1-1.苦楽の交差

          ●

 目の前にぶら下げたロープをつついて揺らし、その輪に首を通す想像をしてみる。

 締め付ける圧迫感、狭まっていく呼吸と意識、苦痛の果てに出来上がる死体。朝になれば見つかって、僕の死は学校や親戚に伝わるのだろう。気にかけてくれている叔父さんは半年前のように嘆くだろうな。この夏休みが明けたら学校にも大きな影響が出ると思うけど、同じクラスの納羽なんば風璃が持ち前の陽気さで持ち直してくれるはずだ。

 ……しかし、気乗りしないな。準備したまではいいものの、既に目の前にある死の門をくぐる事に、魅力を感じない。

 首吊りは最も楽な自殺方法だと聞いた事があるし、川沿いにある空家の裏手というなかなか良いロケーションまで見つけたのに、この死に方じゃない、という違和感がしこりを残す。

 自分に呆れる結果だけを残して、空家を後にする。

 また、実行に移せなかったな。



 どこに不満点があったかと思案しながら家路につく。

 都内ながら住宅と年季の入った個人商店しかない町だけあって、日付も変わろうというこの時間には、明かりの漏れる家も半分ぐらいはあれど外を出歩く人はいない。川を跨ぐ橋の真ん中で、欄干に肘かけながら煙草を吸っている若い女性がいたぐらい。

 わからない。過去の失敗と比較すると改善したはずだが、最初に断念した時と同じ感覚だった。自分自身の事なのにわからないとなると、どこにも答えがない難問だ。

 ――真夜中の住宅街の橋の上、唐突に、ピアノの独奏が鳴り響く。

 音のする方に目を向けると、一服している女性の手元からだった。遠目に見える光からして、スマホの着信音らしい。

 他人の電話を盗み聞く趣味はない。さっさと帰ろうとした足を、女性の妙な挙動が止める。

 大きく振りかぶり、川面に向けてスマホをぶん投げた。

 美しい音色がみるみる遠ざかり、一瞬だけ水飛沫を照らすと、真っ暗な水底に消えていく。

 面食らってしまい、立ち去るべきか考えあぐねている間に、女性が振り向いた。

「あのまま吊らなかったのは、なにか心残りでもあるからですか?」

 ……立ち去る方に舵を切りかけていたけど、あまりよろしくなさそうだ。

「見ていたんですね」

「遠目にですけど」

「もし吊っていたら、助ける気だったとか?」

 だとしたら決行しなくて正解だった。ロープがしっかり喉に食い込めば、血流の絶えた脳は十秒足らずで意識を手放す。首吊りが楽だと言われる所以だ。しかし当然、死に至るまではもっと時間がかかる。その間に救助されてしまい、気付くと病院のベッドだった、なんて最悪だ。

 ましてやこの女性が介入したとして、そこそこの距離があるし、宙吊りの人間を下ろすのはすぐには出来ない。生存した上に脳に蓄積されたダメージで障害を負う、なんて事になったら冗談にしても笑えない。

 そんな、過ぎた懸念を抱いていたのだけど。

「まさか。そこまでいったら、もう手伝える事なんてないでしょう?」

 強い違和感に、おかしな話だけど、安心した。

 だからだろうか。家に帰ろうとしていた足は、自然と彼女の隣に向かっていた。

 普通、助けると言ったら救助という意味だろう。それを手伝うと来るとは。未遂現場を目にしておいて、本人にそう口に出来る人間がどれだけいる?

 スマホを投げ捨てた川面へ視線を戻した女性の口元で、煙草がわずかに火勢を強める。バニラか何かの甘いフレーバーを含んだ煙に「ぉあ」と間抜けな声が混じった。

「もしかして、助けるって介錯の事じゃありませんでした?」

「まあ、たらればの話をしてもしょうがないです」

 挨拶に毛が生えた程度の会話だったけれど、わかった事がある。

 この見ず知らずの通りすがりでしかない女性が、僕と同類、ないし近い性質、形のない歪を肉と皮で包んだ人間、という事。少なくとも、目の届く範囲で人が死んでも動じない程度の。

