1-2.苦楽の交差

          ●

 勢い任せと言っていい協力関係を築いた後、彼女からの最初の要求は、今晩泊めて欲しいというものだった。終電も過ぎたような時間に若い女性が一人、おまけに訳アリとくれば、別段驚きもしなかったけど。

 ただ向こうは、橋から数分歩いて到着した我が家に驚いていた。

「こんな所にお住まいなんですか?」

 僕が住む家は、何代も前からある、都内の住居にしては広い敷地の日本家屋だ。外観こそ古臭さと風情を兼ね備えているが、改築改装を繰り返した中身は現代的で、ご近所さんの新築戸建てと比べても大差ないだろう。

「そうですけど、なにかご不満でも?」

「いえ……勝手にマンションを想像していたので。ワンルームのヤリ部屋みたいな」

「割と失礼な事を考えますね」

 門を抜け、引き戸の玄関を通りながら、そんな会話を交わす。

「そういえば今更ですけど、お名前はなんて?」

 訊いてみると、何故か彼女は「うーん」と考え始めた。

「……では、ジェーンとお呼びください」

「では、ってなんですか」

「権兵衛だと男の人っぽいじゃないですか」

 ああ……身元不明遺体ジェーン・ドゥという事か。

「外国人っぽくもないでしょう。却下します」

「えー、しょうがないですね」

 また目を伏せて考え始める彼女を、リビングの明かりを点けながら呆れて見ていると、段々と呆れが驚きに変わっていく。

 化粧っ気はなく、目立たないながらも、一度注意を向けると目が離せなくなるほど、美しく整った顔立ちをしていた。頬と顎のラインはすっきりした輪郭で、薄くも柔らかそうな桜色の唇、実際より高く見える細い鼻梁、長い睫毛に縁取られた大きな目、上品な印象の眉。パーツもバランスも非の打ち所がなくて、作り物めいてすら見えた。

