2-1.日常と傷跡
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カイネと出会って二週間が過ぎた。
彼女はいまも、この家で暮らしている。
鞄から大量の札束を見つけてしまった事は、まだ本人には告げていない。
全ての物事は知っておいて損はないというのが僕のスタンスだが、知られたくない人間がいるなら知るべきではない、という例外もある。
カイネが素性を隠している事に、多分あの大金は関係している。僕達は互いの目的のための協力関係を築いているに過ぎず、もし触れられたくない事ならば詮索する必要はない。遠くない未来に死ぬのなら些末な問題だ。そう思っただけ。
まあ、見えてしまう状態で放置していた無防備を晒したのはカイネ自身だ。それが意図的なものだったという邪推まではしないが、鞄の中身を知ってしまった事ぐらいは察しているかもしれない。
そんなこんなで二週間が過ぎてしまったが、彼女の事はまだよくわかっていない。
互いの課題も、現状進展らしい進展も見せていない。
そうして、可能ならば成し遂げようと考えていた夏休みも消化されていき、もう終わりだ。
「制服を着ていると、高校生なんだと実感しますね」
登校準備を済ませる僕に、カイネはそんな感想を漏らす。
「……にしても、自殺の計画を練っている人が、わざわざ学校に行くとは」
「学校は嫌いじゃないし、日常のふとした事から着想を得られるかもしれないからね。それに、休むようになって下手に心配されでもしたら、身動きが取りづらくなるし」
「そんなものですか。お昼はこっちで適当に済ませちゃって大丈夫です?」
「僕と一緒にいるわけじゃないんだし、自由にしてていいよ」
まあカップ麺とかで済ませ続けるようだったら、僕の弁当も兼ねてカイネの昼食を作っていく事も検討するか。
鞄を肩に掛けながら、彼女の部屋着姿を見やる。
「……わかってはいたけど、カイネは学校に行く気配ないね」
「私の制服姿、見たかったですか?」
「それは別に興味ないけど」
「つれないですね。ま、学校に行ったりして、下手に心配されでもしたら、大変ですから」
「ん……?」
「口が滑りました。いってらっしゃい」
有無を言わさない笑顔を向けられて、腑に落ちないものを感じながらも、玄関に手をかける。
「……いってきます」
珍しい事もあるものだ。出会ってからこれまで、身の上については一切の隙を見せなかったのに。二週間も同じ家で暮らしていれば、彼女なりの警戒も少しずつは解けてきたのか。
それにしても、言わなくなって半年経つこの言葉を、また言う日が来るとは。
●
降車駅のホーム、改札、学校までの道中、通用門に昇降口、教室までの廊下。通学路上の様々な場所で見知った生徒と顔を合わせる度、「おはよ」とか「おひさ」とか、軽く言葉を交わす。
まばらではあるがクラスメイトの集まりつつある教室でも挨拶をして、 自分の席に着く。すぐ近くでは賑やかなグループが夏休みの話題で談笑していて、僕にも話を振ってくる。
海行ったかとか、どこの夏祭り面白かったとか、彼女出来たかとか、そんなありふれた話の輪の中に、僕はごく普通に混じっている。
彼らも、ここまでに出くわした皆も、年が明けて程なくして両親を失った事を知っている。
当初はショックを隠しきれない僕をを遠巻きにするしかなく、接する事があっても心配そうにするばかりだった。しばらくして二人の死を吹っ切ると、少しずつ交友も回復していった。
……傷心も立ち直りも、そう振る舞っていただけという事は、誰も気付く事なく。
そんな皆を見下したりしているわけじゃない。むしろそういうのが正しい在り方であって、異質なのは、変わらずに空虚であり続ける本心を偽って見せている僕の方。
自分で言うのも変なものだけど、学校での僕は模範的な優等生だ。真面目で品行方正、成績上位の常連で、それでいて堅物でもなく、別け隔てなく人当たりは良い。わざわざ演じているわけじゃなく、これはこれで一つの側面。自然と形成された、一人の学生としても、なる気があるなら大人になっても、生きていきやすい人間。
