1-4.苦楽の交差

          ●

 夕方になって帰宅し、結構歩いたので、コーヒーを淹れて一休みする。僕のはブラックで、カイネは砂糖もミルクもたっぷりの甘々テイストで。

「カイネって煙草吸うけど、電子式? じゃないんだね」

「加熱式、ですね。紙巻きの、この時代遅れ感が良いんじゃないですか」

 向かいのソファで煙草を燻らせるカイネの手元には、ついでに買ってきたワイン樽のミニチュアみたいなデザインの灰皿。カイネの趣味がなんとなく見えてくるな。

「さて、落ち着いてきたことですし、そろそろ真面目なお話、しときます?」

「……そうだね」

「ではシノさんから、心残りについて意気込みをひとつ」

 マイク風に握った手を突き出してくる。煙草を持った方で。どこが真面目だ。

 僕達が望む死について語ろうというのに、ノリが軽いものだ。僕としてもその方がやりやすいけど。

「心残りと言っても、未練とかそういうのじゃない。ただ、死に方が決まってないんだ」

「最初、死に方にこだわりがあるって言ってましたね。自殺方法って事です?」

「そうなるね。僕が死ぬ事で生まれる影響を、最小限に留めたい」

 カイネは怪訝そうな顔をして、突き出していた手を戻して煙草を口にやる。

「……正直、よくわからないです」

「あくまで、僕の個人的なこだわりでしかないからね。人が死ぬっていうのは、それが誰であれ、色んなマイナスの影響が出る。それこそ誰も名前を知らない世捨て人だって、少なくとも死体を処理しなきゃいけないって形で。身近な人間は悲しんだり、弔いも要る。社会人だったら仕事の穴埋めも必要になる。ほとんどの人死には対岸の火事だけど、その対岸じゃ大災害だ。僕は自分が死ぬ事について、なるべく小火で済ませたい」

「自分が死んだ後の事なんて、割りかしどうでもいいと思いますけれど」

「それもそうなんだけどね……死ねるのは一度きり、不満があってもやり直しは出来ない。失敗しても周りが注意を向けるようになるだろうから、リトライは難しくなる。だからなるべく、気になってしまう事は極力排除して、一度で済ませたい」

「それがシノさんの望む死に方、ですか……生きている今現在、何に躓いてるんです?」

「総合的に判断する必要があるから、一概には言えないけど、練る必要があるのは場所、時間帯、方法、ってところかな」

 ブラックの苦いコーヒーで、唇と舌を湿らせる。

 時間帯と場所は考慮すべき点が近い。決行を邪魔されない程度に人目につかず、それでいて死後さほど経たずに発見されるのが望ましい。方法については様々な点を考える必要がある。死に至るまでの苦痛が軽いに越した事はないが、主眼は死後だ。死体を目にする人のメンタルには配慮したい。

 飛び込み系は論外。影響を最小限に、という目的に沿わない。死ぬのは一瞬と思えば僕的には歓迎だが、僕が我慢すれば済む問題と、即死の惨状は天秤にかけられない。葬式向けに修復済みだったとはいえ、死因が脳挫傷か心臓含む内臓破裂かわからない状態だった両親を知っているだけに。ビルからでもそうだし、電車も遅延や運休が付随する。走行中の車に当たりに行ったって死ねるとは限らない上、法律上どうしても加害者が生まれてしまう。僕の我儘のために、他人に不要な責任を負わせるのは本意じゃない。

 なるべく原型を留める手段としては服毒が理想とも思えるが、実際難しいところだ。オーバードースは現実的ではなく、しっかり致死量を服用できるような毒性の劇物は、いち高校生には入手が難しい。昔流行ったらしい硫化水素のようなガス系も、世間で思われているよりは苦しむハメになるようだし、二次被害が厄介だ。死体も原型を留めていたって、異様な死斑が浮いていたりと、損壊とは別ベクトルでグロテスクな悲惨さを醸す。

 気長に構えるなら、フグでも釣りに行ってみるのも一興かもしれないが……フグ毒テトロドトキシンは作用機序が長く、呼吸困難を伴う神経麻痺を長時間味わう事になるのが懸念事項か。純毒を精製できるだけの技術を僕個人で持っていれば、充分選択肢に入るけど。

 それら全般を考慮すれば、昨日実行しかけたシチュエーションは結構理想に近い。

 縊死体の有様は、いかにもな自殺体というのも相まってインパクトは大きいが、スプラッタに比べれば少しはマシだと思うし、二次被害もなく、僕も楽だという点で優れていた。

 川に面した空家、というのも良い。場所という要素も重要で、発見が遅れてしまって音信不通な期間が生まれてしまうのは個人的に望んでいない。僕は本質的にこんな人間だけど、何かあれば心配してくれる人はそれなりにいる。どうせ訃報を届けるなら、無駄にやきもきさせたくない。その点、あの場所なら可視性が高く日中は目に付きやすいが、一転して夜中は暗闇に覆い隠されて実行しやすく、夜明けまではご近所さんをサイレンで叩き起こす心配も少ない。

