1-1.苦楽の交差
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目の前にぶら下げたロープをつついて揺らし、その輪に首を通す想像をしてみる。
締め付ける圧迫感、狭まっていく呼吸と意識、苦痛の果てに出来上がる死体。朝になれば見つかって、僕の死は学校や親戚に伝わるのだろう。気にかけてくれている叔父さんは半年前のように嘆くだろうな。この夏休みが明けたら学校にも大きな影響が出ると思うけど、同じクラスの
……しかし、気乗りしないな。準備したまではいいものの、既に目の前にある死の門をくぐる事に、魅力を感じない。
首吊りは最も楽な自殺方法だと聞いた事があるし、川沿いにある空家の裏手というなかなか良いロケーションまで見つけたのに、この死に方じゃない、という違和感がしこりを残す。
自分に呆れる結果だけを残して、空家を後にする。
また、実行に移せなかったな。
どこに不満点があったかと思案しながら家路につく。
都内ながら住宅と年季の入った個人商店しかない町だけあって、日付も変わろうというこの時間には、明かりの漏れる家も半分ぐらいはあれど外を出歩く人はいない。川を跨ぐ橋の真ん中で、欄干に肘かけながら煙草を吸っている若い女性がいたぐらい。
わからない。過去の失敗と比較すると改善したはずだが、最初に断念した時と同じ感覚だった。自分自身の事なのにわからないとなると、どこにも答えがない難問だ。
――真夜中の住宅街の橋の上、唐突に、ピアノの独奏が鳴り響く。
音のする方に目を向けると、一服している女性の手元からだった。遠目に見える光からして、スマホの着信音らしい。
他人の電話を盗み聞く趣味はない。さっさと帰ろうとした足を、女性の妙な挙動が止める。
大きく振りかぶり、川面に向けてスマホをぶん投げた。
美しい音色がみるみる遠ざかり、一瞬だけ水飛沫を照らすと、真っ暗な水底に消えていく。
面食らってしまい、立ち去るべきか考えあぐねている間に、女性が振り向いた。
「あのまま吊らなかったのは、なにか心残りでもあるからですか?」
……立ち去る方に舵を切りかけていたけど、あまりよろしくなさそうだ。
「見ていたんですね」
「遠目にですけど」
「もし吊っていたら、助ける気だったとか?」
だとしたら決行しなくて正解だった。ロープがしっかり喉に食い込めば、血流の絶えた脳は十秒足らずで意識を手放す。首吊りが楽だと言われる所以だ。しかし当然、死に至るまではもっと時間がかかる。その間に救助されてしまい、気付くと病院のベッドだった、なんて最悪だ。
ましてやこの女性が介入したとして、そこそこの距離があるし、宙吊りの人間を下ろすのはすぐには出来ない。生存した上に脳に蓄積されたダメージで障害を負う、なんて事になったら冗談にしても笑えない。
そんな、過ぎた懸念を抱いていたのだけど。
「まさか。そこまでいったら、もう手伝える事なんてないでしょう?」
強い違和感に、おかしな話だけど、安心した。
だからだろうか。家に帰ろうとしていた足は、自然と彼女の隣に向かっていた。
普通、助けると言ったら救助という意味だろう。それを手伝うと来るとは。未遂現場を目にしておいて、本人にそう口に出来る人間がどれだけいる?