 少し、高揚しているな。無視して立ち去らなくてよかった。

「一本、もらっても?」

 彼女は少し意外そうに僕を見たが、懐からソフトパッケージの箱を取り出すと、手慣れた所作で一本だけつまみ出せるように差し出してくる。ピース、という銘柄らしい。

 見様見真似でくわえ、そういえば火ももらわないと、と思ったところで彼女がショートヘアを揺らしながら顔を近づけて来た。街灯も遠くにある暗闇で顔はよく見えないけど、口元が小さく笑みを作っているのだけは見えた。形の良い薄めの唇がくわえた火に照らされて。

 こういうの、映画でしか見た事がないな。

 名前も知らない初対面の人と、戸惑いつつ肌が触れるほど近くで、煙草から煙草に火を移す。

 ……煙草って初めて吸ってみたけど、良いものではないな。苦味と甘い匂いを含んだ煙は粘ついた砂のようで、慣れない喉が不快感にひりつく。

「心残りといえば、そうかもしれません。死んでしまえばどうでもいい、下らない意地のようなものですけど」

 最初に投げられた問いへの返事。自死を望んだ事情ではなく、自死を断念した理由。

 生きる事に執着のない僕にとって、さっき命を絶つ事はベターに思えた。けれど何かが引っかかっているのは確かで、それを解消できない限り僕にとってのベストはあり得ない。

 ……導き出せるだろうか、僕に。

「ところで、あなたはあなたで何か事情がありそうですね」

「まあ……見てましたよね、さっきの」

 言わずもがな、着信中のスマホを豪快に投げ捨てた事。

「…………」

「…………」

「訊かないんですか?」

「そちらも深く詮索はしないでくれましたし、聞いて欲しそうにも見えません」

「……そうですね。話せと言われても、上手く言えそうにありません」

 微妙な沈黙が流れる中、彼女からの視線を感じる。僕から見た彼女と同じように、この暗闇にあっては形貌も見えないはずだけど、遠くから僕とロープを視認出来たぐらいだし、夜目が利く方なのかもしれない。

「あなたは面白い人ですね」

「なら死ぬのはやめて芸人でも目指しますかね」

「それはつまらないですけど」

 そもそも面白い要素なんかどこにもなかったが。

「さっきまで首吊りロープを前にしていたのに、とても平静に見えます」

「希死念慮に憔悴が伴うとは限りませんからね」

「ごもっとも」

「僕はただ、死に方にこだわりみたいなものがあるだけです」

「なるほど、さっきは違ったんですね」

 彼女がまた小さく笑った気がした。そしてすっかり短くなった煙草を、携帯灰皿に放り込む。

「奇遇です。私も死にたいんですが、こだわりというか、心残りがあるんですよ」

 そうして少し屈んで僕の顔を覗き込んでくる。うっすらと見えるようになってきた切れ長の大きな目が、心の中まで見透かそうとするように捉えてきていた。

 同じ種類の人間と出会えた。僕が内心そう思っている事を、察したのか。

「一緒に心残りの解消といきませんか?」

 見ず知らずの女性に提案するのは気が引けたけど、向こうから言い出すのなら、僕の心はとうに決まっていた。見据える澄んだ目が夜闇に映えて綺麗だからでも、不慣れなニコチンに思考が霞んだからでもなく、手を取る価値があると思ったから。

 最初だけで口にしていなかった煙草をもう一度だけ吸う。今後自分では吸わなくても、多少は慣れておくべきか。

「ところでこの辺、路上喫煙禁止なんですよ」

「……もらい煙草しておいて、それ言います?」

「悪い事とわかっていて、共犯になってしまいました」

 別に、話の流れがこうなると予見して煙草をもらったわけではなく、僕にとっての未知を知る事が肝要と思っただけだけど。

 まだ半分ほど残っている煙草を差し出す。灰皿を出してくれという意味だったのだが、彼女は細い指で摘み取ると、自分の口に運んで一吸いしてから携帯灰皿に捨てた。

「それじゃ、私達の共犯関係を続けましょうか。叶うなら、死ぬまで」

 この平熱で奇妙な出会いが、僕達の、灰に至るまっすぐに歪んだ門出だった。

 劇的な邂逅じゃない。それでいいし、求めてもいない。自殺幇助し合う関係には不似合いだ。

 それでも、もしも彼女と共にする道のりに物語があるのなら、その主役は僕じゃない。

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