1-3.苦楽の交差

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 誰もが認める良き両親に恵まれ、大きな問題も不自由もなく暮らしてきた、穏やかな家庭。それが僕の育ってきた環境。

 生まれたのが僕でさえなければ幸福な家庭だったろう。僕を産んだ両親はその事に気付く事すらなかったろうが、それはせめてもの幸福と言えるかもしれない。

 両親は良き親であると共に、良き夫婦でもあった。

 二十回目となる結婚記念日、両親は旅行に出掛けた。僕は試験期間だったのもあるし、夫婦としての両親をよく知っていたから、水入らずと思って留守番する事にした。

 勉強頑張って、ご飯はしっかり食べて。そう言って仲睦まじく出発した日の深夜、しつこい電話に僕が叩き起こされた時、二人は既に物言わぬ骸になっていた。

 ホテルに向かう為に乗っていたタクシーが、飲酒運転の暴走車に追突されたそうだ。玉突きになったその事故は、先行車の被害は軽微で済んだが、暴走車の乗員は重体で搬送されその日のうちに死亡、乗っていたタクシーの運転手は一命を取り留めたものの半身不随。タクシーの後部席、衝突点に近い位置だった両親は即死だった。

 磁器婚式当日の訃報に、目まぐるしい日々が続いた。

 唐突に、謂われなく、責めるべき相手すら不在。一人残された僕を周囲は慰め、励まし、労ってくれた。

 とりわけ父の弟、叔父さんは親身になってくれた。彼の両親、僕にとっての父方の祖父母とは折り合いが悪かったそうで、若い頃にこの家を飛び出していたが、兄とは良好な関係が続いていたようだ。兄を失った深い傷に耐えながら、その息子である僕を気にかけてくれた。

 保護者を失った僕の後見人となり、この土地と家を継いでも、生まれ育った家に一人で暮らす僕の選択を尊重してくれた。そうしていま、不釣り合いに大きな家に一人暮らしをしている。

 叔父を筆頭に周囲の人々、親戚や教師や同級生たちは、奇跡的なほどに善人揃いだった。両親を失った悲しみに暮れる僕に、誰もが寄り添ってくれた。

 ……そんな恵まれた環境であるほど、僕自身の滑稽さが際立つ。そう振る舞っていただけで、悲しみなど微塵もなかったのだから。

 さすがに事が事だけに衝撃は大きかったが、それだけ。驚き以外の何もなかった。

 両親に悪感情があったわけじゃない。育ててくれた事は感謝しているし、客観的に見ても尊敬に値する人達だったと、素直に思う。

 でも、羨ましい、という気持ちも確かにあった。

 子より親が先に逝くのはごく自然な事だけど、渇望的な希死を抱く僕より早く灰になるのは、さすがに想定外だった。

 更に、不謹慎は百も承知だけど、両親の死は好都合だった。

 僕が死ぬための構想も、準備も、実行も、全てにおいて制限が取り払われたのだから。

 それに、両親の死がそれらの端緒を開いたからこそ、死にたがりの同志カイネに出会えたのだ。



 翌朝、朝食の支度をしていると、まだ少し眠そうなカイネが部屋から出てくる。

「……おはよう、ございます」

「おはよう。もう少しで出来るから、顔を洗っておいで」

 リビングから繋がっているダイニングのテーブルに、白米と味噌汁、酢橘を添えた焼鮭と、だし巻き卵を並べていく。洗面所から出てくるのを待って二人で食卓につくと、彼女はきちんと手を合わせてから箸を取った。