生きていたくなどないのに。生まれた時から、ずっと。
人から褒められ、羨ましがられ、称賛の言葉を受ける度に、申し訳ない気持ちになる。
こんな、今すぐにでも灰になってしまいたい僕ではなく、生きていく事を望む大半の人々が、そうあるべきなのに。
人から貶され、嫌われ、侮蔑の言葉を受けるような人間だったならば、何の迷いも躊躇もなく宙吊りになれるかもしれないのに。
……そんな事を考えているうちに予鈴が鳴った。それぞれが自分の席に戻ったところで丁度扉が開いたが、入ってきた教師に疑問の声があがった。
「あれ、ねこちゃんどうしたの?」
「ちゃんと名前で先生って呼んでくださーい」
「
「
教師は小柄で縁無し眼鏡をかけた女性。担当教科は音楽。歳は二十六、と彼女をよく知る友人から聞いた事がある。容姿も性格もふわふわしたゆるい感じで、割と親しまれている人だ。中
「ワンちゃん風邪でも引いたの?」
ワンちゃんこと
「先生をあだ名で呼ぶのはやめてくださーい。えーと、ワン……犬飼先生ですが」
「ねこちゃんがワンってゆった」
「ハイ静かにしましょう。犬飼先生ですが、八月の上旬、なんとパパになりました!」
「おー!」とか「おめでとー!」という声や、拍手やら口笛やらが教室中からあがる。
「……ですが、奥さんの産後の体調が芳しくないそうで、看病も兼ねて、犬飼先生はしばらく育児休暇です。ので、その間はわたしが担任代理をする事になりました」
「ワンちゃん大変だなー」
「てか教師って育休取れるんだ」
「教師ってそんなホワイトなの?」
「こねこちゃんはまだー?」
「それセクハラだからね! あと先生! ……えー、まず始業式があるので体育館に――」
教室からまばらに出ていく中、スマホが震えたので中身を確認してみる。
友人からのメッセージだった。
『悪い しばらく学校行けない』
……あいつの事だから、また厄介事じゃないといいけど。
定型的な始業式を終えて、教室に戻り一通りの連絡事項が周知され、明日から本格始業という事で午前中に解散。
「あ、そうそう。現代文の夏休みの課題は犬飼先生が見てくださるので、クラス委員の人は集めて音楽準備室まで持ってきてください」
「ワンちゃん育休じゃないの?」
「教師に休日なんてないのです」
「ブラックじゃん……」
最後にそんな悲しい話をして先生が去っていく。
先程話していたグループと、メンツ揃ったの久しぶりだし遊びに行くか、という話になる。どこに行くか、まずどこで飯を食うか、意見を交わしていると、長身の女子が割り込んで来た。
「お邪魔すんで男子諸君、はよ宿題出しや」
「おー納羽、この後どっか行くけど一緒来る?」
「どっかってどこやねん。うちはコレ出したら女子会やっちゅーの」
「そっちも集まんなら合流してもいいんじゃん?」
「あんたの元カノもおるけどええ? めっちゃ喧嘩して顔も見たない、言うてたけど」
「……遠慮します」
風璃が両手に抱えたノートの山が高くなっていく。クラス委員は男女一人ずついるはずだが、一人で持つには結構な量で、つい口を挟んでしまう。
「相方は? 見当たらないけど」
「あのアホ、部活のミーティングゆーてソッコー出て行きよった」
……ふむ、まあ、丁度いいか。
「なら手伝うよ。半分ちょうだい」
おおマジか、と風璃が感嘆してくれた。何故か男連中も。
「こういうのがモテるんやで? あんたらも見習いや」
「篠咲てめー納羽の点数稼ぎか」
「先生にちょっと用事あるからついでだよ。後で合流するから、行先決まったら教えて」
●
「おおきにな、篠咲。さすがに全員分はしんどかったわ」
「どういたしまして」
半分と言いつつ七割ぐらいを受け持って、廊下を風璃と並んで歩く。
「ほんまにうちの点数稼ぎとちゃうん?」
からかうような口調で「イヒヒ」と笑いながら、僕の方を見てきた。
僕と目線が変わらないぐらいの背の高さを敬遠する者もいるが、風璃は男子と一部の同性に結構人気がある。芯を通したようなすらりとした体型、凛とした顔立ち、ポニーテールにまとめた艶のある長い黒髪。何かしらの道着が似合いそうな風貌だが、特に武道を嗜んではいないそう。