「それじゃあ、カイネ、でどうでしょうか」

 閃いた、とばかりに顔を上げた彼女とばっちり目が合った。

 無邪気でいて小悪魔的な笑みを向けられる。

「見惚れちゃいました?」

 何も言わず、肩を竦めて答える。容姿の事は自覚的らしい。

「……それにしましょう。どうせ偽名なんでしょう?」

「源氏名とでも思ってください」

 たしか名無しの権兵衛は遊女に由来する、なんて説がある。妙な予感がするけど、いまはまだ確かめないでおく方が無難か。

「それで、あなたの事はなんてお呼びすれば?」

「では、ジョンと呼んでください」

「なるほど。シノさん、と呼びますね」

 意趣返しを完全にスルーして、カイネと名乗った彼女は玄関の方を指差した。

「表札に書いてありましたから。篠咲しのさき、と」

「……篠咲悠都ゆうとです。好きに呼んでくれて構いません」

「あらためて、よろしくお願いしますね、シノさん」

 差し出された手を握り返す。ちゃんと生きた人間の体温があった。

 帰ってきたばかりなので一休みしよう、とソファに向かい合って座る。「広いし快適そうなお家ですね」と彼女は部屋に目を巡らせながら言う。

「ところでカイネさん、一つ気になっている事があるのですが」

「はい。パンツの色とかですか?」

「……言葉遣いです。あなたはタメ口で結構ですよ。年上の方に敬語を使われると、どうにも虫の居所が悪いので」

 怪訝そうに首を傾げながら、僕を凝視してくる。

「私よりシノさんの方が年上かと思ってましたけど」

「それはないですね。僕、高校生ですし」

 少なくとも煙草を吸い慣れている人との年齢の上下は決まり切っている……はず、なのだが。

「わぉ……大学生か新卒ぐらいだと思ってましたから、意外です。ちなみに何年生ですか?」

「二年ですよ。十七歳になったばかりです」

「なら、やっぱり私の方が下ですね。高一ですから。留年もしてない十六歳です」

「…………」

 何から言うべきか迷って口を噤んでいると、カイネは片膝を抱えて、また悪戯好きそうな笑顔を見せてくる。

「タメ口で結構ですよ。年上の方に敬語を使われると、どうにも虫の居所が悪いので」

 僕が言った言葉をそのまま返される。煙草を抜きにしても、普通に年上かと思ったのに。

「私を年上だと思って話していたんですね。大人っぽい感じの人かと思いましたけど、そういう所はちょっと可愛いですね」

「大人びているって感想、そのままカイネに返すよ」

「わぉ、煙草が大人の魅力を引き出してくれたんでしょうか?」

「あんなの臭いだけだ」

「お嫌いですか?」

「……吸いたかったら好きにすればいいよ」

 カイネは今までと少し質の違う笑みを浮かべた。なんというか、年相応の。

「大人びている、って言われるの、なんとなく嬉しいものですね」

 多分、僕にそんな事を言われる筋合いはない、と思われそうだけど。

 こんな風に笑う少女が何故、死にたいなどと考えたのだろう。



          ●

 一休みしたしシャワーを浴びたいと言うカイネは浴室に行った。

 その間、僕は彼女が使う寝床を用意しておく。

 古くからあるこの家は広く、部屋も多い。僕や両親の個室に夫婦共用の寝室、客間もあるし余って物置化した部屋、地下室もある。

 客室もあるが、リビングを挟んで僕の部屋から目の届く所にある母の部屋を貸すことにした。

 元々片付けられている部屋にあるのはベッドとクローゼットだけ。やる事といえば、よく見れば跡が見える程度に積もった埃を払い、窓を開けて換気するだけ。

 文句を言われたらリビングのソファで我慢してもらうしかない。客間だって大差ないし、他にすぐ使えるのは僕の部屋だけ。当然除外だけど。



 新しいシーツも敷いて部屋を出ると、丁度カイネも風呂場から出て来たところだった。

 彼女が身に着けているのは、厚手のTシャツと臙脂色のハーフパンツ。着替えを持っていないというので、作業着にでも使えるかと取っておいた中学時代の夏用ジャージを引っ張り出してきた。

 平均的な体格の僕にはもう小さいとはいえ、少女の身体にはやや大きく、むき出しの手足や首筋の細さが際立っている。

「シノさんはこういうのが趣味なので? ワイシャツはよく聞きますけど」

 ……いよいよカイネの考えについて、確信に近づいていく。事情は知らないが、最初から距離が近いし、まるで抵抗感を見せないあたり、こうして泊まり歩くつもりだったんだろう。

「ま、遅い時間ですから、もう始めますか」

 そう言いながらカイネが身を寄せてきて、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが鼻先をくすぐる。

 僕はその細い肩を、ゆっくり押し返す。

「……シノさんも先にシャワー浴びてきます? 私は気にしませんが。それとも、やっぱり別のに着替えるとか」

「言っておくけど、僕にその気はないよ」

 きょとんとした顔になって、まじまじと見上げてくる。

「泊める見返りに身体を、なんてのは最初から考えてない」

「……では、宿代として何を差し出せば?」

「いらないよ。心残り解消に協力してくれるんでしょ? 見返りならそれで充分」

「そこは私も協力してもらいますからイーブンですし、お泊りは別件かと」

「君に協力する事だって、その過程で新しい視点を得られるかもしれない。僕にとってメリットこそあれ、貸しになるような損はない」

「……変わった人ですね。この状況で手を出さないとは」

「不満?」

「いえ、それならそれで楽ですし、構いませんけど」

 相変わらず不思議そうにしている彼女に、冷蔵庫から麦茶を出してやる。

 ソファで一気に飲み干すと、そのままこてんと寝転がった。

「しかし意外ですね。若い男性の心残りなんて、どうせ死ぬ前に一度ぐらいセックスしてみたい、ってのだと思っていたんですが」

「ひどい偏見だ」

「失礼しました。でもまぁ見た目的には、控えめに見ても二人か三人は経験してそうですね」

「お世辞をどうも。生憎と童貞だよ」

「わぉ、これまた意外……もしかして、そっちの人だったりします?」

「面白味なくて悪いけど、その辺は多数派だよ僕は」

 こんな問答をしていても仕方ない。

 これからの事はまた話すとして、今日はもう休もうと提案すると、カイネはゆっくり頷いた。もし僕がそのつもりなら応じる気でいたくせに、寝転がってから瞼が少し落ちている。時間も遅いし、疲れているんだろう。

「部屋は用意しておいたから使って。アテがないなら好きなだけ泊まっていっていい」

 指し示した母の部屋を見た後、僕を見つめてくる。

「今日はたまたまお一人なのかと思って詮索しませんでしたが、一緒に暮らしている方はいらっしゃらないんですか? ……ご家族、とか」

 気にするのは当然か。家族もペットも見当たらない、高校生一人で住んでいる様子にしては、この家はいささか立派で広すぎる。

「兄弟は元々いない。両親も、いまはいない」

 別に隠す事でもないし、躊躇う事もない。

「半年前に死んだよ」

 具体的に話すにはもう遅い時間だから、「また明日」とだけ告げて僕は自室に引っ込んだ。

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