6 薄明かりの迷宮(5)

「えっ!? 淫魔……さっきのが?」

「らしいぜ」


 投擲した剣をさっと回収したルークは、起き上がったティナにちらりと目を遣った。

 はだけられた胸元に続く白い首筋で視線を止め、頬を染める。むう、と口の端を下げた。


「傷がある。噛まれたな。えっと……薬は」

「あ、大丈夫。これくらいなら癒せるわ」

「そうか?」

「ええ」


 ――そういえば、肌に違和感があった。

 噛み傷はもとより、きつく吸われたらしい。このままでは目立つあざとなる。

 元々、この体ティナはリューザ神の加護が篤い。無意識の湿布薬が途方もない力を秘めた回復薬となるように、手を当てて念じるだけで痛みは引いた。

 それでも指でなぞると、ぴりりとした感触が走る。


(悪いことをしたわ。残らなきゃいいんだけど)


 眉間に皺を寄せ、体の持ち主への義理立てに頭を悩ませていると、ふと覗き込まれていることに気づいた。

 息を止め、思わず見つめ返す。


「ルーク……?」

「お前は…………今は、『セレスティナ』? それとも『ティナ』?」

「え」

淫魔あいつらは、カーバンクルが言うには初代勇者の代に滅ぼされたらしくてさ。目当ての人間の好みの姿になって現れるって聞いた。…………その…………さっきの奴は『俺』だったから。つまり」

「!」


 反射で、こちらまでどんどん顔が赤くなってしまう。

 ――いやいや、ちょっと待て。


 『私』は……?


 

(ルークが来る前。魔物は最初、


 それはなぜなのか。たまたま思い出したからなのか。それとも?

 自分で自分の心が全くわからない。戸惑いのままに言葉は見つからず、ただ、何か言うべきだと焦燥感に駆られた。


「ルーク。私、は」

「俺は……、望みを持っていいってこと? 魔王を倒して、お前の意識を取り戻せたら。お前に――ティナに、もう一度逢えたら」

 

(!!)

 ぎゅっ、と刺すような痛みに胸元を掴む。

 ――喜び、歓び。急激な高揚。

 苛むようなこれは間違いない、『ティナ』の感情ものだ。

 どんなに押し殺したとしても抑えきれるはずのない、魂の叫び。彼女は生きているから。同じ心で。同じ体で。


 では――……『私』は?


 相反して、打ち沈むおりのような苦さが生まれた。目覚めたあとは『ティナ』として振る舞い、扱われてきたから、余計にだった。



 ――けれど。


 今の自分に、こんなモノは必要ない。

 こうしている間にもハルジザードは民を食い続けているかもしれない。

 在位期間は無いに等しかったが、『魔王セレスティナ』は、正当なる魔族の王だった。こんなことで浮かれ、沈んでいる場合ではない。それらを戒めのように、改めて思い出す。


「私は」

「うん。『セレスティナ』だよな。でも、届いてる気がする。――だから、言っとく。絶対取り戻してやるからな。ふたりとも」

「……っ……!」


「わっ。ティナ?」


「う、ごめん。何でもない。何でもないの」


 不意に目じりからこぼれた雫を、慌てて手の甲で拭う。

 ルークは神妙な顔で近寄る。そうして、自分の胸当てと泣き顔の幼馴染を見比べ、躊躇したあと抱き寄せた。

 コツン、と、額のサークレットがぶつかる。

 後頭部に優しく手を添えられ、ずいぶんと控えめな抱擁なのだとようやく気づいた。



(変なひと。前は有無を言わさず……)



 そこまで考え、ハッと頭を上げる。

 期せず、相手の顎に頭突きしてしまい、ルークが呻いた。


「いてッ!」

「ねえ、ルーク、ほかの皆は!?」

「あー、あいつらな。うん」


 みずからの顎をさすりながら、ルークはもごもごと答えた。


 カーバンクルと一緒だったこと。

 迷宮内に留まるのはおそらく、自分たちとキュアラ。それにウィレト。残りは魔王城ではないかということを。


 さあっとティナの血の気が下がる。「大変じゃない」


「そだな」

「〜〜どうしてそんなに落ち着いてるの!?」

「うわわっ、待て、落ち着けティナ」

「落ち着けるわけないでしょう……!」


 胸ぐらを掴み、がくがくと揺さぶること少々。

 ルークが再び口をひらく前に突如、爆発音が響いた。振動が床越しに伝わり、ぎょっとする。

 力を緩めたティナの腕をとり、きびすを返そうとする勇者の顔を見上げた。


 緑の瞳は、すでに来た道の先へと向かっている。


「ルー、ク?」

「二手に別れたんだ。分岐路があって、片方じゃウィレトの声がしたから。あっちはあっちでやばそうだったから、カーバンクルに任せてある。たぶん、今のはだ」



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