本人がエセと称する関西弁は、中学の一時期に親の都合で大阪にいたからだそうで、馴染もうと覚えている間に東京に戻ってきたのだが、喋りやすいからとそのまま使っているらしい。
そういえば、と思って視線を返しながら、風璃がキャスケットをかぶっているイメージを思い描いてみる。カイネがキレイ系なら風璃はカッコイイ系とも言うべき容姿なのでタイプは違うが、たしかに長い髪に帽子は似合いそうだ。
「本当に先生に用事あるついでだよ。それに僕、好みは年上の可愛い系だから」
別に、距離感の近い誰かさんの逆を言っている嘘、というわけではない。
「え、センセに用事って、口説きにでも行くん?」
「いやいや」
「あかんよ? 教師と生徒やし、ねこちゃん人妻やし」
それをあいつが聞いたらなんて言うんだろうな……ため息交じりに「ほっとけ」と目を逸らすのが目に浮かぶ。
「でもねこちゃん、ええなって思うのわかるわ。冬んなったら、一緒にこたつ入ってミカン食べたいわ」
「ああその感じわかる。和むよねあの人」
僕も最初は、先生にそんな印象を持っていた。それはそれで先生の素である事は間違いないのだけど、ある時期から、それが一つの側面でしかないと知っている。
失礼しまーす、と音楽準備室に入った僕達を先生はにこやかに迎えたが、僕に気付くと、笑顔にほんのわずかな緊張が走った。
「……あれ、篠咲くんってクラス委員だっけ……?」
「僕はただの手伝いですよ。あと、ちょっと訊きたい事があって」
「な、なにかな」
そわそわし始める先生を尻目に、既にいくつか並んでいるノートの山を追加する。
「そや、ねこちゃん、バンドのことで相談あんねんけど」
「あ、文化祭の? 今度時間作っておくよ。ご飯奢るから、その時にね」
「ほんま? ねこちゃん愛してる!」
風璃はデスクに座ったままの先生に抱きついたかと思えば、「ほんならまたなー」とすぐに退室していった。僕が用事あると言ったから、気を利かせてくれたのかな。
そうして音楽準備室に二人だけになると、先生の僕に対する警戒度が上昇する。
「別に言い触らしたりしません、と何度も言ってるんですが」
「……篠咲くんだからまだいいけど、バレてること自体が問題だもん。うっかり
先生と風璃は仲が良いし、そうでなくても風璃には知ってほしくない話だ。
「それで、訊きたい事って?」
「
挟倉
別のクラスだから、教師に訊くにしてもこの人は本来適切ではないのだけど、風璃以上に個人的な関係がある。色々と。それを知っているせいで、こういう状況だと警戒されてしまう。
「ああ、ハルくんのことね……停学とか、学校からの処分じゃないから、そこは安心して」
「そうですか」
「でも困ったな。わたしも、篠咲くんなら理由知ってるかなって思ってたんだけど」
先生は腕組をして、眉間に皺を寄せる。小柄で童顔なせいか、驚くほど似合わない。
「先生も知らないんですか。なら僕が知ってるはずもない」
「そうでもないよ。あの子、君には素直だもの」
「……まあ、否定はしませんが……」
一概にそう評してよいものかどうか。言う事を聞くという意味では素直と言えるが、そもそも友人という尺度が一般的に当てはまるのか疑問だ。遥空について知らない事は少なくない。
それに、学校に来れない理由を訊くメッセージを一応送りはした。だが既読がついてから返信はない。
「ハルくんのお父さんにも訊いてみたんだけど、教えてくれなかった。二週間ぐらい前から、朝早くに出かけていって、夜遅くになって帰ってくる、ってだけ。できれば好きにさせてやって欲しいって言われたから、多分なにかは知ってるとは思うけど」
「なんだか、もやっとしますね。変な事に巻き込まれてないといいですが」
「片親なぶんしっかりしたお父さんだから、放っておくって事は大丈夫だと思うけど……でもハルくんだもんなあ」
結局、お互い収穫なしか。
何かわかったら情報交換する、という形で話をまとめて、僕は音楽準備室を後にした。
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