「朝食は食べる派?」

「あれば頂きます」

「なら作るよ。嫌いな食べ物はある?」

「ありません……けど、まさか食事まで面倒を見て頂けるので?」

「料理は好きだから苦ではないよ。口に合わなかったら、無理にとは言わないけど」

「いえ、美味しいのでぜひ。味噌汁や卵焼きで、こんな感動するとは思いませんでした」

「ありがと。食費も気にしないで。まっとうに生きるなら、遊びながら院卒で就職しても余裕があるぐらい遺してもらってるから」

 酢橘を絞って巻いた鮭皮を賞味するカイネが、探るような目を向けてくる。

「……ご両親の事が理由、って感じでは全然ないんですね」

「それで死にたがる人って滅多にいない、と個人的には思うよ」

 朝食と片付けを終え、ゆっくり腹を落ち着けていると、カイネから切り出してきた。

「そろそろ真面目な話をするべきと思うんですが、好きなだけ泊まっていいと言ってくれましたし、ちゃんと腰を落ち着けてからの方が、とも思います」

「当面はここに住む、って事でいいんだね?」

「お世話になります」

「協力関係ならその方が都合いいし、身の回りを整えてからというのは僕も同意見だ」

「わぉ、以心伝心ですね」

 要するに、色々と必要だから買い物に付き合ってくれ、という事だ。



          ●

 住処自体はあっても、今のカイネには買い揃えておかなきゃいけない物が山程ある。

 なにせ彼女の荷物は学生鞄と同じぐらいのボストンバッグ一つだけで、中身が何かは知らないが、その中に着替えすらないそうだ。

 さしあたり必要と思われる物の中で、かさばらないから、という理由で僕が提案した買い物をまず優先する事にした。



「スマホを新調、ですか……」

 秋葉原に着いた カイネの歯切れは悪かった。目の前で豪快にぶん投げて川底のゴミにしたのだから、それもやむなしだが、気が進まない様子である理由はもう一つある。

「意地悪な事を言いますねシノさんは。携帯の契約って色々必要じゃないですか。カイネっていう女の子の身分証なんてありませんよ?」

「知ってる。未成年だから親権者の同意も必要だよ。でも契約する必要はないから大丈夫。多少の不便は我慢してもらう事になるけど」

 駅から電気街に向かいながら、白ロムと呼ばれる携帯について説明する。大雑把には中古携帯端末を指すものだが、中には転売目的で取得された品もあるらしい。

「転売って、それ大丈夫なんです?」

「代理店のキャンペーンとかでバラ撒かれてる物だから、一応ルールの範疇だし問題ないよ」

 ルールから外れた物は赤ロムと呼ばれ、白ロムより比較的安値で売られているが、なにかしら犯罪が絡んでいる可能性もあるそうだから、避けた方が無難だろう。

 いまのカイネに出来ない携帯電話の契約で主となるのは、電話番号が登録されたSIMカードの貸与。端末の購入はそれに付随しているに過ぎない。白ロムを手に入れたところでSIMカードがなければ単体での通信は出来ないが、Wi-Fiは使えるから大抵の機能は使える。

 Wi-Fiは自宅にあるし、外出時は、僕が以前機種変更した際ついでに契約してほったらかしになっているモバイルルーターがあるから、それをカイネに貸して使えば問題ない。

「詳しいんですね。そういうの好きなんです?」

「僕は別に。同じクラスにガジェットオタクがいて、そんな話を聞いたことあったのを思い出して調べてみたんだよ」

「わぉ、デキる男ですねシノさん」

「……ま、趣味ではないけど、割と面白そうだし、せっかくだから僕も色々見てみるよ」

 ネット通販でも買えるが、秋葉原のような場所は選択肢が多いし、なにぶん僕だって素人だから、中古というなら現物を見れる安心感が欲しい。

 それにこういう、キレイめな店もジャンクな店も、実用性も趣味性も様々なごった煮状態を前にすると、男の性なのか心躍るものがある。



 いくつかの店を見て回った結果、デザインを気に入ったとの事で、新しめのハイエンドモデルでパステルグリーンの未使用品スマホを購入した。

 これに関しては僕が提案した事だし、いざとなれば費用は出すつもりだったのだが、カイネは迷わず自分の財布で現金払いした。僕も冷やかしで商品を物色していたが、彼女が選んだのは、最高額レベルの価格帯の品だった。



 続けて別の駅に移動しがてら、電車の中でスマホの設定を終わらせる。以前のアカウントは使わないとの事で、新しく取得していた。予想していなかったわけではないけど、同期せずに連絡先が僕だけでは、早めに買った意味があまりないな。

 さて、本題としては、先述の通りカイネの持ち物はバッグ一つ。食住は既に整っているが、衣類が絶望的に不足しているため、着替えの調達がメインとなる。

 ……はずなのだが、秋葉原から少し離れ、吉祥寺駅を降りて最初に入ったのは帽子屋。「これ可愛いですね」と白いキャスケットを買い、今度は眼鏡屋で「ティファニー感があって良いです」とターコイズグリーンのフルフレームを買った。視力は良いらしく、別に必需品ではないのだが……

 早速それらを身に着けたカイネの足取りは若干軽くなっていた。

「帽子って、髪長い方が似合うんですよね」

「そう? 似合ってる人に言われてもピンと来ないな」

「ふふ、どうも」

「暑くないの?」

「お洒落の基本は我慢ですよ。特に女子は」

「女子は大変だな」

 とか言う割にカイネはメイクすらしていない。夏休みの真っ最中、真夏の暑さの中でしていたら、別の意味で大変そうだが。

「それに一応、変装みたいなものですから」

「にしては、しっかりお洒落するつもりに見えるね」

「人の多い所では、地味に徹する方が目立っちゃいますからね。コーディネートにも気を配った方が、人相にまではあまり目が向かないものですし」

 言う事はご尤もに思える。しかし僕に素性を隠すだけでなく、街中でも注意を払うとは……思っている以上に、厄介な身の上かもしれないな。

「なにより、せっかくかっこいい人とのデートなんですから、楽しまないと」

 悪戯っぽく口角を上げるカイネに肩を竦める。いつからデートになったのか。

「……こんな子とご一緒できて光栄だよ」

「こんなに可愛い娘、って素直に言ってくれてもいいんですよ?」

 カイネは間違いなく可愛い系ではなくキレイ系で、年齢を知ってようやく僅かなあどけなさに気付けるぐらいだが、調子に乗りそうだから言わないでおく。それで振り回されるのは、ちゃんとしたデートだけでいい。

 綺麗な薔薇にはなんとやら、と言うが……飄々とした彼女の笑顔の下にあるのが、棘で済むならいいのだけど。



 先の買い物と同じ意図という事か、まずはセレクトショップでカジュアル一式を揃えてそのまま着替え、あとはファストファッションで普段使いのを買い漁る。

 吉祥寺はメンズファッションが豊富で、僕もつい色々と見てしまうのだが、いかんせん買う余裕がない。財布事情ではなく、物理的に手が空かない。彼氏よろしく荷物持ちをするつもりはあったが、いきなりこんなに買い込むか普通。

 ……まあ、それは置いといて。

 今回もまた、この何着分もの上下やら靴やらを全部、カイネが自費で支払っていた。

 秋葉原でも膨らんだ疑問が膨らむ。僕が持たされているのは比較的安物だが数が数だし、いま着ている涼しげでシックな服は、帽子に眼鏡に靴と合わせれば十万ぐらい。これらに先のスマホも加えれば、既に総額二十万は越えている。途中で数えるのをやめたけど三十万いっているか?

 いずれにせよ高校生が衝動買いみたいなノリで気軽に出せる額ではない。

 まあ、元が裕福なのかもしれないし、あるいはカイネの振る舞いを見ていれば、方法にさえ目を瞑ればそれぐらい稼いでいてもおかしくないが……

 杞憂、だろうか?

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