スマホを投げ捨てた川面へ視線を戻した女性の口元で、煙草がわずかに火勢を強める。バニラか何かの甘いフレーバーを含んだ煙に「ぉあ」と間抜けな声が混じった。
「もしかして、助けるって介錯の事じゃありませんでした?」
「まあ、たらればの話をしてもしょうがないです」
挨拶に毛が生えた程度の会話だったけれど、わかった事がある。
この見ず知らずの通りすがりでしかない女性が、僕と同類、ないし近い性質、形のない歪を肉と皮で包んだ人間、という事。少なくとも、目の届く範囲で人が死んでも動じない程度の。
少し、高揚しているな。無視して立ち去らなくてよかった。
「一本、もらっても?」
彼女は少し意外そうに僕を見たが、懐からソフトパッケージの箱を取り出すと、手慣れた所作で一本だけつまみ出せるように差し出してくる。ピース、という銘柄らしい。
見様見真似でくわえ、そういえば火ももらわないと、と思ったところで彼女がショートヘアを揺らしながら顔を近づけて来た。街灯も遠くにある暗闇で顔はよく見えないけど、口元が小さく笑みを作っているのだけは見えた。形の良い薄めの唇がくわえた火に照らされて。
こういうの、映画でしか見た事がないな。
名前も知らない初対面の人と、戸惑いつつ肌が触れるほど近くで、煙草から煙草に火を移す。
……煙草って初めて吸ってみたけど、良いものではないな。苦味と甘い匂いを含んだ煙は粘ついた砂のようで、慣れない喉が不快感にひりつく。
「心残りといえば、そうかもしれません。死んでしまえばどうでもいい、下らない意地のようなものですけど」
最初に投げられた問いへの返事。自死を望んだ事情ではなく、自死を断念した理由。
生きる事に執着のない僕にとって、さっき命を絶つ事はベターに思えた。けれど何かが引っかかっているのは確かで、それを解消できない限り僕にとってのベストはあり得ない。
……導き出せるだろうか、僕に。
「ところで、あなたはあなたで何か事情がありそうですね」
「まあ……見てましたよね、さっきの」
言わずもがな、着信中のスマホを豪快に投げ捨てた事。
「…………」
「…………」
「訊かないんですか?」
「そちらも深く詮索はしないでくれましたし、聞いて欲しそうにも見えません」
「……そうですね。話せと言われても、上手く言えそうにありません」
微妙な沈黙が流れる中、彼女からの視線を感じる。僕から見た彼女と同じように、この暗闇にあっては形貌も見えないはずだけど、遠くから僕とロープを視認出来たぐらいだし、夜目が利く方なのかもしれない。
「あなたは面白い人ですね」
「なら死ぬのはやめて芸人でも目指しますかね」
「それはつまらないですけど」
そもそも面白い要素なんかどこにもなかったが。
「さっきまで首吊りロープを前にしていたのに、とても平静に見えます」
「希死念慮に憔悴が伴うとは限りませんからね」
「ごもっとも」
「僕はただ、死に方にこだわりみたいなものがあるだけです」
「なるほど、さっきは違ったんですね」
彼女がまた小さく笑った気がした。そしてすっかり短くなった煙草を、携帯灰皿に放り込む。
「奇遇です。私も死にたいんですが、こだわりというか、心残りがあるんですよ」
そうして少し屈んで僕の顔を覗き込んでくる。うっすらと見えるようになってきた切れ長の大きな目が、心の中まで見透かそうとするように捉えてきていた。
同じ種類の人間と出会えた。僕が内心そう思っている事を、察したのか。
「一緒に心残りの解消といきませんか?」
見ず知らずの女性に提案するのは気が引けたけど、向こうから言い出すのなら、僕の心はとうに決まっていた。見据える澄んだ目が夜闇に映えて綺麗だからでも、不慣れなニコチンに思考が霞んだからでもなく、手を取る価値があると思ったから。
最初だけで口にしていなかった煙草をもう一度だけ吸う。今後自分では吸わなくても、多少は慣れておくべきか。
「ところでこの辺、路上喫煙禁止なんですよ」
「……もらい煙草しておいて、それ言います?」
「悪い事とわかっていて、共犯になってしまいました」
別に、話の流れがこうなると予見して煙草をもらったわけではなく、僕にとっての未知を知る事が肝要と思っただけだけど。
まだ半分ほど残っている煙草を差し出す。灰皿を出してくれという意味だったのだが、彼女は細い指で摘み取ると、自分の口に運んで一吸いしてから携帯灰皿に捨てた。
「それじゃ、私達の共犯関係を続けましょうか。叶うなら、死ぬまで」
この平熱で奇妙な出会いが、僕達の、灰に至るまっすぐに歪んだ門出だった。
劇的な邂逅じゃない。それでいいし、求めてもいない。自殺幇助し合う関係には不似合いだ。
それでも、もしも彼女と共にする道のりに物語があるのなら、その主役は僕じゃない。
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