」

 とまあ、話も一区切りついたし、長風呂しすぎて湯も冷めてきた。同じ事を考えていたのか、タイミングを合わせるでもなく、僕とカイネが立ち上がるのは同時だった。

 広くはない脱衣所で、互いに肘がぶつかったりしないよう身体を拭いていると、カイネがこちらを向いてじっと視線を落とす。

「そのまま上がるんです?」

「このままだよ。ほっとけば治まる」

「そういうものですか。ところでシノさんって意外と――」

「感想はいらない。セクハラだ」

「……意外といい体つきしてますよね、と言おうとしたんですが」

「…………お互い様だ」

「わぉ、シノさんがセクハラ発言するなんて」

「……冷房効いてるから湯冷めしないようにね」

 カイネの手にあるタオルを頭にかぶさせてゴシゴシやり、一足先に出ていく。

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