 ……尤も、視界に収まる位置に留まっていたカイネには見つかってしまったが。

 あそこで断念した以上、こういう展開になったのは不幸中の幸いかもしれないが、それでも周囲に気を配らなかったのは留意すべき反省点だ。

 条件的には、あれ以上は望み薄のはずなんだけど。それでもあの時、求めてやまない彼岸を前にしても、何も感じなかった。こうじゃない、という疑問さえあった。

 何が引っかかっているのか、一日経ったいまでもわからない。無意識に引き止めるのは、何かが足りないからか、何かが間違っているからか、それすらもわからない。

 根本的に誤っているのだろうか?

 焦がれる死を、本当は望んでいない、とか。

 ……まさか。それはないな。いまこの時だって、死にたいという思いは変わらずに在る。

 この瞬間にも隕石なりミサイルなり落ちてきて、家ごと僕を消し炭にしてくれるなら本望だ。

「そもそも、シノさんは何故、死にたいんですか?」

「……そこは説明するのが難しいところ。上手く伝えられる自信はあまりないけど」

 別に、死にたいぐらい嫌な事があったとか、そういうきっかけがあったわけじゃない。両親の死も、本腰を入れて自殺の準備に取り掛かる発端にはなったが、それ以前からある希死念慮にはなんら関わりがない。

 昔から、記憶にある限りは物心ついた頃既に、生きていたくなかった。

 自分が生きている、という事そのものが、わけもわからず苦痛でたまらなかった。

 どこもかしこも生で溢れる世界に、僕が存在する事にひどい違和感が付きまとっていた。

 何かを見る事、何かを聴く事、何かに触れる事、何かを嗅ぐ事、何かを味わう事、何かを感じる事、何かを思考する事。僕の真ん中で心臓がどくどくと蠢き、この身の中を音もなく血が巡っている事。僕という生命に伴う何もかもが気持ち悪く、煩わしく、苦しく、辛い。

 まるで空飛ぶ鳥が、腐海の中でもがいて、息も出来ずに生きているような。

 生きてきてずっと、漠然とそんな感覚があるだけ。

 死を望む多くの人が持つような理由は、僕にはない。あえて言えば、そんなものはこの世に生まれ落ちた時から持っている。

 生まれつきの死にたがりである僕は、皮肉な事に、不幸とは縁遠い家庭に生まれた事もそうだが、苦労なく生きる才能を持っていた。

 器用貧乏とも言うが、大抵の事は人並み以上にこなせるし、それでいて生き方を縛るような突出した能力は持っていない。勉強にせよ運動にせよ、趣味的な諸々や社会性にせよ。

 死ぬためにはどれもいらない。死ぬ事で遺産として誰かに明け渡せるなら、先払いでいいからくれてやるというのに。

 ……まあ、おおまかにはそんな感じだ。死にたいというより、厳密には生きていたくない。

 そこに深い事情があるわけでもなく、永遠に続く苦痛から永遠に逃れる手段として、死を望んでいるだけ。いまもまだ生きているのは、今まで生きてきたけじめをつけるためだ。

「……ふーむ。ゴールは同じでも、私とはほとんど真逆ですね」

 カイネの口から、二本目の甘い煙が吐き出される。

「真逆?」

「そろそろ私のターン、ってとこでいいんでしょうか?」

 頷くと、彼女は苦味不在の甘ったるいコーヒーで口を潤した。

 ……本当は僕の生き地獄についてもうひとつあるけど、カイネに話しておく必要はないか。

「こう見えて私も色々ありましたが、生きる事にはなんらネガティブな感情はありません。むしろ楽しんですらいます。でも、死という事象には、生きる以上の魅力を感じている。生来の性分という点ではあなたと同じで、死ぬ事と、その先にあるであろう完全な虚無に、途轍もなく惹かれているんです。生きるっていうのは、たった一度しかない死を彩るためにある。少なくとも、私にとってはそう」

 意外と言ってしまうと失礼かもしれないが、彼女は饒舌に語った。

「人生ってケーキ作りに似ていると思うんです。生まれて、育って、一人前の人間になる。生地を作って、スポンジ焼いて、クリームで包んで出来上がり。その出来栄えと、死に際の価値は等しい。いかに工夫を凝らすが味を決めて、いかにデコレーションするかが華やかさを生む」

