4 王子のめざめ
暗い。つらい。苦しい。
アダンはもがいていた。魔王城の裾野に広がる迷宮に足を踏み入れ、むりやり転移させられたのはわかった。問題はそこからだった。
濃い、呪いそのもののような気配がした。
たとえば悪神の呪具の檻に直接封じられるような。
自分が、自分ではなくなる――……
『――』と名乗る魔族の女性に、ぞんざいに顎をとられた。その時点でようやく、石の床にじかに転がされていることに気づいた。
女性の言葉遣いは淑やかなものだったが、裏側に隠された本性を見抜けないほど
嘲り。値踏み。愉悦。
まるで大昔に廃止された奴隷の身に落とされた気分だった。想像の範疇ではあっても。
目の前の女性ではない、何者かに心に
――――従エ。
嫌だ。私はリューザニアの。
――――我ガ下僕トナルガイイ。サスレバ、全テヲ与エヨウ。
すべて……?
意識がぼんやりと白濁し、女性の瞳に魅入られはじめた。
弧を描く唇のかたちに鼓動が跳ねた。よくない情動だ。
(だめだ、このままでは)
「! っ、やめろ」
「これは定め。そなたは我のもの。そうだな、
「う……」
強引にかさねられた唇は口づけというより、
(違う! 私は!)
――――我丿敵を葬リシアトハ、コノ躰ト娶セテヤロウ。好キニ
ぷつり、と、そこで、アダンの記憶はいちど完全に途切れた。
行いについていけない。心を守るためだった。なのに、女は容赦なく高濃度の酒に似た快楽を与え続ける。
ふつうの男なら間違いなく屈服するだろう。あるいは気狂いする。それほどの絶望に満ちた精神の支配下で。
(光……? どこ、から)
アダンの体は、再び自由を奪われていた。
今度はべつの人物から。物理的な拘束だった。
後ろから羽交い締めにされ、身動きできないところを前方からやわやわしたものに抱きつかれる。
嫌ではなかった。光は少女のかたちをしていた。
まとうのは朝焼けの色。そう、あかがねの――
――――どうか戻って。アダン様……!
「……ティナ……?」
「アダン様! 良かった、元に…………っ!?」
「あっ、おい待てアダン!」
静止の声は耳に入らなかった。
体の隅々まで己が行き渡る感覚に、感動のあまり、アダンは無意識の衝動に従った。
抱擁を通じて光を分け与えてくれた少女に、えも言われぬ気持ちが湧き起こる。
こんなにも貪欲に『何か』を求めるのは初めてかもしれなかった。
つまり結果として。
ぴたりと寄り添っていた華奢なティナの腰と後頭部に手を添え、顔をむりやり上向けて口づけをしていた。
皮肉にも、それによってティナの魔力は爆発的な“浄化”をアダンのなかにもたらした。
大騒ぎになったのは周囲だった。
「いつまで……やってんだ、エロ王子!!」
「正気に戻らねぇんなら、そろそろぶっ叩くがいいか」
「ティナ様! おいたわしい……!!!」
「っ、ルーク、ウィレト。ごめん、大丈夫……だから」
「ンんんなわけないだろッ」
「まったくです!!! 嘆かわしい!!!」
「えっ。これは…………い
「目ぇ覚めたか、あほたれ」
「ギゼフ!? す、すまない。私は」
「オレじゃない。謝る相手が違うだろ、ほら」
「あ」
苛立たしげな、それでいて安堵を覗かせる旧知の魔法使いが、アダンの後ろを指し示す。
振り向いたとたん、アダンは凄まじい勢いで頭をフル回転させた。
……………………覚えている。
身の裡を浸すおぞましい闇を祓ってくれた、光の持ち主を。彼女は今や聖布を剥がれ、暁色の髪が露わとなっている。
鬼族の少年が彼女を支え、勇者は離れた場所まで転がった
そして聖布がアダンの右手に握られているということは。
(!!!!!)
「すっ、すまないティナ! 私としたことが何てことを」
「いえ……その……お気になさらず。事故みたいなものなので」
「事故」
頬を染めたティナはそれきり、ふい、と顔を逸らしてしまった。
うわあ、と、今度は同情めいた視線が一斉に集まる。なぜなのか。
アダンは、よくみれば傷だらけのギゼフ、もっとぼろぼろのルーク、消耗の激しそうなウィレトを順に見つめる。ティナとルークの向こうにはゾアルドリアが。すなわち彼女が単身で押さえ込む“セレスティナ”がいた。
(そうか。たしかにそう名乗っていたな)
いま見れば本質は歴然だった。
予備知識も与えられていたのに、なぜああもあっさり敵の術中に嵌ってしまったのか。
理由はわかる。自分は。
「……恥ずかしいな。あんなモノに見透かされるだなんて」
「アダン様?」
視線を戻したティナは、怪訝そうに眉をひそめる。
アダンはゆっくりと彼女に歩み寄った。
悔恨、懊悩、贖罪。
筆舌に尽くしがたい様々な感情が胸中を吹き荒れるなか、アダンは見つけてしまった。
真っ白な聖布を、ふわりと波打つ赤髪に掛ける。
一瞬閉じられ、再びひらかれた真っ青な瞳に胸が高鳴る。
とうとう、自覚してしまった。
剣を外して足元へ。
驚愕のまなざしを一身に浴びながら、
「聖女ティナ。貴女に我が剣を捧げよう。今後、私を王族として扱う必要はない」
「えっ」
「君が私を選ばなくとも、私は君のものだ。命ある限り」
「で……ですが、アダン様」
あぐあぐと、顔を赤くも青くもさせるティナに、アダンはできるだけ素直な感情を込めて微笑んだ。
「様はいらない。『アダン』でいい。私は、君に救われたんだ」
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