 そんな話を聞いて、人生をチョコレートの箱に例えた古い映画があったな、とふと思った。あれの趣旨は、人生何があるかわからない、というものだったけど。

「……その例えで言えば、カイネは死ぬにはまだ若すぎると思うけど」

「まあここまでは私の持論で、ここからが心残りのお話です。ま、シノさんと同じで、死に方と言い換えてもいいんですけど」

 カイネは膝を抱き寄せると、裸足の爪先を摺り合わせた。

「私は、最高に幸せだと思える瞬間に、死にたい」

 そんな願いを口にして、彼女ははにかむように苦笑した。

「思春期女子的なイタい願望ですよね」

「白馬の王子様、とか言い出すよりよっぽど共感できるよ。僕も、出来るならそうしたいぐらいだ。でも幸せなんて別に、この先いくらでもあると思うけど」

「イチゴを一粒だけ載せるとしたら、一皿のちっちゃなケーキと、大きなホールケーキとじゃ、ありがたみが違うでしょう? 今のうちが、一番無邪気に、シンプルな幸福を噛み締められる時期だと思うんです」

 一粒だけ、ね。たくさんあるならその方がいいとも思うが、きっとそれがカイネがここにいる理由なんだろうな。

「人間、誰だって幸せを求めながら生きています。それを味わっている瞬間に終わるのって、最高の贅沢だと思いません?」

「同感だけど、そもそもカイネの考える幸せって?」

 ひと括りに幸福と言っても、それが指し示すものは多岐に渡るし、人によって指標も違う。日常生活上の些細な出来事、誰かとの特別な時間、夢とも呼ぶべき目標を叶えた瞬間。それこそ場合によっては、他人の不幸と引き換えの、非倫理的な歪んだ形だってあるだろう。

「それがわかっていたら、見ず知らずの自殺志願者に協力を求めるほど苦労しませんよ。わかっている事があるとしたら、元いた環境では、私の求めるものは多分手に入らないだろう、って事ぐらいですかね」

「……それで家出を? 自分探しの旅と同じぐらい無謀だと思うけど」

「まあまあ。その結果こうして出会えたわけですし、終わり良ければ全て良しですよ」

「終わるのはこれからだけどね」

「ごもっとも」

 この飄々とした態度からは想像しにくいが、家庭環境に問題があったのだろうか。

「そういうわけなので、私の幸せ探し、ご協力お願いしますね?」

「お互いにね」

 こうして、互いの目標についてはおおよそ語り終わったわけだが……カイネの要望を叶える方が難易度は高そうだ。

 僕の方は、究極的には理詰めで解を得られる。だが彼女の場合、向かうべき方向性も不明なスタートで、それも本人の価値観に依りすぎる。おまけに、最高に幸せな瞬間に、と考えてはいても、自殺手段は確保していないように思える。

 ……幸せ、ね。

 僕には生きている限り無縁の概念だ。無宗教だから、死んだ後にもあり得ないけれど。



          ●

 充分休んだし暑くて汗かいたから、とカイネはシャワーを浴びに行った。

 二日目にして随分と馴染んだものだ。まあ、それぐらいの順応性がなければ家を出て放蕩しようなどと思わないだろうが。

 一人になっている間、夕飯の支度でもするかと冷蔵庫を開けてみる。昨日自殺を決行していたら腐らせるだけになると思って控えていたけど、明日は買い物に行かないと。予定外に消費量が増えたからギリギリだ……んー、二人分か。何を作れるかな。

 風呂場から水音が聞こえるようになってしばらくすると、「シノさーん」と呼ぶ声が聞こえた。

「さっき買ってきたシャンプーとか置いてきちゃったんで、持ってきてもらっていいですか?」

 了解、と返してソファ横にバッグと一緒に置かれたビニール袋を探る。元々は家族で暮らしていたとはいえ、昨日までは男一人の家だったから、連絡手段スマホと衣類だけでなくカイネに必要な日用品も買ってきた。

 袋の中からバス用品を一通り取り出す。別の袋には下着類が詰め込まれている。

「下着も持って行く?」

「あ、適当なのお願いします。ついでに一緒に入ります?」

「入らないよ」

 野暮な疑問が浮かんだ。そういえば生理用品は買っていない気がする。

 忘れただけか、僕が一緒にいたから一人の時に買うつもりだったか……いや、ないな。下着を買う時、彼氏でもない僕にどんなのが好みかと訊いてきたぐらいだ。考えにくい。

 まあそれぐらい、今更買うまでもなく持っているか……そう思うと、無意識にバッグの方に目が向いてしまった。

 ……わずかな時間、息が止まってしまう。

 バッグは半分ほど開きっぱなしになっていて、隙間から少しだけ中身が見えた。

 一瞬、箱型の何かかと思ったが、違う。

 スマホに近い面積の、くすんだ色合いの紙の束。無地の帯封できっちり留められたそれが、いくつか覗き見える。

 日中の散財を惜しまない買い物といい、お互い懐事情は気にする必要はないらしい……などという感想を抱くのは、あまりに楽観的すぎる。

 それなりにしっかりと中身の入った鞄。たまたま見えた分が全てだと思い込むのは簡単だが、安直でもある。

 替えの下着さえ後から用意するような彼女が、他に何を持ち運ぶ?

 ……身元を隠したがるのも肯けるが、これは、厄介の種なんて生易しいものではないかもしれない。

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